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ハードボイルド書店員日記【219】

「ちょっといい?」

レジを抜ける時間になった。棚登録と在庫データの確認に使うハンディタイプの端末を持ち、担当するエリアへ歩を進める。

文庫棚の前。白髪の男性に呼び止められた。北方謙三「三国志 十三の巻 極北の星」(ハルキ文庫)を開いている。

「いらっしゃいませ」
「これ、この巻で終わり?」
「仰る通りです」
「最後まで書かれてないよね」
「たしかに。三国時代の終焉は呉が滅亡した280年なので」
眼鏡の奥で黒目がかすかに膨らむ。
「読んだの?」
「学生時代なのでうろ覚えですが」
「最近出た本じゃないの?」
「こちらは新装版です。旧版はだいぶ前に」
「誰が好きだった?」
「呂布と張飛です」
「はは、ぼくと一緒だ」
多くの読者が同じ気持ちを抱いている。

ビジネス書の品出しがひと段落した。次は旅行ガイド。文庫エリアの横を通過する。例の老紳士にまた呼び止められた。
「あなた、三国志に詳しそうだから訊きたいんだけど」
「はい」
「この後の展開を読める面白い小説知らないかな? 特に終盤の辺り」
「ございます」
文芸書の時代小説コーナーへ案内した。
「こちらはいかがでしょうか?」
塚本靑史「司馬炎 三国志を終わらせた男」(河出書房新社)を手渡す。
「そうだった。この人が統一したんだ。司馬懿のたしか」
「孫です」
「面白いね。歴史は繰り返す。漢から帝の地位を奪った曹操の魏が、今度は司馬一族の晋に同じことを」
「晋の天下も長くは続きませんでした」
「八王の乱だよね。同族に力を与えすぎたことが内乱を泥沼化させたんだっけ?」
「その経緯にも触れている一冊です」

パラパラと捲っている。
「……文体がどことなく学者っぽいかも」
「中国史を題材にした小説を多数書いている方です」
「ぼくは北方さんの乾いた無常観というか簡潔さが好きだけど、この骨太な感じも悪くないね。他はどんな作品を?」
「私が読んだのは、こちらと講談社文庫の『王莽』だけです」
「ああ、前漢を滅ぼした」
お詳しいですね。言い掛けて礼を失するのではと考え、呑み込んだ。
「三国志関連では、姜維や趙雲が主人公のものを」
「姜維は気の毒だったね。魏から蜀へ移って、孔明亡き後に孤軍奮闘を」
「気持ちがわかります」
「そうなの?」
「いや失言でした。人手が足りないのは事実ですが、私は姜維ほど有能ではないので」
「広くて豊かな魏へ亡命するという手もあるよ」
「そこはむしろ姜維と一緒です。大手書店チェーンから離れた身なので」
「どうして辞めたの?」
「理由のひとつは、大きな会社にありがちな前例踏襲主義でしょうか。毎年同じことを繰り返して徐々に沈むよりは挑戦を」
「金太郎飴は常連さんからしたら安心だろうけど」
「『司馬炎』のなかに頷ける教訓が」
本を受け取り、記憶を頼りに開く。231ページ。こんなセリフが記されている。

「例があるのは、そのとき必要な事情があったからだ。例があろうと、必要がなければ踏襲する必要はないのだ」

「司馬炎 三国志を終わらせた男」塚本靑史 河出書房新社 231P 

「なるほど。さすがは長引く戦乱の世を終わらせた勝利者だ。リーダーとして有能だね」
「だからこそ最後の方は読むのがつらかったです」
「ああ」
言葉にしなくてもわかってくれた。中国に限らず、各国の歴史や政治事情を学べば嫌でも気づく。無論この国も例外ではない。

レジを打ち、カバーを掛けた本に栞を挟んで手渡す。
「悪いね。ところで『絶対的権力は絶対的に腐敗する』って言ったの誰だっけ?」
「ジョン・アクトンです」
「ただ、知っていることと実際に防げるかは別の話だよね」
「本を読んで学ぶことの限界というか」
「それでも知っている方が、止められる可能性は高まる」
「たしかに」
「もちろん何でも読めばいいってものじゃない。要らない情報も少なくないからね。だからこそ信頼できる本屋さんが必要なんだよ。君みたいな読書家の店員さんも」
「嬉しいお言葉です」
「ネットで買ってもこういうやり取りはできない。おかげで楽しかったよ。魏に負けないように頑張って」
「ありがとうございます」

やはり「姜維」も読もう。私はここで生きる道を選んだのだ。いまさら魏へ戻る気はない。たとえ最初から孔明がいない蜀でも。

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