見出し画像

”人生の空白の意味を探し始めた君の物語”【短編小説①】「ちょっとお願い」

「ちょっとお願い」

篠原 多久美

別れそうになっていた彼氏と先日別れた。私が化粧をしてないときはセックスする気になれないなんて平気で口にするひとだった。カウンター席に座っていた男性客の食べ方が私にその嫌な感覚を蘇らせた。

お冷やサービス。客に呼ばれる前にチェイサーグラスの水を足す。どんなピーク時間帯でもこれが出来なければ一人前のホールスタッフとは云えない。

テラス席の男性客が頭を後ろに傾けてお冷やを飲んでいるのが壁ガラス越しに見えた。ピッチャーをしっかりと右手で持ってテラス席へ通づる開けっ放しの出入口を抜ける。デッキの床が弾むように低音を鳴らす。客のテーブルの脇に立つ。お冷やを注ぎましょうか、と声をかけるのとほとんど同時に左手をチェイサーグラスへと伸ばした。不意にその男性の大きな右手が私の手首をつまむように掴んだ。限りがある大切な何かを一つ無駄にしてしまったような、急にそんな不安な気持ちになった。

5月の晴れた平日だった。太陽の眩しさ、空の雲のかたち、流れる風の匂いすべてが柔らかくて心地がいい。

遠くでキッチンのプリンターがピーピーピーと短く鳴った。オーダーを読み上げる声が聞こえた。

------------

私のバイト先は東京湾に面した大型商業施設のなかにある。施設内には大きな中庭があり、客たちはそこで忙しさに追われる日々を一瞬忘れることができる。大通りからも距離があり独特な静けさを保っている。人工物によって整えられた空間ではあるが、人の心は素直に安らぐ。それなりの有り難みを感じるのだ。

中庭のちょうど真西に海がある。海というより湾と云った方が正しい。湾は人工的に造られた様々ものに囲まれている。太陽がきらきらと反射する波の向こう、遠くの方に高く積まれたコンテナが見える。高さやコンテナの色や積み方が見る度に違う。いつのまにか変化している。毎日その作業に汗して励んでいるひとたちがいる。そのことを想像せずには居られない。

海が見えるハンバーガー屋。そう施設内のインフォメーションでは紹介されている。実際は紹介文から想像するような景色は残念ながら見えない。店舗の場所から海に向かってゆるやかに下り勾配した芝生が続いていて海面は目に入るが、その地平線を象るのは湾岸工業地帯の建物の角ばった輪郭だ。海は、と云うより海面は、何かに遠慮しているような波の揺れ方でどんなに天気の良い日でも空ほどの存在感は無い。空と大地。海はその大地の一部分に過ぎない。

------------

おかわりは結構です。普通にそう云えばいいのにな。

店内のホールスタッフがてきぱきと動いている。ごつごつした塊がみぞおちのあたりで向きを変えようとしている。ゆっくりと息を吐き出す。上下の前歯をくっつけたまま。糸のように細く、細く。

この男性には女性の連れがいた。彼女ではない。カップルなら見ればわかる。その女性は肌を露出した派手な格好をしているが表情にあまり動きはない。その髪とからだのふくらみはプレゼントにかけられた赤いリボンを思わせる。男性はアイスコーヒーを、女性はマンゴージュースを注文していた。テーブルの上に小さな撮影用のカメラが載っていた。レンズは女性側に向けられ、液晶で写り方が確認できる。彼女は背筋をぴんとさせ、男性が何か質問するのを待っているように見えた。去り際の笑顔を見せるために右の口角にほんの少し力をいれようとするがうまくできない。もう一度店内を見ると他のスタッフが手で合図をこちらに送っていた。君の休憩の番だよ。

店内に戻るとアルバイト仲間がカウンターから出てきた。ホールの引き継ぎを彼にしなければならない。彼は年上だが私よりもあとから入ってきたフリーター男子だ。20代後半で会社を辞めてバンドを組んだらしい。仕事中も仕事以外でも声が大きい。自分の元気が周りを元気にしていると、そう信じているに違いない。そして実際にそうなのだ。私はこの彼に好意を持っている。そうなったらいいな、くらいの好意だ。しかし彼は鈍い。たぶん自分で鈍いと思っていない。でもその少し抜けているところも良い。

「ご新規、お料理の提供なしです。テラスのお客さんはもうお冷やは大丈夫です」と私はお決まりの文句で伝えた。

「オーケー」と彼は云ってカウンターの中に戻った。カウンターの床はホールより一段高い。その段差をいつも彼はぴょんとジャンプして上がる。私はそれも好きだ。うちのお店はグラスを洗浄機に入れずに手洗いをしている。ピーク後恒例の一仕事に彼は全神経を集中していた。後ろ向きにかぶった帽子のつばが頭の動きに合わせて忙しそうに振り回されている。片手でグラスをすすぎながら、手首をへの字に折り親指の付け根あたりで額を拭った。

