先をゆくあなたは、ずっとわたしの憧れなんだから
あなたと初めて会ったのは、16年前だったかな。
わたしがまだ特許翻訳者の見習い、あなたは弁理士になって数年のころ。“はじめまして”は、翻訳スクールの講座だったよね。
あなたの第一印象は、柔和で穏やかなひと。わたしがもっていた『女性弁理士』のイメージをぬぐいさった。
スクールの帰り道、あなたは翻訳者見習いのわたしに、気さくに声をかけてくれたね。おそれ多いなと思って言葉を選んで話したのを、いまでも覚えてるよ。
なんどか話をするうち、わたしたちには共通点があることを知った。
子供を育てながらずっと働き続けている、キャリアをもっと磨きたいと思っている、自分の時間は大切にしたい、負けず嫌い。
それらの共通点は、わたしたちを知り合いから友人へと格上げしてくれた。
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あなたは、絵に描いたようなキャリアウーマン。弁理士としてクライアントからの信頼は厚く、真摯な仕事ぶりはみんなから一目置かれ、海外出張もこなしていた。
年上のあなたは、わたしにとって憧れの女性だったんだから。いつもわたしの先をゆく女性。あなたの背中を見ながら、こんなふうにしなやかに働きたいなって思ってた。
だけど。ホント言うとね。
同じ事務所じゃなくてよかったって、なんども思ったんだよ。もし同じ事務所だったら、あなたみたいなスーパーウーマンには近づけなかったもん。
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出会って16年、いろいろあったね。お互いが育休中のときの話題は、子供のことばかり。育児の悩みをメールで相談し合ったっけ。
子供の夜泣きが辛くて、夜中に何度もメールしちゃったね。あのとき、すぐに返事くれてうれしかったな。職場に復帰したあとは、働く母の悩みや辛さをシェアして、負けるもんかと乗り越えてきたよね。
子どもたちの手が離れてからは、『大人女子のご褒美タイム』と称して、年に何回か美味しいものを食べに行ったね。
ダンナさんたちには内緒で奮発して、話題のレストランに行ったり。知的なあなたとのおしゃべりは、いつも刺激であふれてた。
人生の折り返し地点を過ぎても、わたしたちにはまだやりたいことがたくさんあって。50歳になったらアレをして、55歳にはコレをして、なんて。ずっと未来の話ばっかりしてた。
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「相談にのってほしい」と連絡があったのは、2年前。わたしは、あなたの大好物、ペスカトーレが美味しいと評判のイタリアンを予約した。
コースが中盤にさしかかり、ほろ酔いになったころ、あなたはようやく本題に入った。相談は転職のこと。もっと大きな事務所に移って挑戦したい、っていう話だったね。
「50過ぎの転職は厳しいって知ってる。でもさ、最後の挑戦だと思って。もちろんいまの事務所は居心地いいよ、もう20年近く働いてるし」
そう話すあなたの顔を見ながら、あぁ、もう自分でどうしたいか決めてるじゃん、ってすぐ分かったよ。だけどわたしは、一応こう言った。
「所長はショック受けるんじゃない?弁理士としてあなたを指名してくるクライアントも多いでしょ。あなたがいなくなれば、事務所は大きな痛手だよ」
頭脳明晰なあなたは、上司からの信頼も厚い。やり手の弁理士として評判も高い。
「うん、それはそうなんだけどね。もっと自分の可能性を広げたいの。まだやりたいことがあるんだ。でも、小さな事務所だとそれは難しい。だから大きいところに移りたいの」
あなたがとてもまぶしく見えた。やっぱりわたしの先をゆく女性だなって。
「あなたならどこでもやっていけるよ。応援する」
何杯目かのワイングラスを傾けて、あなたは頷き、穏やかにほほ笑んだ。
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それから半年間、あなたはふだんどおり働きながら転職活動を続けた。ときおりくれるLINEから、転職が着々と進んでいるのを知って、ホッとした。
”新しい事務所、決まったよ!2か月後の月初めからそっちに移るから。落ち着いたらまた連絡する”
あなたの報告を受け、あぁよかった、さすがだな、あんな大きい事務所に移るなんて、と友人としてあなたを誇りに思ったんだ。
”おめでとう!よかったね、希望する事務所に入れて。連絡待ってるね”
お祝いメッセージだけを送って、あなたからの連絡を待つことにした。新しい環境で忙しくなるだろうと思ったから。
2か月後、久しぶりにあなたからのLINE。急いで開けた。
“新しい事務所で1週間。なんとかやってるよ”
“よかった!慣れるまでしばらく大変だろうけど、応援してるよ。落ち着いたらまた美味しいもん食べに行こ”
スタンプとともにそう返した。
♢
それから1ヵ月経っても、あなたからはなんの連絡もなかった。大変なんだろうな、煩わせたら悪いなと思って、もう少し待つことにしたんだ。
あなたが新しい事務所に移って2か月。そろそろ連絡してもいいよねと思い、
“美味しい中華のお店見つけた。『大人女子のご褒美タイム』行こう。新しい事務所の話聞かせてね”
そう送った。あなたの好きな“長くつ下のピッピ”のスタンプと一緒に。
“じゃあ来週の金曜はどう?”そんな返事を期待して。
ほどなく鳴る着信音。
お、早速きたな。またゆっくりおしゃべりできるぞ。LINEを開いた。
メッセージは、あなたのご主人から。
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目の前がぐわりと揺れた。頭が真っ白になった。ピーーーーーッと奇妙な音が耳元で鳴った気がした。
両手で口元をおおうと、スマホは手からすべり落ちた。
「えっ、うそ、嘘でしょ…」
あなたの突然の訃報。
うそ、噓でしょ…なんで…
あなたは逝ってしまった。ご主人や子供たちをおいて…
どうしてもっと早く連絡しなかったんだろう。新しい職場の話、どうしてもっと早く聞いてあげなかったんだろう。どうして、どうして…
急にのどの渇きをおぼえ、ふらふらした足取りでキッチンに行った。水を汲んだけど、嗚咽で飲めなかった。
ボタボタと、蛇口からは水滴が落ちた。ボトボトと、目からも水滴が落ちた。
これからも一緒に息抜きしようって約束したのに。もっとたくさんあなたと話したかったのに。
ざらりと乾いたシンクが水滴で濡れていくのを、ずっと、ずっと見ていた。
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大切な友人の1人を失ってから、1年少しが過ぎました。
いつも穏やかに笑っていた彼女の顔しか思い浮かびません。かみしめるように1語1語ゆっくりと話す彼女の声しか思い出せません。
読んでくださり、ありがとうございました。やっと、彼女のことを文章に残すことができました。
心より感謝いたします。