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くるクル狂ドーナツ


■■俺■

「いらっしゃいませ」店の自動ドアが開く音がして、反射的に口が動く。もっと元気に爽やかに声を出せと何度店長に言われただろう。でも、何度言われても俺には「元気に」「爽やかに」がどんなもんなのか分からない。

木曜、午後7時15分。普段は木曜の夜にはシフトに入らないけれど、元々シフトだったアンドウサンが当欠したらしく、店長から召喚のラインが入っていた。普段は仕事ができない俺をシフトに入れたがらない癖に、こういう時ばかり「今井君しか頼れないんだよ~」などと言う店長も、いつ呼ばれても暇な俺自身にも腹が立つ。

昨日アンドウサンが描いたらしい季節メニューのポップをハサミで切り抜きながら自動ドアに目を向けると、鈴木さんが入口付近で限定ドーナツを選んでいた。鈴木さんは、常連の若い女性客だ。俺がアルバイトしているこのドーナツ屋は午後9時まで営業している。駅の前にあること、そしてドーナツ屋にしては遅くまで開いていることで、若い女性の客も多い。その中でも鈴木さんは、ダントツに顔が良い。スタイルも良い。客の顔を覚えられない俺の脳にも一撃でインパクトを与えてきた。鈴木さんは、美人だ。そして、週に何度もこの店に立ち寄って、毎回一人分とは思えない量のドーナツを買う。

鈴木さん。鈴木さんは、俺が鈴木さんを心の中で「鈴木さん」と呼んでいることを知らない。どうしても鈴木さんの名前を知りたかった俺は、何度もこの店に来る鈴木さんに、この店のポイントカードを作らせることに成功した。先月のことだ。鈴木さんがレジに来る度に、「ドーナツポイントカード作られませんか、ポイント10個でドーナツ1個タダになります」「ポイントカードを作ると季節メニューの取り置きが出来るようになります」と、かつてないほど熱心に俺は鈴木さんに声をかけた。何度か断られたが、先月ついに「つくります」と折れた。ポイントカードを発行する時に、名前と電話番号を記入する登録カードを書いてもらう必要がある。やや丸めの字で「鈴木モカ」と書かれたカードを見つめて、俺は洗練された名前だと思った。彼女の名を知った。半年以上働いていたが俺がお客さんにポイントカードを作ってもらえたのはこれが初めてだった。そりゃそうだ、俺は他の客にカード作りませんかなんて声をかけたことがなかった。あれえ、私あのお姉さんにポイントカード断られたことあるのにってアンドウサンが笑っていた。満足だった。




▢私▢▢

「いらっしゃいませ」おそらく自分に向けてかけられているその声で、今日はこの人がレジにいるのか、と思う。いつだって歓迎されているのかされていないのか分からない気だるげないらっしゃいませを放つ男性の店員。ドーナツを詰めるのに、平日の夕方によくレジ打ちをしてくれる若い女性店員の2倍は時間がかかる人。でも、無駄に顔は良い。やる気のない顔をしているけれどちゃんと見れば整っていて、月9に出ているあの俳優に似ているなと思う。平日のこの時間は、いつも金髪に近い小柄な女性がレジを打っていることが多い。今日はいないのか、何となく残念に思う。あの若い女性店員は愛想が良くってテキパキしていて好きだ。ドーナツ屋にとても似合う。私がどんなに大量のドーナツを買っても手際よく詰めてくれるし、たまに試作品を「内緒ですっ」と味見させてくれることもある。週に3~4ペースで同じドーナツ屋に通う女を白い目で見ない。私だったら、詮索してしまうと思う。でも、彼女は、新作ドーナツのことと天気の話しかしない。気が楽で良い。良い店員だと思う。

正直、ここのドーナツが特別おいしいから通っているわけではない。私は、砂糖に依存している。甘い食べ物がないと、ストレスで死にそうになる。生きるために砂糖を摂っている。だから、2日に1回はドーナツを買う。この店でドーナツを買わない日には、最寄りのコンビニで500ミリリットルパックの甘いカフェオレやスイーツを買う。でも、この店のドーナツは1個100円だし、10個買っても1000円。同僚とのランチを1回断れば、ドーナツが10個食べられる。安いもんだ。ドーナツは良い。それにこの店のドーナツはとことん甘い。今流行りの「甘さ控えめ」「低カロリーでヘルシー」みたいな文言、どこにもない。いつだって油の主張強めの、昔ながらのドーナツだ。どんなに満たされない気持ちでいっぱいになっても、どんなに甘い食べ物が欲しくて死にそうでも、どんなに仕事でストレスが溜まっても、ドーナツを次から次に胃に放り込んでいる間は忘れられる。さすがに10個食べ終わった後は罪悪感のような、心の胃もたれのようなものが少しはあるけれど、そんなの気にして砂糖を絶っていたら今頃私は既に死んでいただろう。人間、いつかは死ぬ。私はドーナツを食べて、私の命を引き延ばして、寿命を縮めている。変なの。

