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夕暮れ時にゆっくり読みたい物語たち

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怠け者のくせに

怠け者のくせに

校舎
制服
吹奏楽

中庭
群青
高校生

高校の文化祭を見学した。校内のエネルギーが強烈で、薬の好転反応のような急上昇急降下な気持ちを味わった。

楽しんだ。すごく楽しかった。そこら中に笑顔が見えて活気があった。反して、見学の保護者なんかにひとつも興味ないですという、ツンとした態度もあって。そんなアンバランスな雰囲気が面白くて、ひとりでずいぶん長い時間校内をウロウロした。

大人が思い描く「青春

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潮騒の缶ビール

潮騒の缶ビール

ぼんやり海を眺める土曜の昼下がり。茅ヶ崎の海岸で一人、ぽつりぽつりと言葉を置いた。

あてもなく乗り込んだ電車に揺られること小一時間。駅の発車ベルがサザンオールスターズの『希望の轍』なのは、訪れるたびにいいなと思う。

降り立った湘南のど真ん中に、秋の気配はない。電車の進行方向からして向かうべきは南口。すれ違う人々から、喧騒とまではいかない活気を感じながらロータリーに出た。これまでも何度か足を運ん

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夕闇に沈むモレの橋

夕闇に沈むモレの橋

「この絵の場所を知りませんか」

フォンテーヌ・アヴォンの閑散とした駅舎で、ぼくは息を切らしながら駅員に尋ねた。正確には、ガラケーに保存していたその絵の画像を差し出した。充電はもう残りわずかしかない。

聞き取れないはずのフランス語でも「知っている」と言っているのがわかった。彼は線路の下り方面を指さして、2つ先の駅で降りろとだけ教えてくれた。橋の詳しい場所までは、知らないようだった。

晩秋のパリ

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ある夏の話

ある夏の話

 20xx年、春。新学期がはじまり、ようやく大学受験の事を考えはじめた頃。せっかく咲いた桜が大雨で散ってしまい、学校に向かう道路には、ピンクの絨毯が敷き詰められた。

 ビルの隙間を高気圧が運んできた暖かい風が吹き抜けると、未だ枝に残っていた花びらがひらひら舞い、歩きだしたわたしの鼻をかすめた。

 相変わらず学校に行っても誰かと楽しく話すという事はなかったけれど、ただただ穏やかな日々だった。好き

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便座とバスタオルと宇宙

便座とバスタオルと宇宙

便座を上げないで使用するようになったのは、当時の恋人のおかげだ。
「そんなの当たり前でしょ」
なんて彼女にしてはいやに強い口調で怒られた。
トイレ掃除は僕の担当だから良いじゃないかとも思ってたけれど、どうやらそういう問題ではないらしかった。
うんうん、ごめんね。
次からは使い終わったらちゃんと蓋を閉じるようにします。
「そうじゃなくて座ってしてって言ってるの」
はいはい、ごめんね。
そういう何気な

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Haven't we met?

Haven't we met?



「明日、雨を降らせてね、と注文しておいたんです」

雨宿りをしていた本屋の軒先で、隣に並んだ知らない女性。急に言われた奇妙なセリフに少し怖いな、と思いながら聞いてしまった。

「だれにですか?」

「もちろん空にですよ」

ザーッと降る雨の音が大きくなる。かなり個性的というか、不思議な人だ。さりげなく靴の幅ひとつぶん、ぼくは彼女から離れた。

--*--

今日は久しぶりに仕事が早く終わって、

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ビタービタースイートビター

ビタービタースイートビター

うだつの上がらない日々、家でも一人、職場でも一人、社会的にも一人。ひとりぼっちの延長線に生活が偶然あるような閉ざされた春、遂にわたしはマッチングアプリをインストールした。おしゃべりロボットを買う財力はなくて、犬や猫のいのちを預かるほどの懐はなくて、植物を育てるのは何だか味気なくて、やっぱり私は人間だから、人間と会話をしてみたいと思った。

