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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載11 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ①

<MCA日本支社「レビュー・ジャパン」>

タケカワが二度目の受験生生活を送っていた1972年2月。後にタケカワのプロデューサーとなるジョニー野村は、妻の野村(奈良橋)陽子と共に日本へ帰国する。ニューヨーク滞在中に知り合った、MCA(Music Corporation of America)社長のサルヴァトーレ・T・キャンティア(Salvatore T. Chiantia)からの依頼で、既に設立していた同社の日本支社にあたる「株式会社レビュー・ジャパン」の副支社長として赴任するためだった。

当時、MCA本社はユニバーサル・ピクチャーズの親会社で、音楽出版事業のMCA出版、レコードレーベルのMCAレコード(英国DECCA Recordsの米国法人を買収)などを傘下に置くメディア複合企業。MCA社長のキャンティアはASCAP(American Society of Composers, Authors and Publishers=米国作曲家作詞家出版者協会)の副会長も務めていた。MCAが世界的に音楽出版権を持つ楽曲がレコード、テープ、楽譜などの音楽メディアとして発売されることで、MCAは著作権料の利益を得る。そして音楽出版事業者として日本に駐在し、国内のレコード会社、ラジオ・テレビの放送局、楽譜を発行する出版社などのメディア各社へ営業を行う日本支社、それがレビュー・ジャパンとなる。

「MCA、当時はまだ『レビュー・ジャパン』って会社だったけど、そこのナンバー・2で帰ってきたわけね。といっても、支社長の荒家さんをいれて三人くらいしかいなかったんだから。ハハハ。」(ジョニー野村談)

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.35 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店

<ジョニー野村>

ジョニー野村こと野村威温(のむら いおん)は1945年11月4日、ルーマニアの首都ブカレストで、当地駐在武官の父・野村三郎と、ルーマニアに亡命してきたロシア人(モルドバ人)の母・タチアーナとの間に生まれる。1947年に日本に移住し、横浜市山手のセント・ジョセフ・スクール(現在は廃校)に通学。14歳頃から後のザ・ゴールデン・カップスのメンバーたちとバンドを結成し、エレキフェス、米軍クラブ、米軍基地のティーンクラブなどで演奏している。1959年結成の “シャドウズ” では潘廣源(エディ藩)、その後の “ザ・ファナティックス” では潘と平尾時宗(デイヴ平尾)。同バンドを離れてドラマーとして加入した “テイク・ファイブ”(米軍クラブで演奏の際は“ワイン・メン”の名称)ではケネス伊東、加部正義(ルイズルイス加部)とも組んでいる。カップスの前身バンドの “平尾時宗とグループ・アンド・アイ” 結成以前に、潘からドラマーとして誘われたこともあったが、国際基督教大学(ICU)に進学していたためバンド活動から退いている。

英語・ロシア語・日本語に堪能で、ICU入学直後の1964年東京オリンピックでは通訳を務めた。また大学在学中には、五木寛之原作の映画『さらばモスクワ愚連隊』(東宝配給、1968)のロシア語脚本を手伝った縁で、ロシア人役として出演している(“イワン野村”名義)。ICU卒業後の69年にアスカ・プロダクションに入社。同社と松竹演劇の提携で開催される、ブロードウェイミュージカル "HAIR" の日本語キャスト公演の渉外・制作業務に就いたのが、ジョニーにとって初めての音楽ビジネスとの関わりであった。公演のエグゼクティブ・プロデューサーの川添象多郎(象郎)の下で、外国人キャスト招聘の契約書作成、"HAIR" 原作の台本翻訳、リハーサル時の原作プロデューサーとキャスト間の通訳など、担当業務は多岐に渡った。また、『ヘアー』制作と同時進行で、70年大阪万博に出展する富士グループの準備作業に69年夏から参加していた。これにはICU卒業直前の、奈良橋陽子も一緒だった。

