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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載13 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ③

<1973年のコンサート活動>

レビュー・ジャパンと契約1年目のタケカワは、東京外大2年としての学生生活との両立もあり、“専属作家”としての活動はのんびりとしたものだったという。たまに会社からの依頼でCMソングのコンペ用に書いたものが不採用になったり、当時100曲ほどあった自作曲のデモテープを事務所に持ち込み、ジョニーに聴かせて感想を訊くぐらいだった。

恒例となったソロコンサート『TRECNOC』も、前年7月に日本青年館で開催した第2回から1年ぶりに、第3回を池袋と兵庫県芦屋市で自主開催している。

★第3回TRECNOC コンサート
○日時:7月22日(日)PM1:30~
場所 : 豊島公会堂 入場料:250円
出演: 武川行秀とそのグループ
○日時:8月7日(火)PM1:30~
場所:芦屋ルナ・ホール 入場料:250円
出演:武川行秀とそのグループ
○ジョイントコンサート
日時:7月7日(土)PM6:30~
場所:新宿厚生年金小ホール
出演:コレエダマサヒコと武川行秀
入場料:350円  以上の連絡先:山口

『ミュージック・ライフ』1973年7月号 P.214/新興楽譜出版社

池袋・芦屋公演前の7月7日には、後に劇作家・演出家として活躍する是枝正彦とのジョイントコンサートも開催している。

芦屋での『TRECNOC』は関西在住の友人が企画したもので、会場手配からチケット販売まですべてその友人が済ませていたという。タケカワはバンドメンバーと共にコンサート前日に関西に到着、当日の朝4時までその友人たちと酒盛りを続けた挙句、吐血してしまったというエピソードが残っている。当日のコンサートは息も絶え絶えに終わらせたが、しばらく何も食べられず、体重が52kgまで落ちてしまったそうだ。

また、コンサートとは別に、同時期に作曲されたデビューアルバム収録曲「NIGHT TIME」のエピソードも紹介しておきたい。タケカワが外大2年生のこの年、東京外大E.S.S.(English Speaking Society=英語部)のドラマセクションが、4大学ジョイントの英語劇コンテスト(TIAF:東大、ICU、青学、外大)での演目として、安部公房原作の戯曲『友達』の英語劇を企画していた。その外大E.S.S.に所属しているクラスメイトから、タケカワはそのテーマソングと劇中音楽を依頼される。

『友達』の原作の冒頭で、“夜の都会は糸のちぎれた首飾り~” から始まるフレーズを、台本では英語に翻訳してあり、その英訳 "Night time in the big city ~" を歌詞にしてメロディをつけたのが「NIGHT TIME」の原曲である。上演時には舞台袖にピアノとマイクをセッティングして全編を通して弾き語り、幕間ではブルース風の「NIGHT TIME」も歌ったという。当時の同曲はこの上演時の歌唱のみで、デモテープ録音は残されていない。なお、翌年のアルバムレコーディングの際に、戯曲の内容そのままの詞では使えないため、"NIGHT TIME" のキーワードだけ残してすべての詞がリライトされている。

<奈良橋陽子>

話は73年の5月に戻る。タケカワの「デタラメな」英語詞をすべてリライトしてしまおう、とジョニーが紹介したのが、彼の妻の野村(奈良橋)陽子。後に、“作詞:奈良橋陽子 作曲:タケカワユキヒデ”という、ゴダイゴのソングライティングの黄金コンビとなるわけだが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

奈良橋は1947年6月17日、千葉県市川市出身。外交官の父・一郎が国連のICAO(国際民間航空機関)の任務でカナダに赴任したために、奈良橋も5歳からオンタリオ州オタワ、その2年後からはケベック州モントリオールで暮らす。16歳のときに帰国し、聖心インターナショナルスクールに転学するも、11年に渡る英語圏での生活のため、日本語がすっかり苦手になっていたという。同校を卒業後に国際基督教大学(ICU)教養学部語学科に入学し、日本語言語学を専攻。大学在学中にジョニー野村と出会い、交際を始める。当時のICUでジョニーを知らない者はいないぐらいの有名人で、天才肌の彼に一目惚れした、と奈良橋は当時を振り返る。

