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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載25 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ④

<タケカワの2ndと、グループとしてのデモ録音>

前述したように75年秋から年末にかけて、タケカワの2ndアルバムの制作が進行していた。同年春のデビューツアーのセットリストに組まれて、アレンジも完成済みの「YELLOW CENTER LINE」「SUITE: GENESIS(組曲・新創世紀)」をはじめ、コラボ中断期の夏に作曲している「IT’S GOOD TO BE HOME AGAIN」「MAGIC PAINTING」のレコーディングはこの時期に行われた。

その一方で10月には、ミッキー吉野グループとしてもデモテープを制作している。2008年にCDで初リリースされた『Me and '70s』のDisc.2にあたる『1975』に収録された5曲がそれだ。いずれもボストンに留学していた頃に書かれた楽曲で、英語詞はバークリー音大の同級生でギリシャ人のテリー・シガノスが書いたもの。井上堯之のソロアルバム『Water Mind』(1976)に提供した「JUST AT THE RIGHT TIME」をはじめ、前述した74年の『フラッシュ・コンサート'74 - '75』で演奏した「THE LAST DAY」、77年のライブレパートリー『ゴダイゴ号の冒険』組曲の構成曲「I'M YOUR CAPTAIN」に転用した「WAR AND DEATH」なども、このデモテープに収録されている。ミッキーが使用したキーボードはアコースティックピアノ、エレピ "Rhodes Piano"の他に、ローランドのシンセ "SH-3" と "SH-5"、クルーマーのストリング・アンサンブル "Stringman"。ミッキーにしては珍しく、ハモンドオルガンは使用していない。

このデモテープの中で、普段のライブでは浅野孝已がヴォーカルを兼ねていた「PASS YOU BY」を、ミッキーとタケカワのツインヴォーカルで録音。この1曲を除き、ミッキーとテリーのヴォーカルで録っていたものを、タケカワで録音したのは「自分の曲をタケが歌ったら、どうなるのだろう?」というテストも兼ねてのことだった。タケカワもいきなりの録音だったのか、メロディが不確かでミッキーとのツインも一部ズレているのもご愛敬である。

同時期に録音した『新創世紀』収録曲と、デモ録音の 『1975』。ミッキーにとっては、目指す音楽性の観点で分岐点になったことに違いない。タケカワが歌った「PASS YOU BY」が、メロディのポップさを表現する観点で見れば、他の楽曲に比べ頭ひとつ抜きん出ていたのではないだろうか。また、同曲の中盤で見せたシンセの長尺ソロとポップなメロディ&ヴォーカルが、その後の “ゴダイゴ” での楽曲スタイルの大いなるヒントになったのでは、と筆者は考える。

<大晦日の、ミッキーからの電話>

75年も暮れになり、ミッキーの帰国からあっという間に1年半が過ぎようとしていた。ずっと思い描いてきた “ゴダイゴ” 構想も、当初の1年間でメンバーを集結してバンド始動する予定だったのが、遅々として進まない。75年の大晦日、思うところのあったミッキーはタケカワに電話をかけた。

“お互いに、どこかで物足りなさを感じていたその頃、彼から僕に電話があった。
「来年は、タケはどうするの?」 こんな風に聞いてきた。
「どうしようかネェ」 こんな風に僕は答えた。
「僕は、来年は、思いっきりやりたいんだ」 ミッキーが言った。
「僕もそうだよ。 そりゃあ、どうせやるのなら、思いっきりやりたいさ」 僕もそう言った。
「お互いバラバラで、やっていても、仕方がないと思うんだけど………」
「そうだね。それは、僕も考えていたんだ」”

『タッタ君 ふたたび』下 P.P.298-299 タケカワユキヒデ著/2013 T-time

ミッキーからの申し出、それはバンド結成。つまり、ミッキー吉野グループのメンバーたちとの正式な “合流” であった。75年の1年間のような付かず離れずのコラボレーションの関係ではなく、パーマネントなバンドとして、ヴォーカリストのタケカワと活動を共にすることだった。

「一緒にやるようになって1年以上経ってましたからね。いろいろ見てきたけど、このままじゃ埒が明かない。この際、一緒にやってみようかっていう。一緒になってゴダイゴというバンドにしたい。それでこの壁をぶち壊そうよ。そうやって徹底的に戦わないと俺たちの時代は来ないよっていう話をしたんです」(ミッキー吉野談)

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P.145 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