『ヘアー』公演は渋谷・東横劇場で69年12月から3カ月間上演されたが、引き続き予定されていた大阪公演は一部キャスト、スタッフの逮捕により中止の憂き目に遭う。70年6月からはミュージカル劇団 “東京キッド・ブラザーズ” のニューヨーク初進出公演の、現地との渉外業務に従事。10月に帰国した直後には、内田裕也からの依頼でフラワー・トラヴェリン・バンド(以下、FTBと略す)の海外進出に着手する。渡米手続きをする過程で、ニューヨークで契約したマネジメント会社が不渡りを起こしたため、契約を破棄。FTBが大阪万博で一緒だったカナダのバンド、"LIGHTHOUSE" の協力を得てオンタリオ州トロントを拠点に活動を行うことになる。また、同年末に学生時代からの恋人、奈良橋と結婚している。

71年からは妻となった陽子と共に、FTBの通訳、コーディネーター、制作スタッフとして活躍。この間に一度、サルヴァトーレ・T・キャンティアからの依頼でMCAの日本支社への誘いを、FTBのマネジメント業務を理由に辞退している。FTBの活動が軌道に乗った段階で、キャンティアの申し出を受託。72年2月に夫婦で日本に帰国し、レビュー・ジャパンの副支社長となる。

外資系音楽出版社の、異色のプロモーションマンとして注目を集め始めた、1973年頃のジョニー野村(野村威温)。

<「アローン・アゲイン」>

ジョニーの日本赴任直後は専ら、楽曲の売り込みが業務のメイン。「夜のストレンジャー」「イパネマの娘」といった世界的ポピュラーヒット、ミュージカル『南太平洋』『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中曲、劇場・テレビ映画作品の『エア・ポート』『刑事コロンボ』『鬼警部アイアンサイド』のテーマ曲など、MCAに著作権のある楽曲は多岐に渡っていた。これら既存の世界的ヒットのみならず、最新曲でジョニーが売れ線だと感じたものをピックアップして、レコード各社のディレクターに売り込みをかけていた。

ジョニーが営業した楽曲で、初めてのヒット曲はギルバート・オサリヴァンの「アローン・アゲイン」。当時、オサリヴァンのレコードはイギリスのMAM Recordsからリリースされており、そのMAM Recordsの流通がDECCAだった線で、MCAで楽曲の版権を取り扱っていた。オサリヴァンの日本国内盤は既にキングレコードからリリースされていたが、ジョニーが同曲のサンプルを初めて聴いた時に「すごくいい曲だ。これは絶対売れる」とヒットを見込んでキングに売り込みに行くも、キングの担当者からは「日本向けじゃない」と受けが悪く、日本の音楽市場や音楽関係者との感覚のギャップを痛感したという。

同曲の日本盤がリリースされた72年4月25日はまだ世界的にヒットする前で、アメリカでは「Billboard Hot 100」シングルチャートの6月17日付で初登場(88位)。徐々に上昇して7月29日付で1位に輝く。4週連続1位のあと1週を挟み2週連続1位、通算で計6週1位。同年の年間チャート2位となる大ヒットとなった。日本盤も『週刊コンフィデンス』(後のオリコン)洋楽シングルチャートで10月23日付から5週連続1位、邦楽を含めたシングル総合チャートでも最高位10位を記録した。

「アローン・アゲイン」日本版7インチシングル盤(筆者所有)。キングレコードからリリースされた日本版シングルとしては、71年2月のデビュー盤「ナッシング・ライムド(NOTHING RHYMED)」より5作目となる。

余談だが、当時19歳のタケカワもリアルタイムでこの曲に衝撃を受けたひとりで、オサリヴァンのピアノ弾き語りスタイルに影響を受けたことは前章(連載10)で述べた通りだ。

<外資系音楽出版社の新規参入の難しさ>

「アローン・アゲイン」のヒットはあったものの、今までにリリースされていない海外の楽曲を “洋楽” として各メディアに売り込みするだけでは、レコード化の確証もない厳しい状況だった。そのため、レビュー・ジャパンは日本国内の作詞家・作曲家を音楽出版社の “専属” として育成する方針を新たに設けた。日本国内で流通できる楽曲の、音楽出版権のストックを増やすためには自社専属となる作家の発掘は急務であった。