幼少の頃に映画『風と共に去りぬ』を観て女優に憧れ、高校時代から役者を志していたが、日本語が堪能でなかったこともあって英語での演劇に活路を見出す。ブロードウェイで舞台監督を務めた演出家のリチャード・A・ヴァイアが1967年に主催した、モデル・プロダクション(東京学生英語劇連盟)の初公演「Picnic」に出演。それが縁で、ICU卒業直後の69年秋にリチャードの推薦でニューヨークの演劇専門学校 "Neighborhood Playhouse" に入学。1年が過ぎ、フラワー・トラヴェリン・バンド(以下、FTB)の海外進出の通訳兼コーディネーターとしてニューヨークにやって来た婚約者のジョニーと、70年のクリスマスに再会。その3日後にはワシントン州シアトルの教会で結婚式を挙げる。以降はジョニーと共にFTBの海外活動の拠点、カナダ・オンタリオ州トロントで過ごす。

奈良橋の作詞家としてのデビューは、このトロント在住期。現地でレコーディングされたFTBのアルバム『MADE IN JAPAN』(日本国内リリース:1972年2月10日)収録曲8曲のうち、冒頭の「INTRODUCTION」を除く7曲の作詞はすべて彼女によるもの。また、カナダでリリースされたFTBのシングル盤「SATORI (Enlightenment)」(=SATORI Part.2) のB面に収録された、「五木の子守歌」の英語詞カバー「LULLABY」も奈良橋が手掛けている(ラリー・グリーン、ブレンダ・ホファートとの共作)。日本への帰国後は前述の石川セリ「GOOD MUSIC」も提供している。なお、これらはすべて英語詞であり、Yoko Nomura(野村陽子)名義でクレジットされている。

72年2月、第一子の妊娠と、夫・ジョニーの日本赴任を機に夫婦で帰国。同年5月に誕生した長男は、現在も俳優、映画プロデューサーとして活躍している野村祐人である。翌73年、ヴァイアがハワイに引っ越したため、モデル・プロダクションの活動を引き継いで、演出を初めて担当。奈良橋が作詞、ジョニーが作曲したミュージカル仕立てのMP公演「June Night」を無事終えた頃に、ジョニーから電話でタケカワの話を聞かされる。

<正反対の二人、リライトで紛糾>

タケカワのデモテープを聴いた、奈良橋の第一印象はどうだったか。

“そのとき夫は私に電話をしてきて、「これ、聴いてみて」と、電話越しに初めてタケの音楽を聴かせました。心に染み入る温かい音色に、「いいんじゃない!」と答えたのが、タケとの長い付き合いのスタートになったのです。”

『婦人公論』2017年4月25日号 P.10 連載「Beautiful Name」vol.1 奈良橋陽子著/中央公論新社

初めて聴いたタケカワのメロディは、突き抜けるような明るさ、リズム感、そして奈良橋にとって“英語詞ゆえの親しみやすさ”が感じられたという。ジョニーからの「彼に会って、詞を一度見てみないか」との申し出に快諾した。

タケカワがジョニーの自宅を訪れて、初めて3人でミーティングを行った。奈良橋は「とても英語らしい曲だけど…」と認識していたが、いざ紙に書かれた詞を読んで「何これ?」と首を傾げた。タケカワの英語詞は文法的にも、レトリック的にも、何を言っているのかさっぱり理解できなかった。奈良橋は早速、その詞の1行ごとに英語で「文法が間違っている」、「意味が解らない」などのコメントを入れた。タケカワも自分の英語力にいまいち自信がないのは自覚していたが、予想以上にダメ出しが多く、少しずつ反発心も感じて「いや、僕はこう考えて書いているんです」と反論し始め、リライトは難航した。奈良橋がアドバイスの大半を英語で喋ることも、タケカワとのディスカッションが円滑に進まない一因だった。

