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“俺、GODIEGO、好きだナ”

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  • 『走り去るロマン』に賭けた夢(ロマン)

    2025年1月、レコードデビュー50周年を迎えるタケカワユキヒデ(ゴダイゴ)。デビュー作『走り去るロマン』への道のり、そしてゴダイゴ結成までを詳細に綴る連載。2024年6~11月、全26回。

最近の記事

『走り去るロマン』に賭けた夢 連載25 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ④<タケカワの2ndと、グループとしてのデモ録音> 前述したように75年秋から年末にかけて、タケカワの2ndアルバムの制作が進行していた。同年春のデビューツアーのセットリストに組まれて、アレンジも完成済みの「YELLOW CENTER LINE」「SUITE: GENESIS(組曲・新創世紀)」をはじめ、コラボ中断期の夏に作曲している「IT’S GOOD TO BE HOME AGAIN」「MAGIC PAINTING」のレコーディ

    • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載24 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

      第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ③<メンバーチェンジとタケカワとのツアー> ミッキーが寺尾聰との海外レコーディングを終え、帰国した74年11月。今度はスティーヴが3年ぶりに来日する。ボストン時代には未婚だったスティーヴが、妻のミミを帯同していたため、迎えに来たミッキーたちは突然の結婚報告に驚いたそうだ。スティーヴ夫妻は来日して1年弱の間、ミッキーの磯子の実家に居候し、スティーヴは日本でのバンド活動を再スタートすることになる。 スティーヴを新たなベーシストに、そし

      • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載23 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ②<帰国からの4カ月間> ミッキーが帰国してレビュー・ジャパンと作家契約を交わしてからの4カ月間、“ミッキー吉野グループ” としてのライブ活動以外にも多忙な日々を送ることとなる。それはすべて、新バンド結成への布石だった。 ①スタジオミュージシャン、アレンジャーとしての活動 ジョニー野村から依頼された、タケカワのデビューアルバム『走り去るロマン』のレコーディングに参加(連載15参照)した以外にも、他のアーティスト作品の編曲と演奏にも

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載22 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ①<ミッキーとスティーヴが夢見たバンド> この章では最初に、1972年頃まで遡ってミッキー吉野とスティーヴ・フォックスのバンド、そして “ミッキー吉野グループ” の成り立ちを追ってゆきたい。 1971年夏からバークリー音楽大学に留学したミッキーは、厳しい授業とスコア作成の宿題に追われ、1年目は学業に専念していたが、2年目からはバンド活動も並行して行うようになる。バークリー音大の授業はジャズが基本であり、ミッキーも数々のジャズバンド

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載25 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載24 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載23 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載22 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

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        • 『走り去るロマン』に賭けた夢(ロマン)
          26本

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          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載21 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第7章 CMソング編 1975~76年 ②<初採用のCMソング「アンクル・ジョン」「スマイル」> 75年夏、レビュー・ジャパンにCMソングを依頼したのは、CM音楽の制作会社である成和アングル。後に1977年の資生堂キャンペーンソングで尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」を手掛けて、音楽業界のCMタイアップブームの先駆者となる。同社がフォークやロック系のアーティストをCMソングに起用したのは、ナショナルのBCLラジオ「GXOワールド・ボーイ」(1972)における、かまやつひろし「

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載21 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載20 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第7章 CMソング編 1975~76年 ①<コラボ活動は一時中断> タケカワとミッキー吉野グループは満員の盛況に終わった渋谷公演(4月25日)の後も、引き続き東大阪(4月27日/ミュージックハウス永和)、名古屋(4月29日/愛知県中小企業センター講堂)で小規模のライブを行った。その後はテレビ、ラジオ等への出演が続く。 連載19で前述した、NHKオーディションの結果を受けて、総合テレビ『第1回ヤング・歌の祭典』(5月5日放送)や『レッツゴーヤング』(5月25日放送)に登場。

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載20 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載19 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ③<ミッキー吉野グループに浅野孝已が加入> 地方ツアー終了後の4月、タケカワとミッキー吉野グループは「NHKオーディション」に参加、合格している。これは60~80年代に行われていた、NHKの音楽番組に出演するための非公開の資格審査会で、純邦楽、軽音楽、クラシックを問わずこの審査会に合格する必要があったという。同オーディションの軽音楽部門で「YELLOW CENTER LINE」を演奏したとタケカワが証言している。同月