一方のタケカワとしてはバンドに対する抵抗感は変わらず残っていた。「バンドがバンドだけで何かやると、視野も狭くなる」というのが彼の主張。しかし、このままでは状況は何一つ変わらない。デビュー以降の一年間でアルバム1作、シングル3作をリリースしたものの、セールス的には決して成功とは言えない結果に終わっている。次のアルバムも制作中だったが、対世間的なインパクトをどれだけ与えられるかは不透明だった。日本の音楽シーンはフォークからニューミュージックへ移行しつつあったが、あくまで日本語詞ありきの話であり、日本人による英語詞のポップスやロックがメジャーシーンで受け入れられる状況ではまだなかった。

“ミッキーたちも、バンドとしてどうやっていこうかということが、ものすごく大きな問題としてあったんだよね。自然にそれを考えられればいいけど、バンドでやっていくとなると、まわりが全部敵になっちゃって、バンドを守っていかなければならなくなる。「それはよくないなあ。何かうまくいく方法でやろう」と、そういう話をミッキーとして、ともかく、やろうと集まったわけ。(中略) 機動力として、ぼくには演奏してくれる人、他にいなかったし、ミッキーのほうだって、歌えるヤツいないしね。「バラバラになってもしようがない。じゃやろうか」ってね。ミッキーは、ゴダイゴってバンドやろうという時も、ぜんぜんカッコづけないし、ザックバランだし、ふつうの友だち同士がしゃべっているようにね、人間的なんだよ。人間的にいいヤツだから、いっしょにやろうと決めたんだよ。” (タケカワユキヒデ談)

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.P.73-74 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店

タケカワにとってミッキーは、演奏面でのバックアップだけでなく、アレンジャーとしても強力な存在だった。第5章(連載14参照)で述べた通り、デビューアルバム『走り去るロマン』のデモ録音から原盤のレコーディングに至るまで、アレンジ面で苦悩の連続だった。この時の苦悩が彼にとって、「一種のトラウマになったのも事実だった」とタケカワは語る。ミッキーと共に活動を続けることで、ソロで楽曲を制作するよりも完成度を高められる、そういう側面もあった。実際に、ゴダイゴ結成以降はほぼ100%、「編曲:ミッキー吉野」のパターンとなる。

また、ミッキー側としても本来のバンドのコンセプトである「日本人として東京を拠点に活動し、海外進出を目指す」ことを考えると、英語で歌うのは勿論のこと、英語詞から楽曲を書くことのできるタケカワは強力なパートナーとなる存在だった。しかも、曲数もより多く書き上げることができる。結果、ゴダイゴ結成以降はメインのソングライターとして「作曲:タケカワユキヒデ」のパターンが自然と多くなってゆく。二人のドッキングは後に、バンドとして相乗効果を生み出すことになる。

“変な潜在意識もたずに、いろいろ話してみると。とにかく、変な、変なアレをもってるわけ。ガッツを。ふつうの人とちょっと違うね。(中略)だからやっぱり、絶対、ギブアップしないようなヤツ、集めなければいけないからね。”

“ぼくの持っていないものを持っているのが、タケだった。で、やっぱりタケをメンバーにしちゃえば、いろんな面で違う可能性が出てくる。その頃から、そういう違う可能性という、可能性主義になったのね。” (ミッキー吉野談)

同引用元 P.140、141

<“ゴダイゴ”として新バンド結成>

1976年1月、年始のミーティングがMCAミュージックの事務所で行われる。ミッキーとタケカワは大晦日の電話の件をジョニーに報告しており、年が明けて改めて正式なバンド結成を話し合うミーティングだったが、メンバーはタケカワを含め4人しか来ていない。その場でまず発表されたのが、ドラマーの原田裕臣のバンド脱退の話だった。脱退の理由として非常にありがちな “音楽性の相違” は、タケカワとのコラボレーションの初期からその兆候があった。

“タケカワのソロコンサートをやる時には、もう「新創世紀」のアレンジに入っていたので、そのコンサートでも組曲をみんなで演奏したんです。 そうしたら、ドラムの原田裕臣が “こういうのをゴダイゴがやるんだったら、う~~~ん” って言い出して。聞くとタケカワのポップさとすごいギャップがあったみたいなんです。彼はポップでもロッド・スチュワートとかそういうのを好きな方だったから、もっとロックだったんですよ” 

『ミッキー吉野の人生(たび)の友だち』P.102 ミッキー吉野著/2015
シンコーミュージック・エンタテイメント

ミッキーはグループを共にしていた原田について、こう振り返る。

“原田裕臣は、それこそ<ミッキー・カーチス&サムライ>にいた頃から上手いの知ってたし。その頃は、まだ井上堯之バンド辞めた頃かな。ちょうど裕臣があいてるから誘ってみようかなって。ただすごい気難しい人で。それで、これも大変でした。だって裕臣は時さん(筆者註:平尾時宗=デイヴ平尾)より上だったからね1コ。だから僕より8つも上で。” 

ライブ「ミッキー吉野 “BAND狂時代”」プログラム/2011 ALTAMIRA MUSIC, INC.