そもそも二人にとって、英語との接し方、捉え方がまったくの正反対であることが、難航の原因といえよう。日本国外への渡航歴がなく、中学校からの学校教育でのみ英語を学んだタケカワと、幼少の頃からカナダで英語のネイティヴスピーカーとして育った奈良橋。楽曲・メロディが活きる言語として英語を歌うタケカワと、日常の言語として英語を話す奈良橋。作曲時にリズム感を出すために詞の韻律を必須としているタケカワと、現代詩の影響を受けていたため、詞における韻律をそこまで重要視しない奈良橋。何よりも、タケカワ自身が英語詞について「詞の内容・メッセージよりも、いかにカッコいいメロディを作り、歌ったときに気持ちいいことが重要。そのためには日本語よりも英語の方が絶対にいいものが出来る!」と考えていた。逆に、「nun(尼さん)、fun(喜び)、sun(太陽)みたいに一生懸命に韻を踏んでも、つなぎ合わせた詞の意味がメチャクチャだったら意味がない!」というのが奈良橋の考えだった。

その後も月1~2回のペースでリライトのミーティングを重ねた奈良橋とタケカワ。当初、ジョニーは奈良橋に「とにかく始めのうちは、彼の言うとおりに直してやったら」と指示していた。そして、「お互いが分かってきたら、陽子の思うように詞を変えればいいじゃん」とも伝えていた。タケカワは「文法的に間違いがあるのは受け入れる。英語の意味的に間違いがあるなら、何が間違いで、何が合っているのかを教えてほしい。」と、自分の選んだワードにこだわって、可能な限り元の語句を直さないよう奈良橋に訴えかける。奈良橋はまるでパズルを解くように、辛抱強くリライトを試みるが、なかなか進行しない。奈良橋はジョニーに対して「もう、いや」と苛立ちから愚痴を漏らすが、ジョニーは「そんなこと言わないで、手伝ってやってよ」となだめる。あまりに進行しないため、途中でリライトを諦めて不採用にした楽曲もあるという。

「僕が書いたものに彼女が手を入れてくれて途中で終っちゃったのが10曲くらいあると思いますよ。“それじゃ嫌だ”って僕が言うんですから(笑)。今考えると“お前が言うなよ、英語ちゃんと分かんねえだろう”っていう(笑)。
(中略)英語ができないからそうなるんじゃなくて、カッコいい、舌触りのいい流れでやりたい。そうするとへんちくりんなところも出てくる。彼女はそれを直そうとしたわけですけど、僕はカッコよさを残したままへんちくりんだけを変えてほしいのにカッコいいところもなくなっちゃう。そうなるとこれじゃあ、とお蔵入りになってしまうんですね」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P.141 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

お蔵入りの具体例として、石川鷹彦の自宅スタジオでデモ録音した「WHAT DO YOU WANT TO SAY TO ME」もそのひとつ。ポップなメロディの自信作だったが、タケカワは同曲のリライトが上手くいかなかった理由をこう話す。

“例えば、タイトルの "What do you want to say to me" に韻を踏んでいたのは "triviality" というごちゃごちゃした単語だったのだが、前後関係で英語が変になるという理由で変えることになって、奈良橋さんが色々と考えてくれたにもかかわらず、僕は "triviality" と同じような5音節の言葉が欲しいと頑として譲らなかった。その他にも、"You may take it, make it, fake it, break it" というところもあったのだが、ここにも意味的に「待った」がかかって、直さなければならなくなったのも覚えている。”

CD『PASSING PICTURES BOX』ブックレット P.34/2017 T-time
三浦友和『LOVE IS THE OCEAN』(1985年10月21日リリース/サブスク未解禁)。デモ曲「WHAT DO YOU WANT TO SAY TO ME」はお蔵入りから12 年後に、葉山真理による日本語詞で「雨に濡れたBROKEN HEART」として発表。