「ミスター・キャンティアが、『日本の出版社として成り立っていって欲しい。そのためには、外国のものばかり頼って、タコの吸い口みたいな役割を果たしているんじゃ、よくない』っていう。われわれも、『それっ!』って、血気盛んにやりだしたわけ。」(ジョニー野村談)

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.38 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店

当時の日本国内の音楽出版社は、レコード会社系列(ビクター音楽出版、コロムビア音楽芸能など)、テレビ・ラジオ放送局系列(日本テレビ音楽、フジ音楽出版、TBS系列の日本音楽出版=日音など)、そして芸能プロダクション系列(渡辺プロ系列の渡辺音楽出版、ホリプロ系列の東京音楽出版など)のように、媒体やタレント事務所との結びつきが強かった。出版社が音楽出版権を持つ楽曲のプロモーションを、レコード会社やテレビ・ラジオの放送局、タレントを擁するプロダクションが行い、自社系列の出版社に著作使用料として還元する、そんなビジネスモデルが確立されていた。しかし、外資系で日本に駐在したばかりのレビュー・ジャパンには、レコード会社も、テレビ・ラジオといった媒体も、所属する演者(アーティスト、タレント)も持っていない。楽曲の出版権は外国の曲ばかりで、日本国内の楽曲はなかった。

1960年代まで日本の音楽業界の慣例であった、作詞家や作曲家のレコード会社への専属制度は72年の頃には既に緩和され、フリーの作家がヒット曲を生み出す土壌が出来上がっていた。しかし、フリーの作家は音楽出版社専属でもないため、出版社がどれだけ詞と曲を持っていてもレコード会社も必ずしもレコーディング制作までは行うとは限らず、逆に原盤権(録音済みの音源の権利)をレコード会社に渡してしまったら出版社側には何の旨味もない。つまり、「専属作家を擁する」上に「楽曲を録音し、出版社として原盤権を有する」ことがレビュー・ジャパンのような “媒体を持たない” 出版社には必要だった。

<レビュー・ジャパンの専属作家とアーティスト>

同社の専属作家の第一号となったのが、作曲家の樋口康雄(ピコ)。1969年にコーラス&インストルメンタルのグループ、“シング・アウト” に参加。NHKの音楽番組『ステージ101』に出演したことが縁で、同番組の音楽スタッフになったことが作・編曲者としてのキャリアのスタートとなる。レビュー・ジャパンとは71年12月に専属契約。翌72年9月25日に自身のファーストアルバム『abc/ピコ・ファースト』を日本フォノグラムからリリースしている。また、1973年2月公開の映画『赤い鳥逃げた?』(配給:東宝、のちに『バージンブルース』でも監督を務めた藤田敏八が監督)のサウンドトラックアルバムも樋口の作品となる。

『abc/ピコ・ファースト』(1972)。画像は2000年に復刻されたCD(筆者所有)。アルバム全曲がポップ感満載で、サブスク未解禁なのが惜しまれる。
 1973年3月、業界チャート誌の “音楽出版特集” 号に掲載された、レビュー・ジャパンの企業広告。“レコード作り” は同社の原盤制作を意味している。

アーティストの第一号としては、後の井上陽水夫人としても有名な石川セリ。樋口と同じく “シング・アウト” に参加しており、1971年、日活映画『八月の濡れた砂』(藤田敏八監督)の主題歌を担当。1972年3月にシングル「小さな日曜日」でレコードデビュー。同年11月25日リリースのファーストアルバム『パセリと野の花』は、1曲を除く全曲を樋口が作曲しており、アルバム最終曲「GOOD MUSIC」の作詞は野村陽子が担当している。また余談だが、タケカワが1984年6月28日にフジテレビ『笑っていいとも!』の「テレホンショッキング」に初めて出演した際、前日にタケカワを紹介したのが石川だった。