年上の先輩ミュージシャンを従え、リーダーを務めることの難しさも痛感していたそうだ。だが「ミュージシャンとしてとても多くの事を学んだ」とも語り、その原田の脱退を受けて、よりはっきりと「ゴダイゴをやるんだ」と決意を固めた、とミッキーは述懐している。
 
そして、ミーティング中にミッキーが「バンド名だけど、いよいよ、“ゴダイゴ” を使おうと思うんだけど…」と切り出した。今まで、ミッキー吉野グループのメンバーが入れ替わっても、決して“ゴダイゴ” のバンド名は使ってこなかった。安易にそのバンド名を冠したグループで、失敗したくなかったのがその理由。そしてタケカワを迎え入れたこのバンドが、まさにミッキーにとっての “ファイナル・アンサー” だった。
 
そしてこのミーティングの場で話が出たのが、カネボウ化粧品のCMソングキャンペーンの話。その背景は第7章(連載21参照)で詳述したが、元々はタケカワに依頼が来た案件を、タケカワは新バンドとして行おうと提案する。また、前年から進行している、自身の2ndアルバムも “ゴダイゴ” のデビューアルバムとして発表する前提で、残り数曲のレコーディングを進めることも決定した。

“僕はプロデューサーじゃないですし。音楽を作ること以外は考えないって言ってた人間なのに、それはパッと出てきましたね。じゃないとおかしいもんね。バンドでやろうって言ってるのにソロ名義のシングルやアルバムを出したらバンドにならない。とにかくみんなができそうにないものを作りたかった。CMソングだろうが番組のテーマだろうが、 僕が作るものは全部そうするんだ、と思ってやってたので、ロックはこうじゃなきゃ、みたいな風潮はちゃんちゃらおかしかった。 ミッキーもゴダイゴの音楽で日本中を埋め尽くそうと言ってましたからね”

『B.PASS ALL AREA』vol.16 P.134 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.3 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

それまで一貫してソロに拘ってきたタケカワが、バンド本位に軌道修正したことは、タケカワの中にも新バンドに賭ける強い気持ちが生まれてきた、その表れではないだろうか。

そして原田の後任ドラマーは浅野孝已の実弟、良治(りょうじ)に決定する。浅野良治は1954年1月20日、東京都豊島区出身。後に "TENSAW" で活躍する横内健亨(ギター)、ソロのシンガーソングライターとして活躍する山本達彦(キーボード)らと、74年に“オレンジ”を結成。同年10月にシングル「翼のない天使」をリリースしたほか、かまやつひろしのバックバンドも務めており、かまやつと共に74年8月10日の『郡山ワンステップ・フェスティバル』最終日にも出演実績がある。良治の起用理由として「ポップなバンドを作るなら、兄弟というのも売れる要素のひとつかなと思った」とミッキーは述懐する。

オレンジ唯一のリリース作品「翼のない天使」(筆者所有)。ジャケ写右端が浅野良治。

なお、女声コーラスでサポートしてきた坂本めぐみは、75年11月に旗揚げした “ミスター・スリム・カンパニー” への参加に活路を見出す。ミスター・スリムは、元 “東京キッド・ブラザーズ” の深水三章が結成し、彼の兄の深水龍作が作・演出を務めたロックミュージカル集団。龍作は69年12月~70年2月の『ヘアー』日本語キャスト公演(連載11参照)に出演歴があり、坂本とはそれ以来の間柄。当然ながら同公演の制作に携わっていたジョニー野村とも関係が深く、76年8月にリリースされた1stアルバムのプロデューサーにはジョニーも名を連ねている。

76年8月25日リリースの1stアルバム『ミスター・スリム』(サブスク未解禁)。タケカワもA⑦「ハリケーン青田」の作曲で参加(クレジットは “竹川” と誤記)。最終曲の「オー・マイ・チャイルド」(作曲:阿部まさし)は、ゴダイゴ『いろはの “い”』OST収録の「愛のテーマ」の原曲である。


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