『走り去るロマン』に賭けた夢 連載23 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ②
<帰国からの4カ月間>
ミッキーが帰国してレビュー・ジャパンと作家契約を交わしてからの4カ月間、“ミッキー吉野グループ” としてのライブ活動以外にも多忙な日々を送ることとなる。それはすべて、新バンド結成への布石だった。
①スタジオミュージシャン、アレンジャーとしての活動
ジョニー野村から依頼された、タケカワのデビューアルバム『走り去るロマン』のレコーディングに参加(連載15参照)した以外にも、他のアーティスト作品の編曲と演奏にも携わっている。74年秋までにレコードリリースされた、参加作品は以下の通りだ。
●寺尾聡(聰)「ほんとに久しぶりだね」
(シングル/東芝EMI/10月20日リリース)
…同曲とカップリング曲「何処かへ」の編曲と、ミッキー吉野グループとして演奏に参加。1965年にカレッジフォークグループの “ザ・サベージ” に参加、「この手のひらに愛を」がヒットするも脱退。俳優としての活動にシフトする。このシングルがソロ2作目のシングルだったが、ミッキーのゲスト参加を機に、ミッキーが寺尾をプロデュースするプランが浮上する。
●中村雅俊『ふれあい』
(アルバム/日本コロムビア/10月25日リリース)
…収録曲「夏の終り」「デンマーク牧場」の作・編曲と、キーボード(シンセ、メロトロン)の演奏(その他の演奏はトランザムが担当)。中村が俳優としてのデビュー前、慶應義塾大学3年在籍中の73年に、奈良橋陽子が担当したモデル・プロダクションの公演「June Night」の作曲者オーディションを受けたのをきっかけに、ジョニー野村と知り合っている。中村の文学座入団前に、ジョニーが中村のデモテープをレコード会社に売り込みしていたこともあるという。
●マギー・メイ『もぬけのから』
(アルバム/日本コロムビア/11月25日リリース)
…収録曲「それから」「九月の雨」など全6曲でキーボード(エレキピアノ、オルガン、シンセ)と編曲でゲスト参加。後年、“あんしんパパ”名義で発表した「はじめてのチュウ」で有名な、実川俊晴を中心に結成されたアコースティック・ロックバンドの2ndアルバム。このレコーディングが、ミッキーの旧友である野中三朗の自宅スタジオで行われた縁で、ミッキーが途中参加した経緯がある。
これらはあくまで、リリースされたレコードにクレジットされていたり、参加が判明していたりする一例である。同時期のレコーディング参加の中には、インペグ(スタジオミュージシャンをスタジオに手配する会社)に斡旋されるがままにスタジオに入り、アーティスト名や曲名も告げられず譜面だけを渡され、演奏後取っ払いの仕事もあったようだ。ミッキーがそのような仕事でよく顔を合わせたスタジオミュージシャンが、村上ポンタ(ドラムス)、松木恒彦(ギター)、岡崎章(ベース)といった、前述の『走り去るロマン』の録音に参加した面々だったという。
②楽器、練習場所の調達
元々はオルガンプレイヤーのミッキーだが、ボストン時代に初めてシンセサイザーに出会う。当時使用したシンセは、イギリスのメーカー・EMSの "SYNTHI-AKS"、マサチューセッツに拠点のあるARPの "ARP 2600"など。帰国直後、さっそくミッキーは72年に創業したばかりの電子楽器メーカー、ローランドの大阪本社に招かれる。そしてミッキーの求める音作りが、ローランドのシンセ製品開発のヒントになってゆく。
また、この時期にミッキーは神田商会も訪ねており、コネクションを作っている。神田商会はギター、ベース、キーボード、ドラムに至るまで、国内外のメーカーの楽器を総合的に取り扱う卸問屋。後にゴダイゴが70年代後半のブレイク期に、テレビの音楽番組で「Greco」(富士弦楽器製造)のギターとベース、「TAMA」(星野楽器製造)のドラム、フィンランドの楽器メーカー「WLM」のオルガンをプレイしていたのが印象的だが、これらはいずれも神田商会の取り扱いブランドである。
練習場所としては、前述のマギー・メイのアルバム録音でも使用した、横浜市山手に住む旧友の野中三朗の自宅スタジオを確保。野中はミッキーが中学時代に初めて結成したバンド “サブローズ” のメンバーで、野中宅はその後もゴダイゴのリハーサルスタジオとして使用された。
③スティーヴ来日の受け入れ体制の構築
日本でスティーヴを迎えるにあたり、就労ビザ取得のお膳立ても進めた。前述の神田商会にはスティーヴの身元引受人になってもらうと同時に、スティーヴを契約社員として雇用してもらう。その名目は “西洋音楽の専門家” としての契約。単なるミュージシャンやエンターテイナーとしての就労では、滞在中の公演スケジュールをすべて外務省に提出しなければいけない故の苦肉の策だった。スティーヴのビザ取得のため、ミッキーは幾度となく同省を訪れた。
