見出し画像

『走り去るロマン』に賭けた夢 連載24 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ③

<メンバーチェンジとタケカワとのツアー>

ミッキーが寺尾聰との海外レコーディングを終え、帰国した74年11月。今度はスティーヴが3年ぶりに来日する。ボストン時代には未婚だったスティーヴが、妻のミミを帯同していたため、迎えに来たミッキーたちは突然の結婚報告に驚いたそうだ。スティーヴ夫妻は来日して1年弱の間、ミッキーの磯子の実家に居候し、スティーヴは日本でのバンド活動を再スタートすることになる。

スティーヴを新たなベーシストに、そして元 “ブラウン・ライス” の市原康をドラマーに迎えた、新生 “ミッキー吉野グループ” は同年12月31日の『フラッシュ・コンサート'74 - '75』(渋谷西武劇場)に出演。後に『NEW YEAR ROCK FESTIVAL』と改称する、内田裕也プロデュースのロックイベントで、ミッキーたちが出演した第二部(22:00~翌1月1日の1:00)にはかつての盟友、“デイヴ平尾&ゴールデン・カップス” や、後にゴダイゴのデビューメンバーとなる浅野良治がいた “かまやつひろし&オレンジ” も参加している。

この『フラッシュ・コンサート'74 - '75』での彼らのステージを、元 “スモーキー・メディスン” のギタリストで、プロデビュー前のChar(竹中尚人)が観覧していたという。この頃はまだミッキーと面識がなく、楽屋を訪問しても話しかけることはできなかったそうだ。

“初めて観たミッキー吉野グループはプログレ/フュージョンという感じだったかな。ジャズっぽいとか噂で聞いていたけど、ベースのスティーヴ・フォックスがとにかく派手で。化粧こそしていなかったけど、音楽もさることながら新しいビジュアルのイメージがした。ミッキーも派手なステージングで、魅せるロックバンドとして感動したことを覚えています。バークリー帰りの音は、日本のバンドにはない新しいものでした。”(Char 談)

『45 Godiego 1976-2021』P.190 Godiego Anniversary Project/2021 KADOKAWA

余談ながら、詳細な時期は不明だが、ミッキーがゴダイゴのメンバー候補を探している過程で、浜田良美と彼のバックバンドに参加していたCharを紹介される話があったものの、会うこともなく終わったという。実際に両者が知り合うのは、ゴダイゴのデビュー直後に共に出演したジョイントツアー『ザ・ツアー』(76年4~6月)でのことになる。

なお、『フラッシュ・コンサート'74 - '75』ではミッキーのヴォーカルによる「HAPPINESS」も披露したという。アルバム『走り去るロマン』のレコーディング時に、同曲の演奏には参加していなかったものの、同曲を高く評価していたことが窺える。

「あの曲、やたらと良かったんですよ。陽子の詞も良くてのどかな中にも永遠性を感じましたし。タケがステージで歌う前に僕が英語で歌ってる(笑)。(中略)他の曲はアバンギャルドなのにあの曲はポップ。 そういう振り幅のバンドは誰も見たことがなかったと思いますよ」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P.143 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

“アバンギャルド” な楽曲としては、翌75年10月制作のデモテープ(アルバム『Me and '70s』として2008年に初リリース)にも収録された「THE LAST DAY」も演奏した、とミッキーが証言している。スローで美しいメロディのヴォーカルから、徐々にフリージャズに雪崩れ込んでいく展開の楽曲で、ミッキーが言う “振り幅” も納得できよう。

こうして新たにトリオで発進…のように見えたが、年明け早々にドラマーが交代する。市原は元々がジャズ畑出身だったこともあり、ジャズピアニスト・鈴木宏昌の “コルゲン・バンド” に参加。新任ドラマーとして、大晦日の『フラッシュ~』を観覧に来ていた原田裕臣が加入する。ミッキー、スティーヴ、原田の新トリオに、サポートギタリストとして元メンバーのエドワード・リーと、女声コーラスの坂本めぐみ、上村純子を加えたメンバーで、75年3月からタケカワのデビューツアーのバッキングを行ったのは第6章で述べた通りである。この時はまだ、「“ゴダイゴ” としてバンドを始動させるにはメンバーが揃っていないから、それまで何かの形でやりたい」という想いでタケカワのバッキングに協力している。

“タケの最初のアルバム 『走り去るロマン』 が制作されて、タケのほうでも、アルバム・プロモーションのツアーをやんなきゃならなかったの。ぼくのほうも、ゴダイゴをつくりあげることが頭にあって、早くメンバーを集めたいし、タケのことは、ジョニーに頼まれてたし…。 で、お互いにいっしょにやっていけるかどうか、このツアーで試そうってことになった。とりあえず、やってみようってね。”(ミッキー吉野談)

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.67 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店