適当に甘そうなドーナツを10個選ぶ。今日は5、6個で良いかなとも思ったけれど、レジが「あの」男性店員だったから、10個にした。あのお兄さんは、5個とか6個とか、そのくらいの微妙な数のドーナツを入れる時にかなり時間がかかる。まず、箱に詰めるか、紙袋にするかの判断が物凄く遅い。いつもの小柄な女性店員なら私の出したトレーを見ながらもう箱か紙袋を取り出している。何度も通っている私にだって、もう分かる。このドーナツでこの個数だったら、箱。同じ個数でも、この小ぶりのドーナツばかりだったら紙袋で十分。それでも、あのお兄さんは、毎回間違える。心の中でいつも思う、今日は確実に箱じゃないと入らない、今日は紙袋に入ると思いますよ、と。でも、お兄さんは絶対に私の心の声とは逆のいれものを取り出す。だから、このお兄さんがレジに立っている日には、私は必ず10個のドーナツを選ぶ。10個は、確実に箱だから。あのお兄さんは、この小さいドーナツ屋でいとも簡単にレジに列を作る。それなのに、私にやたらとポイントカードを進めてくる。あまりにしつこいから、先月ポイントカードを作ってしまった。

「いらっしゃいませ」レジでドーナツののったプレートを男性店員に差し出して、ポイントカードを財布から抜く。小さな声で「1、2、3…」とドーナツを数えていた男性店員は10、まで数えると自信を持って箱を取り出した。



■■俺■

鈴木さんは良い客だ。レジを打つのもドーナツを詰めるのも遅い俺だけど、鈴木さんは何もかも知り尽くしているから他の人よりスムーズにいく。今日もドーナツ10個お買い上げ。鈴木さんは最近きっちり10個のドーナツを買うから、俺もさっと箱を取り出すことができる。ここで働いて半年以上たつけれど、俺はいまだに箱に何個、紙袋に何個ドーナツが入るか分からない。個数で決まれば良いのだが、ドーナツの大きさでも変わってくるから厄介だ。そういう、「臨機応変」が昔から苦手だ。でも、一つだけわかる。10個以上だと、どんな大きさのドーナツでも紙袋には入らない。鈴木さんはいつも10個買うから、必ず箱だ。鈴木さんは良い客だ。

トレーを俺に差し出し、財布からスムーズにポイントカードを引き抜く。ポイントカードの裏面に丸っこい字で「鈴木モカ」と書いてある。何度見ても字面が良い。鈴木さんは良い客だ。それに美人だ。当欠のアンドウサンや都合の良い店長への苛立ちも忘れるくらいには鈴木さんは素敵な客だ。

「ありがとうございました」ドーナツの入った箱を左手に持って自動ドアを出ていく鈴木さんを見送りながら、鈴木さんはあの量のドーナツを誰と食べているのだろうかと思った。この近くで働いているのだろうか、彼氏はいるのだろうか、そんなことを考えていると「今井君、7時半になったよ、今日は急に呼び出して悪かったね、助かったよ!」と能天気な店長が奥から顔を出した。やっと退勤の時間だ。俺にとって今日最後のお客は、鈴木さんか、悪くない一日だった。



▢私▢▢

鈴木モカって、割と良い名前だと思う。自分の外見にぴったりの名前をつけた自分を褒めたい。鈴木は、たしか日本で何番目かに多い名字、そしてモカは、前アルバイトしていたカフェによく来ていた美人のお姉さんが決まって頼んでいたコーヒー。「モカを一つ」と、あの芯のあるアルトの声で言われる度に、同性なのに恋に落ちそうになっていた。だから、モカにした。可愛い名前だ。

私の本名は、「正子」という。正子と書いて、タダコと読む。真っ直ぐで、間違いなさそうで、賢明そうで、気に入っている。でも、自分の名前を簡単に他人に言っちゃいけない。街でテキトウに声をかけてくるチャラい人に「タダコ」なんて言わない。大切で大好きな自分の名前はテキトウな人には隠しておく。テキトウに名前を聞かれたときは、テキトウにつけた名前を答える。「鈴木モカ」は、とてもウケが良い。可愛い、安っぽいOLの私にぴったりの名前。

