Haven't we met?
「明日、雨を降らせてね、と注文しておいたんです」
雨宿りをしていた本屋の軒先で、隣に並んだ知らない女性。急に言われた奇妙なセリフに少し怖いな、と思いながら聞いてしまった。
「だれにですか?」
「もちろん空にですよ」
ザーッと降る雨の音が大きくなる。かなり個性的というか、不思議な人だ。さりげなく靴の幅ひとつぶん、ぼくは彼女から離れた。
--*--
今日は久しぶりに仕事が早く終わって、週末読む小説を本屋で吟味していたんだ。会計が終わり、さぁ行くかと思った矢先の夕立。変な人にも絡まれるし、本当についてない。
「トシオさんは、どんな本を買いに来たんですか?」
冷たい雨が伝たうように、背筋がひゅんっと寒くなる。
なんでぼくの名前を知ってるんだ??
走って逃げた方がいいのか……
でも、足がすくんで動けない。
「なんで名前をしっているの?って顔ですね」
こちらの心を見透かしたように彼女が言う。金魚みたいに口をパクパクさせ、声にならない声を出してぼくは頷いた。
「忘れちゃいました? わたしのこと?」
こんなに透き通った、サファイアみたいな瞳の子は一度見たら忘れるはずがない。
「あの… どなたかと勘違いされてませんか……?」
「ウィンナーコーヒーが好きな、トシオさんですよね?」
!!!
名前だけじゃない。この人は、ぼくの密かな楽しみまで知っている。恐怖心の中にほんのわずかな好奇心がめばえた。誰なんだ、このひとは? 恐る恐る彼女に名前を聞いてみる。少し考える素振りで、彼女は間を置いた。
「樹里です」
雨音が二人を包む。
本当の名前……ですか? と聞いたぼくの言葉に目を細め、彼女が答えた。
「半分、ホントです」
その笑顔に、どこかで会ったことがある気がした。
記憶を探るが、それがどこだか分からない……
--*--
彼女の顔をよく見たいけど、目が合ったら気まずい気がして、ぼくは無言で空を見上げていた。雨が小降りになり、だんだん雲の隙間が大きくなる。うっすらと陽が差してきた。
「わたし、雨粒と陽の光が一緒に降りそそぐ瞬間が好きなんです」
ぼくもです、と言いかけてやめた。
理由は分からないけど、ただなんとなく。
それを言った瞬間彼女が消えてしまう気がしたから。
雨が陽の光に溶けていき、西の空に大きな虹ができた。
「そろそろ、行かないとですね」
彼女が言った言葉は、ぼくにではなく、空に向けて語りかけてるように聞こえた。
となりを見る。目線が合う。
懐かしい気持ちに包まれる。
間違いない。ぼくは、この人と会ったことがある。
ペコリと頭を下げた彼女は、振り返らず虹に向かって歩き出す。突然現れた彼女は、いなくなるときも突然だった。
--*--
店の扉を開けると、カランとドアベルが美しい音色をたてる。
「いらっしゃい、トシオ。今日は雨だし、来てくれると思っていたよ」
マスターがいつもの笑顔でぼくを出迎えてくれた。
雨の湿った匂いが充満するバスは大嫌いだけど、この店の匂いは好きだ。マスターがお父さんから引き継いだ昭和にタイムリープしたようなお店。ウォールナットのフローリングに塗られたワックスの香りが、雨の日はほんのり甘くなる。雨が降るとこの店に来たくなる理由のひとつ。
カウンターの奥から二番目がぼくの特等席だ。「今日は、って。週に3日は来てるじゃないですか……」と言いかけたとき、カウンター上に置かれたフォトフレームが目に入った。
あぁ、今日じゃないか
マスターに電話で呼ばれ駆けつけて
最後のときに間に合わなかったのは
一年まえの今日じゃないか
「ジュリエットがいなくなって、もう一年経つなんて信じられないよ……」
マスターが呟いた。カウンターの一番奥、フォトフレームが置いてある椅子はジュリエットの専用席。そこで丸くなりながら、ぼくとマスターの会話を、じっと聞いていたっけ。ジュリエットがいなくなったあとも、その席には誰も座らない。マスターがルールを作ったわけじゃない。この店は、そういう人たちが集まる場所なんだ。
ジュリエットと初めて会った日も雨だった。ぼくは学生だったから5年以上前のことだ。いつも通り、カウンターの一番奥に向かうと知らない猫がいた。「知り合いから里親になって欲しいと頼まれてさ。看板猫がいてもいいかなって思ってね」頼まれると断れないマスターらしいなと思った。お迎えしたばかりで名前も決めてない、なにかいい名前はないかい? と聞かれ、ぼくが答えたのがジュリエットだった。そのとき書いていたレポートのテーマが『ロミオとジュリエット』だったという単純な理由。でも、マスターはとても気に入ったみたいで、猫の名前はジュリエットに決まった。その日、ジュリエットが怖がらないように、ぼくは3つ席を空けてカウンターに座った。
もともと、店一番の常連だったぼくだけど、ジュリエットが来てからは、ほぼ毎日通った。3つ空けていた席が2つになり、いつしか1つになる。そして、ジュリエットの隣がぼくの新しい特等席になった。
この店で、特別な時に頼むメニューがあるんだ。初めて飲んだのは、大学の合格祝いにマスターがおごってくれた一杯。それ以来、嬉しいときや悲しいとき、心が大きく動いたときに頼む特別なメニューになった。
「 マスター、今日はウィンナーコーヒーを 」
フォトフレームの青い瞳が、目を細めたように見えた。
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inspired by this song