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夕闇に沈むモレの橋

「この絵の場所を知りませんか」

フォンテーヌ・アヴォンの閑散とした駅舎で、ぼくは息を切らしながら駅員に尋ねた。正確には、ガラケーに保存していたその絵の画像を差し出した。充電はもう残りわずかしかない。

聞き取れないはずのフランス語でも「知っている」と言っているのがわかった。彼は線路の下り方面を指さして、2つ先の駅で降りろとだけ教えてくれた。橋の詳しい場所までは、知らないようだった。

晩秋のパリ郊外。時計の針は午後4時半を回っている。日が暮れるまであと30分もないであろうことは、駅に戻ってくる道で振り切ってきた冷気が告げていた。

地下道をくぐって反対側のプラットホームに渡ると、列車の到着を知らせるチャイムが薄暗くなった構内に鳴り響いた。一生慣れることのなさそうな不穏なサウンドに、また肩をすくめる。

乗り込んだ列車が重い腰を上げるようにゆっくりと動いた。窓の向こうに広がるフォンテーヌブローの森が、空と混じり始めていた。


--*--



「じゃあまた日本で」

そう言って友人と別れて乗り込んだブリュッセル発の特急列車が、パリの北駅に着いたのが今日のお昼前。まずはセーヌ川沿いを散歩するのが粋だろうということで、川面を眺めながらあてもなくぶらつくことにした。

立ち込める灰色の雲が、街の隅々にまで薄いベールをかけている。

留学先で出会った友人たちとの再会を期して始めたヨーロッパ旅行。計画の甘さがたたり、限られた日数でしか旅程を組めなかった。訪れる都市ごとに、ぼくは速度を増す弾丸のごとく散策をしている。パリは、ヨーロッパをまわるなら外せないということで立ち寄った中継地だった。

川縁をのんびり歩いて感じる空気はどこか懐かしい。その正体が生まれ故郷の亀戸を流れる横十間川の記憶だと気付いてからは、大それた思い違いを臆することもなく胸を張って歩くことにした。

シテ島にかかるポンヌフを渡っていると、曇り空をバックに写真を撮る子連れの家族を見かけた。耳慣れた英語が聞こえたから、さしづめアメリカから来た観光客だろう。ここがこの街に残る最古の橋だと言われても、ぼくはそうかと思うだけでデジカメを向けることもしなかった。


お腹が空いていた。

満を持してルーブル美術館の中庭に足を踏み入れた。ガイドブックで予習していたガラス張りのピラミッドは、思っていたよりずっと現代的に見える。この中庭の地下に広大な美術館があるというのは俄かには信じがたかったが、地下入ってすぐのナポレオンホールを目にした瞬間、数時間で館内をすべて回ろうと思っていた自分の読みの甘さに愕然とした。

幸いそれほど並ばずにチケットを買えたので、売店でサンドイッチとコーヒーの簡単な昼食をとることにした。高めの白いカフェテーブルには椅子が付いておらず、疲れた足を休めるにはテーブルにもたれかかるしかない。束の間の休憩を終え、岩のように硬いパンを何とかコーヒーで流し込んだ。


春に就職活動を終えて色々なジャンルの本に手を出すなか、特に惹きこまれたのが美術史だった。

1年前、留学先で履修した西洋美術史のゼミで興味を抱いたのがきっかけだった。帰国後、高階秀爾の『名画を見る眼』をはじめとしためぼしい美術史の本を読み漁ってきた時間が、広い館内を歩き回る原動力になっていた。美術という乗り物で、歴史は縦横無尽に旅することができると知った。

ハルス、クロード・ロラン、ラ・トゥール。モナリザを守る防弾のガラスケースに殺到する人混みをかき分け、見覚えのある画家の絵をスタンプラリーする。鑑賞と呼ぶにはほど遠かったが、肉眼で捉える名画はどれも思い描いていたよりずっと力強く、確かに生きていた。

そんな熱意も、古代アフリカ美術の彫刻を前にほとぼりが冷めた。向き合っていると違う世界に連れていかれそうになる。青二才の美術愛好家にはやはりまだ早かったのだと言い聞かせ、地上へと戻るとすっかり夜だった。

パリでの滞在は2日間しかない。そんな焦る気持ちをなだめるかのように、街を照らす明かりはゆるやかにきらめいている。

オペラ座を回ってヴァンドーム広場、コンコルド広場を通過し、凱旋門まで一気に歩く。ルーブル美術館で絵を見ていたときの優雅さは欠片もない。コンコルド広場を賑やかにしていたストリートミュージシャンの演奏に耳を傾けた数分を除けば、立ち止まることを忘れていた。


