『走り去るロマン』に賭けた夢 連載18 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ②
<デビューツアーとミッキー吉野グループ>
アルバムリリースの翌月からコンサート活動が活発になっていく。2月23日に静岡市のすみやホールでライブを行い、さらに3月7日には前月にオープンしたばかりの高円寺のライブハウス “次郎吉”、3月12日には荻窪ロフトで、“ミッキー吉野グループ” を従えたライブを敢行している。特に3月の次郎吉、荻窪ロフトはキャパ100人未満の小さな会場で、この直後のホールツアー『タケカワユキヒデ・リサイタル』に向けてグループとしての試運転を行った。
アルバムのアレンジ、演奏に携わったミッキーは前年の帰国以降、自身が思い描くグループのメンバーをまだまだ模索している途中だった。ジョニーからの依頼でタケカワをサポートするこのツアーも、前年までのメンバーを一部チェンジしての再始動という意味合いもあった。ヴォーカルとグランドピアノ担当のタケカワと、キーボード(オルガン、シンセサイザー、エレキピアノ)を担当するミッキー以外のパーソネルは、以下の通りである。
ベース:スティーヴ・フォックス…本名、Steven Henry Fox。1953年10月3日、宮城県仙台市出身。米国人の父と日本人の母の間に生まれ、幼少の頃にハワイを経て神奈川県逗子市に転居。11歳の頃、横須賀のアメリカンスクールの友人とバンドを結成し、"Burns" 社製のエレキベースを初めて購入。かつて本牧にあった "Nile C. Kinnick High School" に進学し、“A. S. SHOLES”(エー・エス・ショールス)なるバンドで活動をしていた69年に、ザ・ゴールデン・カップスで活躍中だったミッキーと知り合う。
ミッキーがカップスを脱退した71年に、ミッキーやフランク・シムズ(後にドン・ヘンリー、ミック・ジャガーのサポートも務めたギタリスト)らと新バンド “サンライズ” を結成。しかしミッキーのボストン留学やフランクの離日もあって、カップスのアイ高野、柳ジョージらと録音したシングル「ベイビー・ホールド・オン」を同年10月に日本ビクター(現・ビクターエンタテインメント)からリリースしている。
スティーヴもまた、家族のテキサス移住に伴い71年9月に日本を離れ、翌72年にはミッキーを追うようにバークリー音楽大学に入学するも、ロック志向の強いスティーヴには水が合わず、1年で中退。ボストンでミッキーとバンドを共にして、"RAP SCALLION"(ラップ・スカリオン)、"FLESH & BLOOD"(フレッシュ&ブラッド)、"DUTCH BAKER BAND"(ダッチ・ベイカー・バンド)で活躍する。ミッキーの日本帰国から5か月後、74年11月にミミ夫人(当時)と共に来日。同年大晦日の『フラッシュ・コンサート'74 – '75』(渋谷・西武劇場)から正式にミッキー吉野グループのメンバーとなる。
ドラムス:原田裕臣…1944年2月14日、川崎市出身。デビューは1962年のジャズバンド“菅野邦彦トリオ” への参加。69年には “ミッキー・カーチスとサムライ” に合流し、71年のバンド解散まで在籍している。71年9月、沢田研二と萩原健一を擁したニューロック・バンド "PYG" に、ドラマー・大口広司の後任として加入。PYG解散後もその流れを汲む “井上堯之バンド” にて引き続き活躍。74年6月に井上堯之バンドを脱退した後、前述の『フラッシュ・コンサート'74 – '75』を観に来たことがきっかけとなり、年明けすぐにミッキー吉野グループに加入している。
