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【人生ノート 183ページ】 神の宝座は各自の心中にある。鬼も仏も心からだ。

 理想を急激に実現せんとしてはいけない。とにかく、少しずつでよいから、着手して改善していって、漸次に、実地にあたってそお呼吸をさとり、一歩一歩、向上をはからねばならぬ。

つぎにまた、何事でも一事に執着し固着してはいけない。一切は流動性において活きているのであるから、つぎつぎに目先を変え、内容を変えてゆかねばならぬ。

理屈は大抵知っているが、実行ができないだけだ。

すべて画一的にキチンと計画することはおろかなことだ。

想念の世界であるから、相互によりよき想念をつくらねば、この世は決して新の幸福にはならぬ。

どんなことがあっても、人を恨んだり、世をはかなんだりしてはいけない。罪のために心に悩みのある場合でも、つとめて陽気になるように努力し、良き名人のところへ行き、陽気な場所へ行くようするのがよい。

人の気分は、その周囲と非常に密接な関係がある。

神の宝座は各自の心中にある。鬼も仏も心からだ。こころ、神に向かえば、とにかく、その時相応の守護はきっとある。

外的力で魂を左右できぬ

一切を神とみて、これに仕える気持とならねばならぬ。

他の気分は尊重せねばならぬ。威圧によって形の上から人を支配しようとするのは悪魔のわざだ。こは、一時的である。

愛によって、魂の上から人を左右するのは神さまだ。こは、永久的である。

たとえば、親子の間がらなどでは、力の上では、子の方が親に数倍まさっている場合でも、親に命じられたら、親に抗することはできない。親から言われると、その言葉がヒシヒシと身にこたえてきて、なんとはなしに抗することは出来ぬのである。これは明らかに、親子は魂と魂とのあいだに、すなわち、情誼の上から、一種不可抗的に、親子、上下、主僕の関係が成り立っているからである。現界的には無智文盲の親でも、その子に対しては、ほとんど絶対の主権をもっている場合が多い。

すなわち、形の上からの力や技能や知識は、内的の霊魂の力に対しては、なんの役にも立たぬものであるということが分かるのである。たとえ形の上でいくら屈していても、魂の上でそうでなかったならば、両者は決して真の主僕的関係にあるのではない。現界ではある事情のために、単なる形の上からの主僕的関係が作られているけれど、霊界にはいっては、かならずや、真の霊魂の位置に帰するものである。

現界にあるとき、形の上から人を威圧屈服せしむることを念としている人たちは、やがて、ながい煉獄の試練におかれるのである。

威圧的でなしに情誼の上から、ただなんとはなしに、上下、主僕の関係が自然に生まれてくるのが本物である。

『信仰覚書』、出口日出麿著 

【これまでの振り返り】


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