<そして「PASSING PICTURES」が生まれる>

10月、既存曲の詞のリライトが難航する中、別の形でアプローチが行われる。まったく新しい詞を奈良橋が書き下ろし、タケカワが新たに曲を付ける方法だ。その第1号となった曲が「PASSING PICTURES」。軽井沢にある奈良橋家の別荘で、まだ赤ん坊の長男・祐人を乳母車に乗せて散歩していたら、奈良橋のそれまでの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡ったという。その瞬間を詞に書きしたためた作品。ジョニーもこの詞を気に入り、「ひと区切りついた青春への哀惜が、的確な言葉とストーリーで語られている」と称賛。CD『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』VOL.1に翌74年1月録音のデモ音源が収録されているが、レコード版と遜色ないほどのメロディが完成していることが確認できる。

同様の流れで、73年末までに「I CAN BE IN LOVE」、「TWO PEOPLE TOGETHER」と “奈良橋&タケカワ” 作品が生まれる。余談だが、「TWO PEOPLE TOGETHER」はデモ版とほぼ同じ歌詞をFTB解散後のジョー(ジョー山中)にも提供。ジョー作曲(邦題は「ある小さな島の物語」)で、74年4月リリースの1stソロアルバム『JOE』に収録された。

ジョー『JOE』(サブスク未解禁)。ワーナー・パイオニアのAtlanticレーベル(連載07参照)から、タケカワ作曲の「TWO PEOPLE TOGETHER」より9ヶ月早くレコードリリースされた。

ソングライターのコンビとして、はじめの一歩を踏み出したタケカワと奈良橋。タケカワは当時を振り返って、このように話している。

“その頃は、ぼくが何考えているか、ヨーコが何考えているか、お互いに通じなかったんだね。詞だけを媒介にしてというのは、なかなかむずかしいことがあるんだ。詞の裏、言葉の裏にあるものを読みこむことができるようになるまでは、ね。(中略)ヨーコって、ぼくが初めて共同作業をやった人、できた人だな。ジョニーの場合は、初めて任しちゃった人。 ヨーコとは、初めて一緒にものを創るのに、なんの不安もなしにやりあえた人。なんだろうな、やっぱり、ぼくの思ってること、言おうとしているとこをちゃんと分かってくれるんだ。それに自分の視点から、ちゃんと意見から何から全部はっきりいえる人なんだな。完全に分かり合ったうえ、納得したうえで作品が創られるし、作品じゃなくとも、いろんな作業やってみたくなるしね。そんな魅力があるんだよ。” 

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.25 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店

また、数々の共同制作を経て、奈良橋も次第にタケカワに全幅の信頼を寄せるようになる。

“でも、私が心から「タケってスゴイな〜」と思うのは、他の人にはなかなか伝わらない私の感覚を、一瞬で理解してくれる神ワザをもつこと。これは他の人ではできないし、私の別れた夫(筆者註:ジョニー野村)でもかなわないことでした。子供時代をカナダで過ごした私は、日本に戻ってからも日本語が下手くそでした。(中略)曲作りのミーティングでは、みんなが「この人、何言ってるの?」と、顔を見合わせるありさまでした。でも、タケがすかさず「通訳」してくれると、あーら不思議、これが見事に伝わるのです。「そうそう、私が言いたいことはそうなの!」と私も大きくうなずくのですから、やっぱりスゴイでしょ。私たちだけの共通言語があるのでしょうか。もっと驚くのは、私が詞のイメージを伝えたとたん、そこらにある紙の裏にササッと五線譜を引いて、すばらしい曲を書き上げてしまうことです。”

『婦人公論』2017年4月25日号 P.10 連載「Beautiful Name」vol.1 奈良橋陽子著/中央公論新社


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