ギター:エドワード・リー…本名、李偉玉(リ エイギョク)。1953年8月13日、東京・浅草出身で、ヤマハ主催の「ライトミュージック・コンテスト」関東甲信越大会ロック部門にてベストギタリスト個人賞を受賞した実績がある。1973年頃よりプロのギタリストとして活動を始めており、74年にミッキーがボストンから帰国の直後に結成されたミッキー吉野グループに参加。同年8月の「郡山ワンステップ・フェスティバル」や、横浜野外音楽堂での「DAY DREAM FESTIVAL」にも出演。75年初頭以降は、前年にミッキー吉野グループで共演したアイ高野、藤井真一と新たにトリオを結成しており、このツアーではあくまでもサポートギタリストとしての参加だった。
女声コーラス:坂本めぐみ…1951年6月5日生まれ。1969年12月に渋谷・東横劇場で上演されたミュージカル『ヘアー』日本キャスト公演(連載11参照)に出演。翌70年に渡欧し、ベルギー、パリでも『ヘアー』公演に出演している。72年12月に帰国後は、73年6月の劇団四季『ジーザス・クライスト・スーパースター』初演にも参加。74年8月には、ポリドールからデビューシングル「NA NA NA/火星からきた女」をリリース。アルバム『走り去るロマン』では「HAPPINESS」「I CAN BE IN LOVE, TOO」の2曲にコーラスで参加した。
女声コーラス:上村純子(じゅんこ)…1956年生まれ。ツアー当時は中央大学に在学中で、演劇と英語のインストラクターをしていた。コーラスは先に坂本が決定しており、もう一人を探している際に奈良橋陽子から「前年に指導した英語ミュージカルの出演者の学生で、歌の上手い子がいる」との推薦を受け決定したという。タケカワの2ndアルバム(結果的にゴダイゴのデビューアルバムとなる)収録曲のレコーディングにも参加したが、以降は就職のため音楽活動から身を退いている。
後年、タケカワはミッキー吉野グループとの初共演を振り返り、こう話していた。
<ツアー用の新曲>
デビューツアーでは約2時間のステージを展開するにあたり、アルバム『走り去るロマン』収録曲以外の楽曲も用意しなければならない。同ツアーの詳細なセットリストの資料は現存していないが、いくつかの新曲が用意されたことは判明している。
その中のひとつが、奈良橋陽子が詞を提供した「MAKING MY WAY」で、同年6月に出演したFM東京『DENON LIVE CONCERT』でも演奏している。以降はどのアルバムにも収録されず、長らく未発表曲として扱われてきたが、2015年3~4月に行われたタケカワのライブでようやく日の目を見ることになり、その模様はライブCDにも収録されている。
また、ゴダイゴのファーストアルバム『ゴダイゴ 組曲・新創世紀』(1976)の収録曲「YELLOW CENTER LINE」と、「SUITE : GENESIS」はこのツアーが初めての披露となる。後述する渋谷公会堂でのライブ音源が何曲かCD化されているが、ゴダイゴのアルバムでのアレンジがこの時点でほぼ完成していたことが確認できる。「SUITE : GENESIS」は第3章(連載09参照)で先述した、72年7月の第2回『TRECNOC』用に書かれた組曲「THE PILED BLOCKS」の詞を全面的にリライトしたもの。いにしえの世界を支配する架空の女王と、その3人の息子たちとの葛藤劇を6楽章に渡って描いている。詞をリライトした奈良橋は当時をこう語る。
第5楽章にあたる「THE HUDDLE」は、原曲の「THE PILED BLOCKS」ではジャズ風の楽曲が充てられていたが、これを機に楽曲そのものも書き直したという。また、組曲のイントロとして、約5分に渡るミッキーのシンセサイザーをフィーチャーしたインストルメンタル「BIRTH」がプレイされていた。このツアーでの「SUITE : GENESIS」は約30分に及ぶ演奏だったという。
<地方ツアーの集客は散々な結果に>
3月17日(月)と18日(火)の、京都のライブハウス “拾得” を皮切りに、『タケカワユキヒデ・リサイタル』の関西・九州ツアーがスタートする。大阪以降のツアー会場だが、まだ新人で知名度のないタケカワには荷が重い、1千~2千人台の規模のホールが並ぶ。