「これをください」
「もう少し大きい声で言ってくれ」
「この、サンドイッチを」
「5ユーロだ」

クリスマスマーケットの露店がひしめくシャンゼリゼ通りで、人波にもまれるようにして遅めの夕飯にサンドイッチを買った。溶けたチーズのかかったチキンとポテトが無造作にはみ出している。これがパリの夜でいいのかとも思ったが、左右の手でパスし合わなければ持てないほどあつあつのバンズには、小気味よい異国の優しさがあった。

食は旅先の記憶に鮮やかに刻み込まれる。日本へ旅行に来た外国人が昼も夜もおにぎりを食べていたらやっぱりかわいそうだなんて思ってかぶりついたパンは、またもや岩石みたいだった。


--*--




薄い壁の向こうから聞こえる足音で目を覚ました。

早朝にチェックアウトする隣室の客が出ていったのだろう。安いホテルのお約束だ。ここに泊まったことを昨晩から何度後悔したかわからない。

部屋のトイレとベッドの間の仕切りがカーテンという謎。そこに並ぶように刺繍された動物たちはどれも魂の抜けた顔をしている。何が芸術の都だと寝起き早々に悪態をついた。

立ち上がると、ベッドが合わないせいか背中が少し痛む。ふくらはぎもパンパンだ。昨夜までの旅の仕方からすれば当然のコンディションだった。壁に手をぶつけないよう慎重にストレッチをした。

やる気のない動物たちに荷物番を任せて部屋を出る。年季の入ったホテルの階段が一段ごとに軋んで悲鳴を上げるのが聞こえた。


リュクサンブール公園までは歩いて数分だった。

早朝の広い敷地を行き交う人影は少ない。噴水のまわりを一周してみる。淡いパステルブルーの空を見上げながら吸い込んだ空気は、これでもかというほど澄んでいた。

公園の南側を出てエッフェル塔に向かう。モンパルナス墓地に立ち寄って、特に意味もなくサルトルの墓の前で手を合わせた。そこに立つ自分の存在ぐらい疑えば礼儀もあったかもしれない。

こんな時間から墓地をうろついている東洋人が珍しかったのだろう。清掃をしている壮年の男が声をかけてきた。

「それが誰の墓か知ってるのか」
「サルトル」
「哲学が好きなのか」
「少しね」

彼は、ぼくのおぼつかない「サルトル」の発音を聞き取ったようだった。

塔の真下を西に突っ切ってシャイヨー宮に辿り着いた。思っていたよりも距離があったので、ここで一息つくことにした。

日中は観光客で賑わう宮殿の広場に、風の抜ける音だけがささやく。気高く差し込む朝日が、この街のシンボルをよりシンボリックにかすめていた。

アンヴァリッドの芝生を抜け東へ進むと、サンジェルマン・デ・プレに出た。由緒正しい喫茶店で一息つこうかとも思ったが、その余裕があればこんな旅はしていない。

界隈をぶらぶらしていたら、オルセー美術館に着く頃には午後になっていた。ルートがめちゃくちゃだ。これから昨日のルーブルと同じペースで館内を回ろうとしているのだから、自分の体力を過信しているにもほどがある。


その絵はそこにあった。

どういうわけか、この美術館にはないと勘違いをしていた。所蔵先に関心の薄いビギナーあるあるかもしれない。カバネルの『ヴィーナスの誕生』が運悪くどこかの美術館に貸し出されていた悔しさなんて一瞬で吹き飛んだ。

印象派画家の一人、アルフレッド・シスレーが描いた『モレの橋』。

シスレーは印象主義の発展と分派には目も向けず、慎み深く穏やかに地元の風景を描き続けた画家だった。戸外での風景画制作をこよなく愛した彼は典型的な印象派画家としての評価を持つ反面、光の移ろいを追求したモネや幸福と女性のために筆を執ったルノワールのような個性がなく、どちらかといえば同世代の陰に隠れがちな存在だった。

ぼくは、そんなシスレーの絵が好きだった。

一貫して風景画にこだわり、晩年まで家族とともに住んだ街を描き続けることを選んだ彼に、何か自分と相通ずるものを感じていたのかもしれない。朗らかに晴れ渡る空と、その青を街並みとともに映し出す静かな水面。慎ましく暖かい筆致に、疲れを忘れて見とれた。どこまでも優しい絵だった。


