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【人生ノートMagazine】おおそうだ、愛は無限だ

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人生ノートの中から特に教育、愛情や好意など誰かへの情について、夫婦の結婚や恋人同士など男女の関係などについてのところをまとめています。
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記事一覧

【人生ノート301】どんな無知な人間に対しても、かならず、それ相当の理解と安心とを与えることによって教え導くというふうにせなくてはならぬ。

人を教え導くにはあえて争うということほどバカ気がことはない。無理に強いるということは、かならず、あとに悪い結果をのこすものである。相手を心から合点さし、理解さすようにと、いろいろ手段を弄するのはよいことである。そうでなくして、ただ単に、自己を主張するために争うというのは愚の極みだ。なんら得るところがないからである。 どんな無知な人間に対しても、かならず、それ相当の理解と安心とを与えることによって教え導くというふうにせなくてはならぬ。すなわち、人間は物質とは異なって、みんな自

【人生ノート 263ページ】ああ若者よ、その他の何物も得なくともよい、真のAmo(愛)だけは得てくれ!

真の愛だけは得よ肉体心のあてにならぬことをシミジミ感じる。しかも人はたれでも、この肉体心を唯一のもののごとくにして、万事を判断せんとする。これが非常な間違いのもとだ。 ○ わたしが悪いのだ、万事、わたしが悪いのだ。いかなる人にせよ、その人に対して、頭から悪感を懐いたりなどするのは、わたしが悪いのだ。 ○ 人生にとって、もっとも大切なことはEdzigo(結婚)だ。これが失敗したら、その人の一生は失敗である。それでも、まだAnimo(魂)のほぼ相合うのは結構だが、その差が

【人生ノート 182ページ】 ただ単に、そうしたいから為す、というのでなくして、ある思いをこめてする行為は、いずれにしても、汚れている。

他人を通しての自己愛タバコのきらいな人の前で、やたらに煙をふきかけるのは確かに無礼だ。しかし、タバコを好む人の顔に煙を少々ふきかけたところで無礼ではない。 裸体はいやしいと思い込んでいる人のまえで裸になるのは無礼だ。しかし、最奥天国ではほとんど裸だ。 礼儀にかなっているとか、無礼だとかいうのも、要するに、好意そのものにあるのではない。そう思うからそうなのである。 ○ ある目的のために人に尽力するのは、要するに、その人を通して自己を愛するのである。何ら目的なしに、愛する

【人生ノート 183ページ】 神の宝座は各自の心中にある。鬼も仏も心からだ。

 理想を急激に実現せんとしてはいけない。とにかく、少しずつでよいから、着手して改善していって、漸次に、実地にあたってそお呼吸をさとり、一歩一歩、向上をはからねばならぬ。 つぎにまた、何事でも一事に執着し固着してはいけない。一切は流動性において活きているのであるから、つぎつぎに目先を変え、内容を変えてゆかねばならぬ。 ○ 理屈は大抵知っているが、実行ができないだけだ。 ○ すべて画一的にキチンと計画することはおろかなことだ。 ○ 想念の世界であるから、相互によりよ

【人生ノート 184ページ】 相応の理によって、善言は善意を喚び起こし、悪言は悪意を呼び起こすことになる。

善言は善意を喚ぶ 利己観念の強い人ほど、物ごとを正当に公平に価値づけることはできぬ。彼等はつねに自己ちょうものを、その中へ取り入れている。 卑怯な者は、一面、また非常に残酷なところがある。彼等はつねに自己の安危をのみ土台に、物ごとを観ているのだ。 世間のせまい者ほど自己を知らない。それはつねに、ある意味において、鳥なき里のコウモリであるからである。 ○ ほめられて怒る者はなく、けなされて喜ぶものはない。 暴言悪語ほど人を後悔せしむるものはない。 たとえ大悪人にした

【人生ノート 212ページ】 苦労すればするほど可愛さがましてくるものである。

手数をかけるほど愛は生ずるものである。親が子を育てるにしても、なかなか一通りや二通りの苦労ではないが、苦労すればするほど可愛さがましてくるものである。 すべて、面倒や手数をいとうていては、何ひとつ真に自分のものにすることは出来るものではない。 ある団体のためとか、ある会のためとかいう場合でも、自分が身を入れる度が大なれば大なるほどそれらに対してより強い愛が生じてくる。 要するに、身を入れただけ、面倒をみてやっただけしか自分が拡がらぬものである。  『信仰覚書』第七巻、