※以下、( )の数字は公称の最大収容人数
3月19日(水):大阪・毎日ホール(1,513)
3月20日(木):兵庫・神戸国際会館(2,200)
3月21日(金祝):福岡・福岡少年文化会館(770) ※15:00開演、入場料1,000円
3月26日(水):静岡・駿府会館(2,862)
4月25日(金):東京・渋谷公会堂(2,318)
デビュー当時としては致し方ないところではあるが、東京公演以外は集客の面では散々な結果に終わっており、神戸国際会館、大阪毎日ホールは共に観客が10名程度だったというエピソードが残っている。現代のように情報が瞬時に伝播する時代ではなかった70年代において、関東で評判になっていたとしても、関西や九州までその評判が届いていたかは疑問だ。地方でのコンサートとなると、当然のことながら地元のイベンターに委託したり、レコード会社の地方営業所の協力を仰いだりするものだが、それでもレコード発売から2か月間で、まだ知名度のないアーティストのホール興行を集客するのは非常に難しいと思われる。タケカワのアマチュア時代に、友人たちがチケットを手売りして、東京の日本青年館を満員にした『TRECNOC』の集客実績が、かえって会場キャパシティの見積もりを甘くしたようにも推測できる。
とはいえ、地元イベンター側にも問題がなかった訳でもないようだ。入場者が10名程度とは本当にチケットを売っていたのかと疑うレベルである。ツアー当時、レビュー・ジャパンでタケカワの舞台監督兼マネージャーを務めていた、和田勝利(後のトランザム・オフィス代表)はこのように振り返っている。
もっとも、ステージでピアノを弾いて歌うタケカワは、コンサートの最中に観客席まで意識することもなく、ただ無我夢中だったという。
<地方営業での苦戦>
アルバムとツアーのプロモーションとして、コンサートを開催する地方のラジオ放送局やレコード店、日本コロムビアの地方営業所への挨拶回りもタケカワにとって初めての経験だった。この地方営業ではミッキーは “後見人” として帯同し、タケカワのフォロー役に回った。だがここでもハプニングは付き物だった。
タケカワは二十歳の頃の自分自身を振り返り、“ひどくピリピリしていて、気位の高いヤツで、周りがあまり声を掛けられないヤツ” と評したことがあったが、その一面が出てしまったエピソード。だが、彼にしてみればそれ相応の理由があった。
ミッキーも「彼は世界への進出を目指しているので、英語で歌うのは当然のことなんです」とフォローしたが、この「日本人による洋楽曲」という新たなジャンルはここでも大きな壁に直面する。営業で回ったラジオ局のほぼすべてで、タケカワの楽曲のオンエアを断られることになる。当時のラジオ編成は邦楽の番組と洋楽の番組に二分化されており、邦楽の番組では「日本語で歌っていない曲は流せない」と言われ、洋楽の番組では「日本人の楽曲は洋楽のジャンルに入らない」と言われてしまう。日本人が英語で歌う楽曲が、日本の音楽界にまだまだ浸透していない時代の、象徴的な出来事といえよう。
また、この時のラジオ放送局への営業を通して、ミッキーは改めて当時のフォークブームを痛感させられる。振り返れば、前年の9月から75年春にかけての毎週、オリコンLPチャートの1位をフォーク勢が寡占している状況が続いていた。その9ヶ月間で1位を飾ったのは、井上陽水『氷の世界』『二色の独楽』、かぐや姫『かぐや姫LIVE』『かぐや姫フォーエバー』、よしだたくろう『今はまだ人生を語らず』の5作品のみ。併せて75年3月当時のシングルチャート1位も風「22才の別れ」や、かまやつひろし「我が良き友よ」(よしだたくろうが楽曲提供)だった。ミッキーは将来的に自分のバンドで目指そうとしている音楽と、流行している音楽とのギャップに、内心複雑な想いを抱いていた。
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