この風景を見てみたい。

そう思ったときには、この日初めての地下鉄に慌ただしく乗り込んでいた。向かう先はパリ南東のリヨン駅。そこから出る在来線に乗れば、きっと日が暮れるまでには着ける。ガイドブックにこの絵の情報は載っていなかったが、はやる気持ちに勝るものはなかった。


リヨン駅は想像していた以上に巨大な駅だった。鉄の梁に覆われたガラス張りの天井は高く、なまじ美術史をかじったせいでここもサン・ラザール駅に見えてしまう。帰省客と観光客。喧噪が密度を増す。

モレの街が位置するフォンテーヌブローが、パリの郊外南東にあることだけは知っていた。立体交差する複数のホールにちりばめられた案内板に目が泳ぐ。在来線を一人で見つけるには相当に気が急いていた。

駅のスタッフに声をかけた。英語を聞き取れないのか聞く気がないのか、この旅行で一番のぞんざいな対応をされた。

「2番線のホームで待て」

次に声をかけたスタッフはぼくにそう言った。しかし、そこに列車が到着する気配は一向になかった。

不安になってまた別のスタッフに声をかけると、そこに列車は来ないからあっちでチケットを買って8番線で待てと言ってきた。列車は今出たばかりで、次の便までは40分も待たなければいけないらしい。謀ったかのようなタイミングの悪さだ。

所在なくホームのベンチに腰かけてしばらくすると、全身にかかる重力が一気に何倍にも増した。足の裏のマメも数えられるぐらいに成長している。手にしたチケットに依然として不安を抱えつつ、うつむき加減で列車を待った。こんなに長い40分は初めてだった。

列車は定刻にやってきた。2階建ての車両は、思ったよりも空いていた。

窓際の席に沈むようにして腰を下ろした。窓から見える空に、今朝リュクサンブール公園で見た青さはもう残っていない。


--*--



郊外になるにつれ、景色から次第に音が失われていく。

怖気づくとはまさにこのことで、橋の場所もわからないのにどうやってたどり着けばいいのかの不安が勝ってきた。明日は朝一の電車でスイスのローザンヌに向かうことになっている。パリで残された時間はもう半日もない。自由という名の計画性のなさが、ここに来て裏目に出た。


「フォンテーヌブローの宮殿を見るぐらいで、やめておこう」

パリ郊外有数の観光名所。そこならガイドブックに地図もあるし、次のフォンテーヌ・アヴォン駅で降りて西へ向かえば着けるはず。思い出にするなら、印象派の原点になった地を訪れたというだけで十分だ。

そうやって即席の計画はひずみを重ね、ぼくはフォンテーヌ・アヴォンに降り立った。こじんまりとした駅だったが、アイボリーを基調にしたシンメトリーの駅舎は小さなお城のようだった。

駅前のロータリーから延びるゆるやかな坂道を上り、西に向かって真っすぐ進む。ガイドブックによれば宮殿までは3キロほど。今の体力でも歩けない距離ではなかった。

等間隔の街路樹を数えながら一心不乱に足を動かしていると、追い越してきたバスが数メートル先に停まった。折よくドアが開いたので、あわよくば乗り込もうと運転手に尋ねてみた。

「このバスはフォンテーヌブローの宮殿行きですか」
「行くけど、宮殿はもう閉まるぞ」


ぬかった。

運転手の「乗るか?」という声に力なく手を振って答えると、バスは何事もなかったかのように走り去っていった。ガイドブックを開くと、確かに冬場の開館時間は午後4時までだった。もう30分以上も過ぎている。

無計画と不注意がなせる最悪の顛末になった。

一体何をしているんだろう。去年留学先を決めるときも、春に就職先を決めるときもこうやって行き当たりばったりを繰り返していたのを思い出した。何とかなると思って実はいつも瀬戸際を歩いていただけ。反対側に足を踏み外しても誰も不思議に思わない。今自分は、然るべくして落っこちた。

人通りの少ない歩道で、無為を無為としないためだけにあくせくしてきたこの2年間を振り返った。さっきのバスのテールランプが小さくなっていくのを見て立っているのがやっとだった。


「ほんと、バカだな」

そう呟いて踵を返すと、東の空がまだ明るさを残しているのが見えた。

淡藍がにじむあの空の際に、橋はあるのだろうか。深まる藍色が闇に変わってしまう前には着くと言ったら、橋は待っていてくれるだろうか。

駅へ向かって引き返す道に吹く風は、冷たいけれど追い風だった。


--*--



「この絵の場所を知りませんか」

10分前の駅員とのやり取りが頭の中で反響する。彼が絵のことを知らなかったら、あのとき充電がなかったら。辛うじてこの電車に乗れた幸運は、巡り合わせという都合のいい言葉にとりあえず押し込むことにした。