ドーナツ屋を出てそのまま帰ろうかと思ったけれど、そろそろ後輩の誕生日だということを思い出し、駅の裏手にある雑貨屋に寄ることにした。アクセサリーや洋服、小物もコスメも取り揃えている、洒落た雰囲気の店。後輩のプレゼント選びなんて、今の職場に入社するまで経験がなかった。今の職場はとても好きだ。気に入っているし、手放したくない。充実した福利厚生、恵まれた環境、可愛い後輩と尊敬できる先輩。そんな職場。ずっとこのままこの職場で働きたい。仕事自体はつまらないことも多いけれど、この環境は絶対に手放すもんかと思っている。満足している。でも、幸せかと聞かれたら違う気がする。だって、幸せだったらドーナツをこんなにバカみたいに食べないはずだから。だって、幸せだったら、砂糖に依存しなくても生きていけるはずだから。

どこから狂ったのだろう。私のことなのに、私も分からない。

一年前まで、私は別の会社の契約社員だった。いじめやセクハラが横行している職場で、傷つくことを何度言われたか分からない。「君、可愛いし、俺の言う通りにすれば正社員になれるよ」「あなたは課長のお気に入りだもんね、働かなくてもずっとここに居られて良い身分よね」言葉の暴力は毎日毎日繰り返されて、ある日耐えられなくなって仕事を辞めた。当時付き合っていた彼氏は、私が仕事を辞めたときにこう言った。「タダコは可愛いんだし、そんなに苦労しなくて良いんだよ、どっか近くでアルバイトでもしなよ」私のどこが好き?と聞くと、迷わず「顔」と答えるような彼氏だった。彼氏の言う通りに、近くのカフェでバイトをはじめた。そのうち、よくカフェに現れるお姉さんが格好良く見えて、自分もバリバリ働きたいと思うようになった。バイトをしながら資格をとって、面接も数十社受けた。そして、晴れて、今の会社に正社員として入社が決まった。

就職が決まった時に一番に喜んでくれたのは、アルバイトしていたカフェの同僚だった。「タダちゃんがいなくなるのは寂しいけど、あのオフィスでバリバリ働いているタダちゃんを想像するとすっごくお似合い!」「たまには仕事前にコーヒー買いに来てよ」笑顔で送り出してもらえるのは幸せなのだと知った。

一方で当時の彼氏は、私に冷たく当たるようになった。彼氏は、フリーターだった。正社員として働くことになった私を、彼は散々言葉で殴った。彼と別れた日、最後に放たれた言葉は、「可愛いだけのタダコが好きだった」だった。馬鹿な男だなと思った。可愛いだけの女なんてどこにもいないのに、未だにこの人は「可愛いだけのタダコ」なんて幻想を抱いているのかと思った。そう言えば、この人は私の顔が好きだったのだ。そう言えば。それだけだったのだ。そんな人なんて他にもたくさんいた。「オネエサン可愛いね、名前なに?」「オネエサン遊ぼうよ、ライン教えて」そうやってまとわりついてくる人と同じだったのだ。気づくのはあまりにも遅すぎたけれど、気づくことができて良かったとは思う。

彼氏と別れてから、私はありえない量のドーナツを食べるようになった。もともと砂糖は好きだったけれど、主食にするほど依存してはいなかった。恋愛に向けていたパワーを全て食にまわしても、いくら砂糖を摂っても私は太ることが出来なかった。体質の問題、いや、食のバランスが偏りすぎて栄養が体にいきわたらなかっただけかもしれない。


私はすこしだけ狂っているけれど、後輩を可愛がる先輩を演じるのは難しくはない。むしろ、楽しい。雑貨屋で後輩にぴったりのデザインの化粧ポーチを購入し、ラッピングもしてもらった。ドーナツ屋の箱と、丁寧に梱包されたポーチの入ったショッピング袋を持って店を出る。もう、だいぶ暗くなっていた。さあ、帰って激甘のドーナツを食べよう。



■■俺■

定時後さっさと店を出て駅前の牛丼屋で夕飯を済ませた俺は、50メートルほど先を歩く鈴木さんを見つけた。小一時間前に俺が詰めたドーナツの箱と、どこのものかは分からないがお洒落な袋を持って足早に歩いている。あんなに店に通ってくれている鈴木さんだけど、街中で見かけたことはない。新鮮な気持ちで俺は鈴木さんを目で追った。日が暮れて、あたりはもう大分暗い。暗いけれど、鈴木さんは一目でわかる。美人で、スタイルが良くて、そしてあのドーナツ屋の箱を持っている。駅周辺で騒いだりたむろったりしている若者たちに目もくれず、鈴木さんはさっさと歩いていく。鈴木さんには人を吸い寄せる力がある。気づくと俺は、鈴木さんを目で追いながらふらふらとついて行っていた。



