レモンドロップ
すずりに垂らした透明の水に、砥石をすっと挿す。
静かに正座し、背筋を正し、砥石でゆっくりと円を描き始める。かすれ声のような研ぎ音は透明度高く。脳はやさしく撫で回されて、麻痺を起こしていく。
透明の水が黄土色に染まっていく。どろどろと滲みだすこの色は、まるで膿のよう。
腐敗したようなその色は、水の渦にゆるりと巻かれ排水口へと吸い込まれていく。肺の内側の膿が小さくなって、その分少しだけ息がつけるようになった。
もう何度か、この行為を繰り返している。
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内気で地味な自分に縛られてきた人生だった。言いたいことを飲み込んで、やりたいことを押し込めてきた人生だった。
そんな年月が染み込んだ長く重たい黒髪を、ばっさりと切り、慣れない誘いに乗って美術館に出かけたあの日。
変わろうとしていた。
本気だった。
このだだっ広い絵の、どこをどう見つめていれば正解なのだろう。周りの人の視線の向く先を盗み見る。露わになった子供みたいなうなじが、途端に恥ずかしくなった。
その時、斜め後ろから声がした。
「ココにはよく来るんですか?」
振り返ると、都会の夜が創り上げたような男が立っていた。こなれた着回し、自信を秘めた声色、愛嬌の詰まった涙袋。
仲間内で盛り上がる友人から離れ、所在なく漂う私がよほど不憫だったのだろうか。
それとも、この場に似つかわしくない私をからかいに来たのだろうか。
美容院に美術館なんて恥ずかしい。
美しくなりたいなどと望んだ自分が恥ずかしい。
「いえ、初めてです…。」
「僕も初めてです。」
ふっと顔を上げた。数時間前に作ったばかりの前髪がぎこちなく揺れた。
「嘘です。」
途端にクスッと笑い声がして驚いた。私の口から出たようだ。
こなれた場所でこなれた冗談を飛ばす、こなれた着こなしのこなれた目尻のひと。
今このひとの視界の中で笑うショートヘアの女は、新しい私だろうか、偽物の私だろうか。
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砥石を片付けようとして、濡れたその表面を何気なく親指で撫でてみた。ゆっくりと往来する指先に、とろみがまとわりついてくる。あっという間に黄土色は指先を呑み込んでいった。
厳かなパイプオルガンのように響く柱時計。幾つもの時代が染み込んだ柱。心拍数がゆっくりと落ちていく深紅の絨毯。ただそこに居るだけの細い月。
吐息と熱が空間を埋め尽くしていった。
その密度に呼吸が浅くなる。
余裕の無い眼差し。微かに照らされた首すじの湿。初めて聞いたかすれ声…。
黄土色にまみれた親指が止まる。
指も砥石も机も、どろどろに溶けていた。
嫌いだった。
こなれた彼が。饒舌な彼が。するすると滑り出る冗談が。
惨めだったからだ。
暗い自分が。見合わない自分が。反射的に浮かぶぎこちない笑顔が。
頼りだった。
あのかすれ声だけが、拠り所だった。
あのかすれ声に混じる熱だけが、私の生きる場所だった。
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街なかで彼を見かけた。
そう、ここは彼の街だった。
知ってて来たけど、まさか本当に見かけるとは思っていなかった。
遠くからでも分かるその出で立ちは、都会の男、という印象だった。おしゃれでスマートな笑顔。
その横には、都会の女、がいた。
きっとランチしただけ。
オフィスビルに吸い込まれていく二人を、必死に目で追った。
冷たい北風が容赦なくうなじを吹き付ける。
たまらずストールを出して頬の辺りまでぐるぐると巻いた。
もう、駄目かも知れなかった。
女性と肩を並べ消えていく彼を見かけるよりも前から、もう。
仕事や出世やイベントや付き合いに猛進する彼はやはり都会の夜が創った男だった。どうにも埋められない温度差に、こうしてストールを巻くことしか出来ない。独りでいた頃より、惨めで独りだった。