彼が言ったとおり2つ目の駅で列車を降りた。ホームの案内板に書かれた駅名にモレ(Moret)とあるのだけは読める。フォンテーヌ・アヴォンよりも一回り小さい駅舎の前の広場には、地元の住民らしき年配の女性が車のドアを閉める音がした以外、静寂が籠めていた。

勘というのは働いてほしいときに限ってサボる。

それが橋から遠ざかる道だとは知らず、ぼくは駅舎の裏にある通路を抜けて広場の反対側に回った。塗装の剥げた石壁に守られるようにして、立派な屋敷が線路沿いにいくつも並んでいる。物音ひとつしない道は左右に伸びているだけだから、選択肢は2つしかない。

踏み出す足を逡巡していると、通ってきた駅舎の裏道から若い女性が出てきた。考えるよりも前にぼくは口を開く。

「道をお尋ねしたいのですが」

女性は少し戸惑っているようだった。質問を変える。

「英語は話せますか」

彼女はフランス語なまりが強い発音で "a little" とだけ答えた。こんな時間にどう見ても地元の人間ではない異邦人に声をかけられたら後退りもするだろうと思ったが、こちらとてもう退くところがない。

「シスレーという画家が描いた橋を探しているんです」
「…?」
「橋です。有名な橋がこの辺りにありませんか」

"Bridge" が伝わったのだろうか。彼女は小さく頷いて左の方を指さした。線路の下り方面だった。

彼女は道のりも少し説明をしてくれたようだったが、フランス語の道案内を理解できていたらこんなことにはなっていない。ぼくはできるだけ笑顔で "Merci." とだけ返すと、彼女の指さした方向へ向かって駆け出した。

線路沿いの道はゆるやかに左に曲がっていき、小さな高架線に差し掛かった。高架線の右手前には2本の細い道が伸びている。今度は3択かと思って辺りを見回すと、「MORET」の標識が高架線を跨いだ先に向いているのを見つけた。このまま進めと言われている気がして、勢いよく線路の下をくぐり抜けた。

5分ほど走って見えてきたロータリーは、四叉路だった。選択肢が一つずつ増えるゲームではないかと思いつつも、来た道を除けば3択。自分の方向感覚が間違っていなければ、左に延びるのは駅へ戻る道だ。答えは2つに1つに絞られている。

両膝に手をつき、肩で息をしていると、寒さで冴えてきた身体に届くものがあった。

水の匂いだった。

そんなことあるはずがと思って顔を上げる。漂うのは冬隣の空気しかない。だが、空は疑う余裕を持たせないほどに深い藍で一色だった。

日が沈む。走るしかない。

街路樹が見えてきた。どうやら街の中心部に向かっているらしい。橋がその先にある保証はなかったが、シスレーの肖像画を軒先に誂えたレストランを通り過ぎた。彼は間違いなくこの辺りに住んでいた。

レンガ造りの建物が肩を並べはじめ、足元に落ちる明かりの数が増えてきた。旧市街だ。しばらくすると背の高い尖塔が見えた。道は、尖塔の下の門を抜けてどこかに開けている。

対向車のヘッドランプを手でかざすようにして門をくぐった。その先に延びる石畳を小走りに進んで、後ろを振り返る。



モレの橋は、そこにあった。

尖塔から続く石造りのアーチ橋。左に見える教会も確かにその場所にある。尖塔の手前にあると思っていた家屋の姿だけは見当たらなかったが、ここは間違いなくあの絵の舞台だった。

120年ほど前、シスレーはこの景色を描いた。キャンバスに再現された空と水と街並みは、堅実で、繊細で、そして穏やかだった。今ぼくの前に残っている景色を見ても、彼の眼には当時と同じように映るのだろうか。

モレの橋は夕闇に沈もうとしていた。街と空の境界線が残る時間に間に合った奇跡を噛みしめながら、ぼくはデジカメを門の方へと向けた。空に重ねたピントが残り少なくなった光を集める。