来日して神田商会の契約社員となってからのスティーヴは、同社が提携している富士弦楽器のブランド「Greco」ベースギターの新製品開発のアドバイザー、製品エンドーサー(75年以降はGrecoのリッケンバッカータイプのカスタムモデルを使用)、同社広告のモデル、ベースクリニックの講師、雑誌『Player』でのベース講座連載…といった具合に、「Grecoの顔」になる。また、結婚したばかりで配偶者ビザで来日した妻(当時)のミミも神田商会で商品輸入業務を手伝っていた。日本国内で活動するバンドで、外国人メンバーが定着して参加するには、長期滞在できるビザと、異国の地で生活できるだけの仕事と収入が必要。それだけの保証をしてでも、音楽的に、そして精神的にも、ミッキーはスティーヴを必要としていた。
<メンバー選定は難航>
ミッキーは帰国直後の4カ月間で、新バンドのための楽器、機材、練習場所を確保したものの、肝心のメンバーが決まらない。年内に来日するベーシストのスティーヴは既定路線としても、それ以外のパートの人選に苦戦していた。
ボストン滞在期、まずギタリストとして想定していたのはフランク・シムズ。71年の留学前の短期間、スティーヴらと共に “サンライズ”を結成したメンバーである(連載18参照)。ミッキーはカリフォルニアまで出向いてフランクを勧誘するも、「アメリカに残って活動したい」との返答により断念している。また帰国前は、日本人ミュージシャンの中からヴォーカルにカルメン・マキ、ギターに竹田和夫というビジョンもあったらしいが、それぞれ別のバンド(カルメン・マキ&OZ、クリエイション)で既に活動しており、「誘っても無理かな…」と声も掛けずに終わっている。
また、かつてのザ・ゴールデン・カップス人脈の中からは、柳ジョージ、エディ藩、ルイズルイス加部(ベーシストとしてカップスに参加していたが、元々はギタリストであり、エディの脱退時にはギターを担当した時期がある)といった面々もギタリスト候補に入っていた。だが彼らもまた、74年当時は “デイヴ平尾&ゴールデン・カップス”、“エディ藩とオリエント・エクスプレス” といった新バンドとして活動中だった。
余談だが、ミッキーがボストン留学して1年目の頃は、帰国後のプランとしてカップスメンバーとの合流も視野に入れていたが、その頃にデイヴ平尾と連絡を取った際に、新たなメンバーと活動中と聞いて合流を諦めたことがあるという。留学を通じて描いてきた、新たなバンド構想を胸に日本に帰国し、改めてカップス人脈とは別の人選を模索した結果が、カップス時代にジャズ喫茶やディスコティーク、ロックイベントで共演して面識のあるギタリスト・浅野孝已ということになるが、浅野もまた、74年当時は別バンド(チャコとヘルス・エンジェル)に在籍中だった(連載19参照)。
<寺尾聰からの “推薦”>
多忙な日々と、バンドメンバー選定の悩みが続く中、ミッキーは10月から1ヶ月間、日本を離れた。前述の寺尾聰のプロデュース話が持ち上がり、バケーションを兼ねてハワイで一緒に曲を作り、ロサンゼルス、ラスベガスと回ってレコーディングするというプランだった。同じ横浜出身ながら、ミッキーと寺尾とはこれが初めての出会いだったという。二人は現地で意気投合し、ハワイ・カウアイ島で毎日のように海水浴をしたり、ラスベガスでスッテンテンに負けて13ドルしかなくなって安いモーテルに泊まったり、イチかバチかでスロットで当てて数日食いつないだりと、珍道中を繰り広げた。この期間中、二人で作曲とレコーディングはしたものの、結果的にレコードとしてリリースはされなかったらしい。そしてこの海外レコーディングが長引いたため、タケカワと二人で担当するはずだった、映画『バージンブルース』の劇伴制作を “すっぽかす” 結果になったことは、第5章(連載16参照)で述べたとおりだ。
二人はレコーディングのため海外に行ったにもかかわらず、参考にするための音楽が録音されたテープを持参するのを忘れたらしい。そのため、ミッキーが偶然持っていた、レコードリリース前の『走り去るロマン』のミックステープを毎日のように再生していたという。
タケカワはミッキーから後年、寺尾とのエピソードをこのように教えられている。一方で、82年末に雑誌で対談したミッキーと寺尾は以下のように語っている。カウアイ島で月明かりに照らされて現れた、“夜の虹” を二人で見た時のエピソードである。
いずれにせよ、ミッキーが寺尾からインスパイアされたことによって、後々にタケカワをバンドのヴォーカリストとして引き入れたことには違いないようである。
※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
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