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載19 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載18 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ②<デビューツアーとミッキー吉野グループ> アルバムリリースの翌月からコンサート活動が活発になっていく。2月23日に静岡市のすみやホールでライブを行い、さらに3月7日には前月にオープンしたばかりの高円寺のライブハウス “次郎吉”、3月12日には荻窪ロフトで、“ミッキー吉野グループ” を従えたライブを敢行している。特に3月の次郎吉、荻窪ロフトはキャパ100人未満の小さな会場で、この直後のホールツアー『タケカワユキヒデ・

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載18 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載17 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ①<75年元日、デビューシングル発売> 1975年1月1日、日本コロムビアよりタケカワのデビューシングル「走り去るロマン」(YK-2-AX/600円)が、アルバムからのシングルカットで先行リリースされた。 このシングル盤の価格について触れておきたい。73年秋以降の第一次オイルショックによる原材料、制作コストの高騰に対処するため、73年末から74年前半にかけてレコード各社はLP盤の値上げに追い込まれたが、各社は7イン

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載17 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載16 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ③<日本コロムビアからレコードデビュー決定> 全12曲で構成されたアルバムの原盤が完成。ここからはレビュー・ジャパンとして、三つの売り出し方をプランニングすることになる。 ①日本国内でレコードをリリースし、タケカワというアーティストを売り出す。 ②原盤輸出:海外に向けてアルバムの楽曲の版権、そしてタケカワという作家を売り出し、現地のアーティストに楽曲を使用(カバー)してもらう。 ③海外でタケカワのレコードのリリースが実

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載16 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載15 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ②<初めての “ゴダイゴ” 構想> 74年6月、ジョニーがタケカワにミッキーの話をした3日後に、帰国したミッキー本人からジョニーの元に電話が来る。その翌日にはジョニーはタケカワと、レビュー・ジャパンのスタッフの加藤悠を連れて、磯子にあるミッキーの実家を訪れた。ジョニーは過去にミッキーと面識があり、旧交を温めるのはもちろんだが、タケカワのデモ録音のアレンジを相談する目的も兼ねていた。持参したデモテープをミッキーに聴かせて

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載15 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載14 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ①<74年もデモテープ制作でスタート> 1974年に入り、タケカワは奈良橋と共作した新曲(連載13参照)のデモ録音に早速取り掛かる。『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』VOL.1の19~22曲目に収録されている4曲分は『TAKE & YOKO』と題され、年始の1月に録音されている。このときは長兄・芳弘が住んでいたマンションで、彼が所有する4チャンネルのオープンリール・テープレコーダー

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載14 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載13 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ③<1973年のコンサート活動> レビュー・ジャパンと契約1年目のタケカワは、東京外大2年としての学生生活との両立もあり、“専属作家”としての活動はのんびりとしたものだったという。たまに会社からの依頼でCMソングのコンペ用に書いたものが不採用になったり、当時100曲ほどあった自作曲のデモテープを事務所に持ち込み、ジョニーに聴かせて感想を訊くぐらいだった。 恒例となったソロコンサート『TRECNOC』も、前年7月に日本青年館で開催し

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載13 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載12 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ②<タケカワ、レビュー・ジャパンと専属作家契約> 話は1973年春に戻る。同年3月、前年の秋からレコードメーカー各社のディレクターとの橋渡しをしてくれた、ヤマハ音楽振興会の雑誌『ライトミュージック』編集者の大久保光枝からタケカワに電話が来る。 前年に都内の主要7社のレコード会社と交渉決裂に終わっている上に、大久保も結婚のために近々ヤマハを退職する予定だという。今回の会社でダメだったらもう紹介できないと言われて、もしそうなった場合は

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載12 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載11 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ①<MCA日本支社「レビュー・ジャパン」> タケカワが二度目の受験生生活を送っていた1972年2月。後にタケカワのプロデューサーとなるジョニー野村は、妻の野村(奈良橋)陽子と共に日本へ帰国する。ニューヨーク滞在中に知り合った、MCA(Music Corporation of America)社長のサルヴァトーレ・T・キャンティア(Salvatore T. Chiantia)からの依頼で、既に設立していた同社の日本支社にあたる「株式会

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載11 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載10 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第3章 大学1年生編 1971~73年 ③<レコード会社と契約寸前…も?> 都内レコード会社のディレクターと口論を繰り返し、レコードデビューの交渉決裂が続いていたタケカワ。だが例外的に、ビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)だけはいい感じで話が進んだ。これまで必ずネックとなっていた、英語詞についても「とりあえず詞の件はおいといて、ぜひレコードデビューの契約をしたい」と同社の制作ディレクターが提案してきた。 「契約書を見せてください」と言うタケカワに対し、ディレ

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載10 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~