レンズ越しに捉えたモレの橋は、淡藍の空の下で輝いていた。


--*--


「あの橋には行かなくていいの?」

向かいに座っている妻の声ではっと意識を取り戻した。モンマルトルの丘で迎えたパリ2日目の昼食。天気のよさを理由に注文したグラスビールが早くも回ってきたようだった。運ばれてきたオニオングラタンスープの香りに鼻孔をくすぐられ、懲りずにグラスへ手を伸ばす。

「大丈夫、あのとき見たから」
「でも見たかったのは明るいお昼の景色じゃ」
「いいんだよ、もう。そういうものなの」

3年前、ぼくは新婚旅行で妻とパリを再訪した。あの頃のように無謀な旅程を組むことなく訪れたオルセー美術館で、ぼくはまた『モレの橋』の前に立っていた。絵は自分の目で鑑賞すると無駄に頑なだったあの頃の自分と決別し、妻の切るシャッターで7年越しにそれを写真に収めた。

当時よりもパリの滞在時間は長かったが、決して余裕ある旅程ではなかった。妻にルーブル美術館を見せてあげたいし、翌日はヴェルサイユ宮殿も訪れる予定になっていた。学生時代に一度パリを訪れたことのあるぼくが、再びあの橋のためだけに妻を振りまわすのは身勝手がすぎる。

「時間が経つと、変わるものもあるらしい」
「そう。ならいいの。スープ、冷めちゃう。食べよ」

そう言ってすすったオニオングラタンスープは、いつかのサンドイッチなんて比べ物にならないほど熱かった。



--*--




シスレーは、その暖かい画風とは裏腹に貧しい不遇の晩年を過ごした。存命中の評価は高くなく、他の印象主義の画家たちと比べても華々しい功績は見当たらない。

19世紀に風景画家を多く輩出した英国の出身という影響もあったのだろう。モネ、ルノワール、ピサロといった印象派グループの他のメンバーがそれぞれの新しい活路を見い出したのに対し、彼はフォンテーヌブローの森の外れにあるのどかな河畔や田園風景だけを求め続けた。それが結果として近代美術史上における彼の地位を今なお些か低いものにしている。残された文献は少なく、語られることも決して多いとは言えない。

しかし、語られない画家だからこそ、その想いを理解したかった。10年前あの橋の上に立っていたぼくは、寡黙な彼の声にわずかでも耳を傾けられていたのだろうか。慎み深く、ひたむきな彼の生き様に。

帰国から数年経ち、妻とまだ結婚するよりも前、国内で催されたシスレーの美術展に足を運ぶ機会があった。そこに『モレの橋(Le Pont de Moret)』は無かったが、当時を思い返して色々調べるきっかけになった。

彼の生涯、画風、没後の評価の変遷。過ごした土地や描いた町々のこと。知らないことばかりだった。何より驚いたのは、ぼくがあのとき選ばなかったロータリーのもう一方の道の先にも川があったということだけど。

あの冬に、あの夕暮れの町を走ったことが、今の自分に通じているとは思っていない。あるとすれば、行き当たりばったりの烙印が一つ増えたことぐらいだった。

歩調を突然変えて、勢いよく方向転換する。この歳になるといよいよ無謀なことはしなくなったが、今でもたまに思いついたように何かに打ち込み、周囲を呆れさせるほどに没頭したりする。

新婚旅行を終えしばらくして、帰国後の美術展で買ったシスレーの論稿を久々に手に取ってみた。そこには、ある史料が語る次の一節が、彼の生涯と芸術を象徴すると綴られていた。

とぼうとしてはいけません。普通の歩幅で、いつまでも歩き続けなければならないのです。

もう、あのときのようにがむしゃらに走ることはできないかもしれない。突然向きを変えて、自分の好きな道に進んだりすることも。世間はそれを良しともすることもあるけれど、誰にだって守りたいものがある。

夕闇に沈むモレの橋を目指して走った記憶。それが自分のこれからの人生にどんな教訓をくれるかは正直まだわかっていない。道中の勢い、気力。あるいは、あの橋で目にした景色から想いを馳せた画家の信念に通ずる何か。

少なくとも、これだけの文章を綴る鮮明な思い出にはなっている。


自分の歩幅で歩き続けること。ときに駆けることがあっても、止まらないことが大切になっていくのだろう。その先に橋があるかなんてわからないし、一歩一歩の重さは年々増してきている。それが、歩き続けることの優先順位の高まってきた証拠であると思えば、たとえまた迷うことはあっても、次に踏み出す足も少しは軽やかに思えてくる。

迷ったらあのときのロータリーみたいに道を選べばいい。水の匂いは、もうわからないと思うけど。





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