心の奥に常に好意を

外的の行動は別として、その根本において、一切のものに対して好意をもって接することが大切である。 心の奥底に好意をもっていない人は、いかにその言葉や態度がいんぎん丁寧をきわめていても、どこやらに冷たいところがあり、寄りつき難いところがある。 言葉や態度に、一時の冷静さや峻厳さがあっても、その心の底に好意がひそんでいる際には、なんとはなしに一種の感銘をうけるものである。よしや、一時は恨んでも、あとになって有難くなつかしく思うものである。 要するに、根本において、相互に好意を

常に好感をもって

言葉の使いよう、ちょとした態度によって、相手に非常なショックをあたえる場合が往々ある。相手を怒らすのも和めるのも嬉しがらせるのも、ホンのちょっとの呼吸である。何も別に阿諛する必要はないが、とにかく、相手につねに好感をもって接する心がけが肝心である。 人間というものは、案外気の小さいものであるから、よほど注意せねばならぬ。 ○ お互いに己惚(うぬぼれ)というものを平らげたいものだ。そして、人をそねみ、ねたむということをなくしたいものだ。 他人の欠点は直ぐに目につくが、さ

人格を重んじ合え

大抵のことなら、他人のしていることを、とやかく言うものではない。 自分は自分だけのことをしていたらよいのだ。 ○ とげとげしい気分が一番いやだ。あたたかい円みのある人が一番好きだ。 人間はどこまでも共同生活をしてゆかねばならぬものであるから、あくまでも互いに打ち解けて、仲よく面白く暮らさねばならぬ。 最初から人を疑ってかかったり、人の心を試すような気持でいたりしてはならぬ。お互いに信用し合って、人格を重んじ合わねばならぬ。 世の中で、何が愉快だといって、気心の知れ

天の声

人がきて、なにげなく話していくことのなかに、ふだん気づいていないことを教えられることがあります。それは、自分と関連のない話のようであっても、なにかの意味をもっていることがあります。 意味なく人がきて、意味なく話していくということは、ほんとうは、ありえないことではないかと私は思います。人がなにげなく話していることのなかに、天の声がさしはさまれているかもしれません。 めんどうでも、さっそく実行しなければならない場合もありましょう。かりに徒労におわっても、その徒労がありがたいこ

心の狭さ

人間の心の世界は案外せまいものです。自分の年齢に近い人には関心があっても、へだたっている人々には無関心でいるものです。若い人が、道を歩きながら示す視線をみても言えましょう。 わたしの子どものころ、たくさんの信者さんに会っていても、年齢のかけはなれている人は、ほとんど記憶にありません。自分の意識の中にあるのは、その時代々々の自分の年齢に近い人が多いものです。自分と年齢のへだたっている人には、ばくぜんと見覚えはあっても、名前も知らないままにすごしています。ことに私のように大勢の

あたたかい心

理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。これに反して、落ち着きのない、冷やかな理屈っぽいのは、けものの心である。 人体は霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級、低級霊を容れることが出来るのである。かように作られているのであるから致し方ない。だから、人は常に内心をつつしみ清めて、かりにも悪を思わないようにしなければならぬ。常に、われとわが心を省みて、悪魔のつけこむ隙のないようにしなければならぬ。 人とつき合っても、こっちから「あいつは

感情がいわゆる小我?

人は心の持ちよう一つで、詭弁も雄弁にまさり、雄弁も詭弁に劣るものです。 また、言い訳はしなくてはいけないこともあり、言い訳のため、かえって逆効果の生じることもあるということを知りました。 結局、自分の立場だけで、周囲の影響をおもわぬ人へ、考えのいたらぬことは許し合わねばならぬが、そのために迷惑をおよぼした時は、やっぱり自分の言い分は一おう言うとしても、「悪かった」との一言が、人の心を和らげる大事なポイントであることも分かりました。 ○ いかに正直であり、道理があっても

人の言うことも聞いて

 人間というものは、いつも、人と人との関係に立って、自分というものをみる一面が、必要ではないでしょうか。人間という言葉にも、その意味が含まれています。それで、自分の気持ちに少しもやましいものはない、と信じることは大切でしょうが、それだけではいけないことがありましょう。  自分は少しもやましいことなく行なっていることが、それを受ける側がそうは受けとってくれない場合は、一方的に自分の立場だけを固執しないで、やはり広く考え直してみるだけの度量をもつことが大切でしょう。気持ちが純粋