あの日勇気を出して切った襟足ももう伸び始めていた。
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大好きなんて書いて出発車時刻や駅まで書いて惨め。
髪の毛もきちんと切り揃えて精一杯おしゃれして惨め。
まだ良い内に私から終わらせよう。
その方が彼の中で儚く生き続けられる。
このままでは側にいるほどに壊れていくのだから。
発車ベルがホームを駆け巡ったとき、「まだ良い内」と思っていたのは自分だけだったことに気づいた。彼の中で生き続けられる、そう思っていた。もうとっくに私はそこに存在していなかったのに。最後まで惨めで滑稽な女。
ベルは鳴り止まない。
頼むからもう鳴りやんでほしい。もう発車してほしい。もう何処だっていい、此処じゃない何処かへ、今すぐ私を捨て去ってほしい。
ベルはしっかり意志を持って鳴り続けているような気すらした。
その時、一瞬あの顔が見えた。
目が合った。
人の流れをかき分けて近づいてくる。
急激に肺が押しつぶされて、思わず痛みに声が漏れてしまう。
目の前には彼が、触れられる彼がいた。
余裕のない瞳。
汗ばんだ首筋。
かすれた「行くなよ」。
ベルが止まった。
もう十分。
このかすれ声だけで十分だった。
これだけが、私の居場所。
この瞬間こそが、私の生きる場所。
今も私、あの数秒の中を生きている。
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目の前のすずりは、さらりと乾いている。
机の下から缶の箱を取り出す。その中には色とりどりの飴がたくさん、のはずが、所々底が見えてきている。
午前中に、買い足しに行かなくては。
習字を頑張った小さな手がこの箱の上でいじらしく躊躇い、えぇと、ひとり2個までですよね、などと呟く。うん2個だよ、どれにする、と応える私の心はほろほろとほどけていく。
飴はかわいい生徒達へのささやかなご褒美。そして真剣な瞳が色とりどりの包み紙を反射して輝くのは私へのご褒美だ。
私は箱を元の位置に戻すと、立ち上がった。
スーパーからの帰り道、腕にかけた買い物袋の中をそっと見た。
ミックスフルーツ味、ソーダ味、ミルク味。
私はちらりと後ろを振り返った。
昔チョークでけんけんぱを描き、皆で跳ねたこの道には、人ひとり見当たらない。
この一本道には、私しか。
行儀は悪いけど、と小さく言い訳をして、フルーツミックスの袋から一粒口に滑り込ませた。
いつも箱の端に余ってしまうレモン味。
足元がふらつくとき、高ぶって揺れるとき、すがるように口に入れた。
突き抜けて凛として、弱い私をいつも守ってくれた。
ひと冬を必死に越したうなじにレモンの香りが絡んで、少しは私も大人になっただろうか。
一本道に注ぐ陽の光には、春の気配が溶けている。
【追記】
「なぜその作品をリライトに選んだのか?」
普段、仕事や子育てで埋め尽くされたエッセイを書いているので、濃厚な恋愛を書いたことが殆どありませんでした。
私が恋愛を書くなら…と考えた時、浮かんだのが「かすれ声」でした。
「かすれ声」を思う存分書かせてもらえそうな作品を選びました。
「どこにフォーカスしてリライトしたのか?」
彼と彼女の間に漂っていたレモンの香りをそのままにしました。
彼がそのレモンの香りをあるがままにしておいたように、その香りが自分の口にしていたレモンドロップだったと気づかないままにしました。彼がその香りを感じていたことにすら、気づかないままにしました。
二人の間には確かにあったのに、互いに口にしないまま、確かめないままで終わり、それでもそれぞれの記憶に通じて生き続けるものが、恋愛にはあると思います。
池松潤さんのこちらの作品を、リライトさせて頂きました。
「リライトとは」
思わず検索してしまいました。
経験値の低い私には、リライトがよく分かりませんでした。ツイッターで嘆いたら、池松さんがご丁寧にアドバイスして下さいました。
お陰様で、思い切って挑戦することが出来ました。
ありがとうございました。