「いちばん出会える」と口コミで評判のマッチングアプリは、「

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枯れない花を抱いて歩く

 緑の細い茎を水中に浸し、ハサミを持つ手に力を入れる。わずかな抵抗は一瞬で崩れ先端からニセンチほどが皿の底に落ちた。声を出さずに三秒数える間、斜めの切り口が水を吸い上げる様を想像する。
 茎から花びらのように見える青色のガクへ。手まりのようなアジサイの、花だと思っていた部分は装飾花と呼ぶのだといつもの花屋さんが教えてくれた。本物よりもお飾りのほうが華やかだなんて。やがて水は、ガクの中心に慎ましやか

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先をゆくあなたは、ずっとわたしの憧れなんだから

先をゆくあなたは、ずっとわたしの憧れなんだから

あなたと初めて会ったのは、16年前だったかな。

わたしがまだ特許翻訳者の見習い、あなたは弁理士になって数年のころ。“はじめまして”は、翻訳スクールの講座だったよね。

あなたの第一印象は、柔和で穏やかなひと。わたしがもっていた『女性弁理士』のイメージをぬぐいさった。

スクールの帰り道、あなたは翻訳者見習いのわたしに、気さくに声をかけてくれたね。おそれ多いなと思って言葉を選んで話したのを、いまで

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君について覚えていること

君について覚えていること

君の爪はいつも綺麗に切り揃えられていた。きっと丁寧に磨いていたのだろう、君の爪は私のそれよりずっと艶があった。

君の部屋はいつもそれなりに片付いていた。長めの髪の毛が落ちていたことは一度もなかったし歯ブラシも一本だけだったけれど、洗面所にはコンタクト液があった。君の視力は1.5だと、いつか自慢されたことがある。

君と私は友達といえるほど近くはなくて、でも知り合いと呼ぶよりも少しだけ密度が高い、

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レモンドロップ

すずりに垂らした透明の水に、砥石をすっと挿す。

静かに正座し、背筋を正し、砥石でゆっくりと円を描き始める。かすれ声のような研ぎ音は透明度高く。脳はやさしく撫で回されて、麻痺を起こしていく。
透明の水が黄土色に染まっていく。どろどろと滲みだすこの色は、まるで膿のよう。

腐敗したようなその色は、水の渦にゆるりと巻かれ排水口へと吸い込まれていく。肺の内側の膿が小さくなって、その分少しだけ息がつけるよ

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くるクル狂ドーナツ

くるクル狂ドーナツ

■■俺■

「いらっしゃいませ」店の自動ドアが開く音がして、反射的に口が動く。もっと元気に爽やかに声を出せと何度店長に言われただろう。でも、何度言われても俺には「元気に」「爽やかに」がどんなもんなのか分からない。

木曜、午後7時15分。普段は木曜の夜にはシフトに入らないけれど、元々シフトだったアンドウサンが当欠したらしく、店長から召喚のラインが入っていた。普段は仕事ができない俺をシフトに入れたが

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生老病死のご近所物語

生老病死のご近所物語

今日はあたたかだった。
一歳半の次男あっちゃんと庭で遊んでいると、お隣のおばあちゃんがやってきた。

以前別のnoteにも書いた90歳近いおばあちゃん、佐藤さん。
4歳長男の発音だとシャトーさん。

庭に来たシャトーさんに、あっちゃんは即座に抱きつく。
遠方の祖父母とは会えないこのご時世、シャトーさんがあっちゃんにとってのおばあちゃんだ。
シャトーさんも同じく、まだ一度も会えていないひ孫がいる。

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来世で巡り逢わない

来世で巡り逢わない

冷たい夜だった。妙な時間のスマホの通知音に嫌な予感がする。「やり直せないかな。会って話がしたい」画面に表示されたメッセージをしばらく見つめているとだんだん苦しくなって、やっと自分が息を止めていたことに気付く。冷静になれ。心で小さく念じて私はそっとスマホをテーブルに置いた。

◇◇◇

やり直したい、だって。笑えるよ。敢えて口に出してみると、とても冷たい響きになった。話し合おう、そんなこと何十回も繰

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