グループのメンバーであるスティーヴも、ミッキーとの新バンドの本格始動を念頭に、このツアーを迎えている。当時のインタビューでもバンドのビジョンを語っている。

“今、武川行秀のバックをやってるけど、あと1年ぐらいしたら自分のバンドを作る予定。どうゆう音になってくるのかは、その時に出る音といったところだネ。とにかく、グループのみんなの音が混って音になるんだけど、ミッキーとは兄弟のようなもので、コミュニケーションはバッチリだしネ。” 

『THE YOUNG MATES MUSIC Player』1975年2月号 VOL.81 P.19/YMMプレイヤー

<バンドに対するタケカワの想い>

一方のタケカワは、このツアーで “バンド” を組むことについてどう思っていたか。アルバムのレコーディングを通じて、ミッキーに対する信頼感は生まれていた。雑誌のインタビューの中でも、先輩ミュージシャンであるミッキーをこう評している。

“元ゴールデン・カップスのミッキー吉野さん。ぼくは今、かなり彼にイカレてるんだ。(中略)その時の彼の演奏とか、話しとか、とにかく頼りになりそうな感じで、意気投合したんだ。日活の『バージンブルース』っていう映画の音楽を担当した時も、彼といっしょにやりたかったくらいさ。3月からステージに立つけど、彼がバックをやってくれるんで安心なんだ。”

『GORO』1975年2月13日号 P.119/小学館

だが、バンドの “結成” については今一歩、踏み出せないタケカワがいた。第6章(連載18参照)で前述したように「ものすごく楽しかった」「巧い連中とやるってのはあの時が初めて」との感想もあるものの、75年のツアーの頃はバンドに対する抵抗感をまだ払拭できずにいた。

“ぼくとしては、ずっとミッキーと付き合ってみて、いっしょにやらないのも何ではないかな、というのが大きかったな。これまでやってみて、これで別れてしまうのはどういうことなんだろう、とね。ずっといっしょにやってていいんじゃないか、という気持が強くなってね。ミッキーとの音楽的違いを意識したことはないよ、ぼくはね。どういう形でもできると思ってたから。
ただ、気になっていたのはバンド。バンドとしてまとまんなきゃあいけないけれど、それだけで終わってしまうのは、なんとなくいやだった。だから、ぼくのほうから、「いっしょにやろうぜ」とは どうしてもいえなかった。ぼくに何を望むんだろう、ぼくは、できることとできないことはっきりさせるタイプだから。” (タケカワユキヒデ談)

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.67 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店

その後も「ミッキーはすごくいいけど、いっしょにバンド組んだ時、やっていけるかな」という想いは、ゴダイゴ結成までずっと感じていた、とタケカワは証言している。

余談になるが、関西・九州を回るデビューツアーは集客的には散々な結果だったことは第6章でも触れたが、初めての地方ツアーにまつわるステージの失敗談も数々残している。
●開演直前に緊張をほぐすため、全員で少量のワインで乾杯を行い、ステージに向かった。コンサート序盤でトイレに行きたくなり、「組曲・新創世紀」冒頭のインストルメンタルでこっそりステージを抜け出した。
●その「組曲~」のインスト演奏中はミッキーだけにスポットライトが当たり、反対のタケカワ側のステージは暗闇になるため、タケカワが一瞬居眠りをしてしまった。「CREATION」のイントロで自分がピアノを弾く直前で目が覚めた。
●コンサートの打ち上げで楽器やステージのある酒場に行き、タケカワを含むメンバーが酔った勢いで「組曲・新創世紀」を即興で披露。翌朝タケカワが喉を傷めて声が出なくなってしまった。

“声が何も出ないのだ。この時感じた絶望感と後悔の念は、今でも忘れない。
どうやって、その修羅場を乗り切ったのかは覚えていないが、それ以来、お酒を飲んで歌うことは、ぜったいにしなくなった。”

『タッタ君 ふたたび』下 P.246 タケカワユキヒデ著/2013 T-time

<コラボ活動の中断~再開まで>

タケカワのデビューリサイタルの渋谷公演(75年4月25日)より、浅野孝已がギタリストとしてミッキー吉野グループへ正式に加入。グループはミッキー、スティーヴ、原田、浅野の4名体制となる。コーラスの坂本、上村を加えて、6月まではタケカワのテレビ・ラジオライブ出演などでコラボレーションは継続していたが、7~8月は沢田研二のツアーに帯同。その間にタケカワがCMソング初採用になったあたりは第7章(連載21参照)で前述の通りだ。

この『JULIE ROCK'N TOUR '75』は北海道から長崎までの日本縦断サーキット。7月20日の比叡山フリーコンサートを除いた8月だけでも全18会場、40公演という超ハードスケジュール。しかもスター歌手のジュリーだけに、どの会場も満員の盛況。タケカワの地方ツアーとはあまりに規模の違うものだった。ミッキーは演奏に参加しつつ、同行したレビュー・ジャパンのロードマネージャー、倉若貞行と共にツアーのマネジメントのなんたるかを学んだという。

