ハードボイルド書店員日記【212】
朝礼が変わった。
入荷のない休配の土曜、日曜そして祝日は、従業員がオススメの本を紹介することになった。持ち時間は5分で質疑応答も可。異動してきた正社員のアイデアである。ビブリオバトルの経験者らしい。
「あれ、どう思います?」
平日の午前中。年末年始に備え、カウンターでひたすらカバーを折る。隣に入った雑誌担当に声を掛けられた。
「あれ?」
「朝礼の」
「ああ」
彼は次の土曜の担当である。
「べつに紹介したい本とかないんですけど」
「コミックや雑誌でもOKらしい」
「うーん、特には」
「いま読んでるのは?」
反応が遅れた。首を傾げている。
「……いやどうかな。ああいう場で軽々しく勧めるのは」
「戦争文学とか?」
アニメのキャラクターみたいに仰け反られた。
「先輩、他人の心が読めるんですか?」
「まさか」
「戦争じゃないけど、国の民主化を求める一般人を軍が」
「もしかしてハン・ガンの『少年が来る』?」
さらに大きく仰け反った。
「あれですか? 頭の中で『イエス、イエス、イエス』」
「ジョジョ読んでないとわからないよ」
「ありがちな『書店員のオススメ』とかにしたくないんです」
背筋を伸ばし、思いつめた口調で語り出す。
「本音を言うなら、みんなが知っておかないといけない内容じゃないですか?って。平和な世の中で暮らせている僕ら全員が」
黙って続きを促した。
「そういう名作について、インスタントな企画で知った風に語りたくない。失礼な気がするんですよ。本にも著者にも登場人物にも」
言わんとすることは伝わってきた。
「もし先輩が『少年が来る』を5分以内で紹介しなさいといわれたら、どうします?」
「そうだな」
手を止めてしばらく考える。
「まず1980年5月に起きた光州事件の概要を話す。戒厳令に抗議する学生や市民を韓国軍が暴力で鎮圧し、大量に虐殺したと。それから、ふたつの箇所を引用する」
レジを離れ、文芸書のフェア台から「少年が来る」を取ってきた。版元はクオンで2016年出版。
「まずはここ」
140ページを開いた。こんな文章が記されている。
「僕も印象に残ってます。恐るべきもの、という表現が特に。上手く言葉にできないけど、正義感や優しさに付随する危うさみたいな」
「良心ゆえに逃げず、良心ゆえに闘い、良心ゆえに命を落とす。生き残っても苦しみ続ける。だとしたら、良心を捨てるか一時的に忘れるかして、平穏無事に生きることだけを考えた方が」
「ただ、もし誰もがそういう人間だったら、おそらく韓国の民主化は。いや韓国だけじゃなく日本だって」
「うん。それこそ数分間の朝礼で話し合い、答えを出せるテーマではない。でも考えるべき問いを提示することはできる」
「答えではなく問い、ですか」
さらに165ページを開いた。
言葉が出ない。お客さんのほとんど来ない時間帯で良かった。
「……朝礼でこの本、紹介してみます」
掠れた声でつぶやく。
「そうか」
「企画がインスタントでも、それがきっかけで人生を通じて考えることに繋がるのなら。従業員の意識が変われば選書や並べ方、お客さんへ紹介する際の話し方も変わってくるはずだし」
いや違いますねと首を振る。
「他人どうこうの前に僕自身の意識を変えたい。この本について話すという行為に伴う責任をその端緒にします」
「それは俺も同じだよ」
責任。あるいは良心。答えなど出せない。出せるもう出したという思考停止が傲慢を助長し、致命的な危うさへと育て上げる気がする。最適解に到達したと実感してもなおアップデートを怠らない。その姿勢を忘れぬためにも「少年が来る」はまた読む。