後にレビュー・ジャパン(ないしはMCAミュージックに改称後)所属の作家、アーティストとなった人物・バンドとしては、
武川行秀(タケカワユキヒデ)、ミッキー吉野、小田裕一郎、トランザム、もんた頼命(もんたよしのり)、サンハウス(鮎川誠)、エディ藩、ゴダイゴ
が挙げられる。

<日本コロムビア洋楽部 清水美樹夫ディレクター>

前述の樋口康雄のレコードは日本フォノグラムやポリドール、石川セリのレコードはキャニオンレコードからのリリースだった。レビュー・ジャパンは自社で音楽出版権をもつ楽曲をレコードメーカー各社に売り込むのが主な業務だが、営業先の中にはもちろん、後にタケカワやゴダイゴのレコードをリリースすることになる、業界老舗の日本コロムビアもあった。そして同社のキーパーソンは、洋楽部の制作ディレクター、清水美樹夫である。

清水は1947年、福島県出身で、69年に早稲田大学文学部を卒業して日本コロムビアに入社。大学3年から既に同社の学芸部(テレビまんが、童謡、語学などのレコードを制作する部署)で英語教育のレコード制作のアルバイトをしており、入社後も2年間は学芸部に所属。繁忙期の合間を縫って、『エロス+虐殺』(1970、ATG配給、吉田喜重監督)、『東京戰争戦後秘話』(1970、ATG配給、大島渚監督)など、邦画サウンドトラックのEPコンパクト盤を制作していたという。

71年に洋楽部に異動。当時のコロムビアは、文芸部(日本の歌謡曲、演歌などの部署)が一番の稼ぎ頭で、洋楽部は海外のマイナーレーベルとのコネクションで日本盤をリリースしている状況だった。アメリカの "BUDDHA" レーベルの女性シンガーソングライター、メラニー(Melanie)が清水にとって最初の担当アーティストだった。その他にもイギリスのロックバンドのユーライア・ヒープ(1971年のアルバム『LOOK AT YOURSELF』に、清水は『対自核』と邦題を付けてリリースしている)、シャンソン歌手のムルージーやブリジット・フォンティーヌ、さらに日本のプログレッシブロックバンドであるコスモス・ファクトリーのデビューアルバム『トランシルヴァニアの古城』(1973年10月リリース、出版権はレビュー・ジャパン)も清水が担当している。前述のメラニーやユーライア・ヒープなどはヒットに繋がったものの、本国で大手レーベルへ移籍してしまって日本コロムビアとは関係が切れたりと、苦戦が続いていた。

<清水ディレクターとジョニー野村の出会い>

清水とジョニーの出会いは1973年。のちに清水はジョニーの妹のマリヤと結婚しており、73年以前からマリヤのことは知っていたが、兄のジョニーの事は知らなかったという。そしてコロムビア洋楽部に、自社楽曲の売り込みに来たジョニーのことを清水はこう述懐している。

「たしかオーストラリアかどこかのアーチストのシングル盤を売りこみに来たんだ。すごくいいから聴けというわけ。ぼくはイントロとまん中とおしまいだけ針をのせてきいて、『こんなの売れないよ』っていったの。そしたらジョニーが烈火のごとく怒ってね。例の調子で(笑)。『なんだ、そのきき方は!』っていうわけ。それで一時間くらい話してたら、マリヤ(今の女房ね)のお兄さんだということがわかったのね。それがジョニーとの出会いだったわけ」

ゴダイゴ・ファンクラブ会報 第18号 P.14/1980 ジーピーエス

ジョニーはレビュー・ジャパンの方針として、日本の作家・アーティストを育成して海外に売り出す戦略を考えており、レコード会社の洋楽部ディレクターとしての清水は「レーベルのコネクションに乏しい状況の中で、海外のアーティストを日本国内で売り出す以外にも、日本のアーティストのレコードを洋楽部門で作り、国内外で売っていこう」という方向で今後を見据えていた。二人の思惑は一致し、翌74年には二人でタケカワのレコードデビューに動き始めることになる。


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