被限定者不二一元論とは?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」
被限定者不二一元論とは?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」
今まで、シャンカラさんの不二一元論を批判して成立した、ラーマーヌジャさんの被限定者不二一元論の説明をほとんどしてこなかった。これが、心残りというか、やり残した仕事というか、ズーッと気になってたんだよね。
うーん、その気持ちわかるよ。やっぱり、被限定者不二一元論も大事だもんねー?!
そこで、被限定者不二一元論を簡単にまとめてみることにした。
ラーマーヌジャの被限定者不二一元論。
要するに、被限定者不二一元論とは、➀ブラフマン一元論、➁ヴィシシュタ(被限定者・属性)を持ってブラフマンは現れる(世界や個我として)、➂ブラフマンの具現化としての人格神(イーシュワラ)がいる(ヴィシシュタ)、➃信者は、イーシュワラへの信仰(バクティ)を通じて、ブラフマンとの一体感を強める、➄ブラフマンとの一体感を完全に感じ、無知を克服することが悟り(解脱・モークシャ)である、➅ブラフマンは多様性を持って現れるが、結局は唯一の実在であり、被限定者不二一元論は、ブラフマン一元論である、とまとめられる。
唯一の実在、ブラフマンがヴィシシュタ(被限定者・属性)を持って現れる。要するに、世界・個我として現れる。だから、被限定者不二一元論は、ヴィシシュタ・アドヴァイタ・ヴェーダンタ=「ヴィシシュタードヴァイタ・ヴェーダンタ」と呼ばれるんだね?
そうだね。だから、被限定者不二一元論=「ヴィシシュタードヴァイタ・ヴェーダンタ」なんだ。そして、ブラフマンは、人格神としてのイーシュワラ(クリシュナ、ヴィシュヌ・シヴァなど)として具現化する。
神様が信者にとってわかりやすいね。シャンカラさんのアドヴァイタ・ヴェーダンタ=不二一元論では、抽象的なブラフマンだったじゃん。ラーマーヌジャさんは、抽象的なブラフマンは説かなかったの?
ラーマーヌジャさんは、抽象的なブラフマンをあまり説かなかったらしい。これは、シャンカラさんの不二一元論と区別を明瞭にするためだと考えられる。
被限定者不二一元論では、「信仰・信愛・献身など」=バクティが大事!
シャンカラさんは、バクティを強調している経典「バカヴァッド・ギーター」の注釈書も書いているが、バクティ=知として、信仰などの本来的意味のバクティを認めなかったらしい。
ラーマーヌジャさんは、その点を批判したかったのかな?「信仰・信愛・献身など」の意味を持つバクティは、通常のヒンズー教信者にとっては大事だよね?
ただ、そういうシャンカラさんも、一般民衆向けにバクティを賛美した詩などを書いた可能性がすてきれないんだ。実際、現在のインドでの不二一元論の学徒は、バクティ信者が優勢らしいからね。
とにかく、被限定者不二一元論ではバクティが大事なんだよね?
そうだね。そのために、イーシュワラ(人格神)の積極的関与を認めているんだしね。お寺に仏像があると拝みやすいように、抽象的なブラフマンよりも、シヴァやヴィシュヌのような、人格神は、具体的で信仰(バクティ)しやすいわけだ。
ラマナ・マハルシさんは不二一元論・被限定者不二一元論を折衷したような考え方を持っているような気がボクにはした。
今、ポール・ブラントンほか「不滅の意識」を読んでる途中なんだけどね。
20世紀最大の覚者と言われる、ラマナ・マハルシさんは、イーシュワラも「中間的(段階)の手段として」認める考え方を持っているらしい箇所があったから、不二一元論・被限定者不二一元論を折衷したような考え方を持っているような気がボクにはした。
でも、あんまし、自信ないんでしょ?
うーん、本当にこの本を理解したわけじゃないんだよね。でも確実に言えるのは、ラマナ・マハルシさんは、知識(ジニャーナ)と同じくらい信仰(バクティ)を重視した、ということだ。
でもヒンズー教の神を信仰(バクティ)するのは、どーも抵抗感があるよ。
大丈夫。ラマナ・マハルシさんは、真我が神だという立場だから(笑)
そっかー、それなら、安心だね!(笑)
(後日談)
本書を読了して、良く考えみたら、ラマナ・マハルシさんは、だいぶ不二一元論寄りかな?と思い始めた。やっぱり被限定者不二一元論と折衷したというのは、間違いの可能性が高いな・・・。
なんだ、間違っていた可能性が高いのか(笑)
もうちょっとよく勉強しないと、よくわからない!(苦笑)
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