▢私▢▢

駅の周辺は治安があまりよくない。大声で騒ぐ若者も多いし、もう少し遅い時間になれば酔っ払いたちで賑わう。私は前だけを見てひたすら目的地まで歩く。

「お姉さん、綺麗ですね!!」さっそく声が飛ぶ。こういうのにいちいち反応していちゃ駄目だ。面倒なことになる。無視を決め込んですたすた歩く。慣れている。普段はこうすればかわせるはずだけど、今日の相手はしつこい。前髪の長い、二人組。「あの、すごい綺麗ですね、良かったら一緒に飲みませんか」「おねえさんカワイイですね、名前教えてくれませんか」ずっと歩きながらついてくる。二人とも前髪が鬱陶しくてタイプじゃない。仮にタイプだったとしても、こんなところで安い声かけをするような人は好きにはなれない。諦めない二人組にうんざりして、もう少し歩みをはやめようとした時、目の前の信号が赤に変わった。最悪だ。私と、前髪二人組が、横並びで立ち止まる。

「お姉さん冷たいなあ(笑)」「名前だけでも教えてくれませんか、ひとめぼれしちゃって」何度無視をしてもなお、ロボットみたいに声をかけ続けてくる二人組に半ばあきれつつ、とうとう「鈴木です」とぼそっと答える。「鈴木さん!下のお名前は?」二人組がわっと盛り上がる。こういう時、この安い名前が役にたつのだ。モカ、と言いかけたところで、ずざざざざざざあっっっっとド派手な音で、私と前髪二人組の間に割り込んできた影があった。まるで漫画か何かのようなありえない音で割り込んだ影は、私が何事、と思う間もなく、二人組を突き飛ばした。そして「彼女が嫌がってるの分かりませんか!!!」と、どう考えても大きすぎる声で二人組を威嚇した。

呆気に取られている私と、突き飛ばされてよろけた二人組。それまで登場していた私たち3人を置いてストーリーが進んでいく。なんだこれ、主人公は誰なの。そんなことを考えていると、影は、私に向き直って言った。

「逃げて」

突然大声をあげて、人を突き飛ばして、どうしたのですか。あなたは誰。助けようとしてくれたのかもしれないけれど、私はどっちかと言うとあなたの方が危険に思える。心のなかにありったけのクエスチョンマークを浮かべて、立ちすくんでしまった。影は更に続ける。「モカさん、簡単に名乗ったら危ないですよ」どうしてこの人は私の名前を…?よくよくよくその影を見る。...あれ、先ほどのドーナツ屋の男性店員だ。あの、月9に出てる俳優に似ている。いつもはやる気のない表情をしているから分からなかった。今目の前に立つその人は、ギラギラした目つきで、この世で一番必要のない正義を振りかざして、この世で一番キモチワルイ正しさを披露しようとしている。ごめん、キモチワルイ。私、鈴木モカじゃないし。ていうか、私の名前覚えてるのもだいぶキモチワルイ。人との距離感オカシイよ。突然現れて「逃げて」もだいぶオカシイ。月9かよ。ああ、キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ…ああ、甘いものが食べたい。砂糖が欲しい。ドーナツが欲しい。今私の手にある10個じゃ全然足りない。ドーナツが食べたい…。


ねえ、タダコ。正しい子、と書いて、タダコ、だよね。そうだったよね。私、どこから狂っちゃったのだろう。訳も分からず、涙を流しながら道端でドーナツの箱を開ける。そのまま見るからに甘そうなドーナツをつかんで食べだした私を、さっきの突き飛ばされた二人組と、ドーナツ屋の店員がおびえた目で見つめている。

狂っちゃったよ。ウケる。ウケるね。何だか笑えてきちゃった。今まで泣いていたのに今度は急に笑い出した私を見て、前髪二人組もドーナツ屋の店員も気味悪そうに後退りしはじめる。いいよ、はやくどっか行ってよ、私もどっか行きたいよ、狂ってるのは私だけじゃないでしょ、あんたたちも十分狂ってんでしょ。

くるくるくるくるクル狂...ドーナツの穴でくるくる目が回りそうだ。あーあ、このままこの穴に吸い込まれて消えてなくならないかな、そんなこと思ったって、どうせ明日も私生きてる。この狂った二人組も、店員も、生きてる。狂ってるね、楽しいね。タノシイネ...



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番外編??










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