ツアー中の8月21日にリリースされたジュリーのシングル「時の過ぎゆくままに」のバッキング、テレビプロモーションは、元々のバックバンドである “井上堯之バンド” が帯同するため、9月以降はジュリーとの共演もひと段落する(例外的に9月16日放送「ミュージックフェア」には出演)。ツアー後に制作された同年12月リリースのアルバム『いくつかの場面』収録曲として「U.F.O.」の作・編曲を担当し、ミッキー吉野グループとしてレコーディングに参加したのがジュリーとのコラボの最後となった。

また、この頃になると、他のアーティストの作品に作・編曲に携わったり、キーボーディストとして参加する他、ミッキー吉野グループ名義で演奏に参加する機会も増えてくる。以下は75年夏以降に楽曲提供ないし客演した作品リストである(記載の年月はレコードリリース)。

シグナル「片想い」(75年9月21日、シングル「20歳のめぐり逢い」B面)を編曲。

フォークグループ “シグナル”(あさみあきお、田村功夫、住出勝則)のデビュー曲で、コンフィデンス(オリコン)チャート最高位14位。サブスク未解禁。

ジュンジュン アルバム『センチメンタル物語』(75年11月21日)にキーボードで参加。

大橋純子「ひとり」(76年5月25日、アルバム『ペイパー・ムーン』収録曲)を作・編曲し、ミッキー吉野グループで演奏。原曲は同時期にエディ藩にも提供した「SOMETIMES I WISH」。

山内テツ アルバム『ききょう』(76年8月25日)にミッキー吉野グループとして参加。

これ以外にも、テレビドラマの劇伴(BGM)制作として、翌76年2~3月に放送されるNHK土曜ドラマ『男たちの旅路』第1部の制作・演奏もミッキー吉野グループとして行っている。印象的な番組テーマ曲は、ミッキーがボストンにいた頃の日本観をイメージして書いた「商人」なるタイトルの楽曲と、70年に録音した幻のソロアルバムの1曲「AGAINST THE GRAIN」を合わせたもの。なお、77年放送の第2部以降はその都度、当時のゴダイゴメンバーで新たに録音し直されている(以下の「男たちの旅路」Spotifyリンクは78年録音)。

75年秋になると、次第にタケカワとのコラボレーションも再開するようになる。ビッグジョン・ジーンズのCMソングとして採用され、タケカワの3rdシングルとしてリリース(75年11月10日)される「UNCLE JOHN」と「SMILE」のレコーディングに浅野が参加。また、後述するタケカワの2ndアルバムのレコーディングにはミッキー吉野グループが全面参加した。さらに、舞踊家の花柳幻舟が “義太夫とロックの融合” を図ったアルバム『残・曾根崎心中』では、ミッキー吉野グループがバッキングを務め、タケカワや女声コーラスの坂本めぐみもゲストヴォーカルで参加。同アルバムも11月にリリースされている。特にタケカワが歌唱した「淋しい鳩」は、彼にとって詞・曲ともに自作曲ではなく、なおかつ彼が日本語詞を歌った最初のレコード作品となった。

“タケカワが本当に日本語で歌うことが苦手でもうイヤだったというのがあります。それが緩和されるまで時間が必要だった。彼は本当に悲しかったらしい。花柳幻舟のアルバム 『残・曾根崎心中』(75年)で「淋しい鳩」を日本語で歌ったときは本当に寂しくなったと言ってました。”

『ミッキー吉野の人生(たび)の友だち』P.P.94-95  ミッキー吉野著/2015 シンコーミュージック・エンタテイメント
2004年に初めて復刻されたCD盤。「淋しい鳩」の作曲はミッキー。

そして “タケカワユキヒデとミッキー吉野グループ” のテレビプロモーションも再開する。11月9日放送のNHK総合『レッツゴーヤング』ではデビューアルバム収録曲の「NIGHT TIME」を披露。同じくNHK総合の『土曜特集-音楽の魅力-』12月20日放送の、“第9交響曲” をテーマにした回では組曲「ソング・オブ・ジョイ」を初公開。冒頭にクリスマスキャロルの「JOY TO THE WORLD!  THE LORD IS COME(もろびとこぞりて)」から始まり、スリー・ドッグ・ナイト「JOY TO THE WORLD(歓びの世界)」のカバー、そしてオリジナル曲の「SONG OF JOY」を挟んで、ベートーベン作曲「交響曲第9番」の第一主題にあたる「ODE TO JOY(歓喜の歌)」が絡みあう、ロック組曲を展開。彼らは1975年のコラボレーション活動の掉尾を飾るに相応しい演奏を見せた。

『読売新聞』1975年12月20日(土)ラテ欄より


※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
※無断転載禁止
前後のエピソードはコチラから!