私はキッチンを通り抜け裏口から外に出た。後ろでキッチンスタッフの声が聞こえた。

「まかないどうする」

------------

私は外にたばこを喫いに行った。

屋外にある喫煙所が一番近かった。私はそこが好きだった。客用だったので従業員は利用してはいけないルールだったが、あまり守られていなかった。他のテナントの男性スタッフと居合わせた時は、話しかけられるのが面倒だったので携帯を触ってメールをしているフリをした。

太陽の光はさらさらと音が聞こえてきそうなくらいに軽く、肌に心地よく降り注いでいる。葉の裏側もふんわりとした色合いを呈している。雲も空もすべすべとして柔らかそうだ。赤ん坊の肌のような特別な触り心地かも知れない。

たばこの煙を吐き出したとき別れた彼氏のことを思い出してしまった。昨日かけたパーマの調子もあまり良くない。せっかくかけたのに、もうもとの髪に戻りつつある。そもそも私の髪は柔らかくパーマがかかりにくい。でももう一度かけ直してもらうつもりだ。もう休憩時間は終わりだからまた後で電話してみよう。

喫煙所から戻ってきて裏口の重いドアを開ける。ドアノブを僅かに手前に引いただけのその30センチもない隙間から肉の焼けた匂い、厨房内の壁という壁に染み付いた動物油の匂いが溢れ出てくる。爽やかな外気があっという間に蹴散らされてしまう。ハンバーガーのパティを焼いていても焼いていなくてもその匂いはたっぷりと屋外に波打って吐き出される。この仕事を辞めて何年か経ったあとでもこの匂いを嗅げば私は反射的に思い出すだろう。この場所を、この日々を。10年後、20年後、何をしているのだろうか。やりがいのある仕事をしているだろうか。好きな人はいるだろうか。結婚は、子供は。

------------

休憩から戻ってくると、バンドマンの彼はレジの前にしゃがみ込んで店内音楽用のアイポッドを睨んでいた。カウンターのいちばん端にレジがある。今の時間の彼の役割はドリンクとレジと新規客のご案内、必要とあらばホールのフォローもしなければならない。私は彼の替わりにそのポジションに今から入る。

「おかえり」

一瞬こちらの方を見上げて彼は云った。

私は引き継ぎをもらうためにしばし待った。ピークタイムは軽快なハウスがずんずん鳴っている。席効率など無縁なこの時間からもっと落ち着いた雰囲気にすべく彼はプレイリストを慎重に選んでいる。

そうこうしているうちに彼のまかないが出来上がった。私は彼のまかない用のカトラリを紙ナプキンに巻いてお皿の横に置いておく。まかないのドリンクまで作ってあげようかなと思っていたら彼が立ち上がった。どうやらプレイリストは無事選び終わったようだ。彼は満足そうにゆったりとした曲に合わせて肩と顎でリズムをとり私への引き継ぎを始める。

「コーヒーポットの中はあと2杯くらい、次の分は計量だけ」

目が合った。そのあと彼は自分のまかない用のドリンクを作り始めた。炭酸のガンがクラブソーダを吹き出す音が鳴った。彼はキッチンの方に首を向けて少し前屈みになり「まかないありがとうございます、休憩頂きます」と大きな声で云った。

------------

ディナーの営業のためにこの時間から準備しておかなければいけないことがいくつかある。カクテル用のライムもカットしておかなければならない。

私はカウンターの中からさっきの男性客のテーブルをみた。

もうそこには誰も座っていなかった。安心したと同時になんだか自分が逃げたような気がしてきた。今度あの客がお店にきたら平気な顔をして接客しよう。私はペティナイフでライムのヘタを落とした。

そろそろランチの時間が終わる。メニューが切り替わるのだ。店内に居る客にそのことを伝えるために各テーブルを回らなければならない。私は店内を見回した。いちばん奥の6名席を母子が利用していた。母親は今離席している。商業施設のお手洗いに行っているのだろう。混雑していない時間帯ならば2名でも希望があれば広い席に通すようにしている。子供は中学生くらいの男の子だった。家の外で母親と共にいることが嫌で嫌で仕方がないと云う感じがすぐにわかった。

ほどなくして、彼女はお店に戻ってきた。

------------

優しそうな母親だ。

友達の家に遊びに行ったときに気前よくお菓子を出してくれそうなお母さんだ。私が彼女に「おかえりさなさい」と声をかけようとしたとき、彼女は歩みをこちらに向けた。それと同時にわずかに微笑んだ。仕事をしている顔だ。なぜか私は背筋が伸びた。

「ちょっとお願いしてもいいですか」

私への敬意を示しながらも、受け入れがたい何かが彼女の口調に表れている。奥のソファに座って待っている息子は母親が買い与えた洋服のデザインが気に入らないらしく、着ないと言い張っているらしい。それくらいの年齢の少年にはよくあることだ。そしてこの母親は彼が男子であるということもちゃんと分かっている。

私はその役目を快く引き受けた。お安い御用ですよ。

開け放たれたエントランスから気持ち良い風が入ってくる。東京湾の海水の塩分を僅かに含んでいる。温もりがあるその風の匂いを、ゆっくり、長く私は吸い込んだ。

おしまい

2024/12/4 自宅にて


いいなと思ったら応援しよう!