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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載22 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第8章 ゴダイゴ結成編 1972~76年 ①

<ミッキーとスティーヴが夢見たバンド>

この章では最初に、1972年頃まで遡ってミッキー吉野とスティーヴ・フォックスのバンド、そして “ミッキー吉野グループ” の成り立ちを追ってゆきたい。

1971年夏からバークリー音楽大学に留学したミッキーは、厳しい授業とスコア作成の宿題に追われ、1年目は学業に専念していたが、2年目からはバンド活動も並行して行うようになる。バークリー音大の授業はジャズが基本であり、ミッキーも数々のジャズバンドに参加。同じ時期に同学に留学していたタイガー大越(トランペット)や、後に “中村照夫&ザ・ライジング・サン” に参加する森士郎(ギター、キーボード)ともセッションを行ったこともあるという。ジャズバンドに参加していると、大学の先生から「今晩ヒマか?」と仕事も紹介されることがあり、一晩で30ドルは稼ぐことができた。なお、学生ビザで留学しながらバンド演奏という“労働”をすることについては、留学当時は社会保障番号(social security number)カードを取得することで解決できたという。授業1時間1単位につき3時間分の労働が認められ、週末には履修単位分×3時間の演奏を行っていた。

72年にはミッキーから1年遅れで同学に入学したスティーヴと合流し、現地のロックバンドに参加するようになる。メロトロンを2台駆使した4人組バンド “ラップ・スカリオン(RAP SCALLION)” から始まり、73年にはボストンの人気グループ、“フレッシュ&ブラッド(FLESH & BLOOD)” に加入。同バンドはボストンの他にも、ニューヨークやニューイングランドといった東海岸エリア広域で活動していた。

ミッキーがアメリカ留学、現地での音楽活動を通じて痛感したのは、日本人としてのアイデンティティだった。その思いが「東京を拠点に活動し、日本の音楽界に新風を送りこみ、いつの日かアメリカに進出して、その広大な音楽市場を征服する」バンド像へと膨らんでいく。スティーヴと共に夢見た、理想のバンドだった。

“アメリカにいてミュージシャンとしてはいろいろ仕事面でいいとこまでいけるんだけど、何かアートの面が足りない。多民族国家だから、結局は自分自身のアイデンティティになるのかな…、日本、東京という所をバックボーンに行かない限り本当の意味でのインターナショナルに勝負にならない。アメリカのバンドに日本人が居る…だけではダメだという結論に達したんです。それより、「何をやりたいのか」の方が重要だ。そうやってゴダイゴの発想が湧いてきたんです。
その頃はまだ英語詞で…というのは決めてなくて、とにかくハイエナジーなロックバンドを作りたいというのがありました。そこでストーンズの歌詞とか色々と見ていくうちに、日本独自の英語を考えなければいけないんじゃないかという所にたどり着くんです。” 

『ミッキー吉野の人生(たび)の友だち』P.80 ミッキー吉野著/2015 シンコーミュージック・エンタテイメント

ミッキーは1996年のインタビューで、新バンド結成を目指していた頃を振り返り、バンドの音楽性のコンセプトをこう表現している。

― アメリカ時代は、ジャズのキーボード奏者を聴いていたんですね。
ミッキー「それは、当時、スティーヴ・フォックス(b)と練っていた音楽のコンセプトにも関係しています」
― そのコンセプトを具体的にいうと。
ミッキー「ウェザー・リポートの音楽性と、ローリング・ストーンズのエネルギー、それを合わせたバンドを作ろうということ。それがゴダイゴにつながるんです」

『別冊FM STATION 史上最強カウントダウン』1996年4月15日号 P.92/ダイヤモンド社

現実的には両立し得なかった音楽性を兼ね備えた、新しいタイプのバンド。しかも当時彼らが志向していたハードロック路線で、次代を含めたヤング・ジェネレーションにアピールするようなバンド。それが構想当初のバンド像だった。

そして74年3月、ナイトクラブでのライブに出演のため、ニューヨーク州アルスターのウッドストックまでオンボロ車で向かっている道中だった。ミッキーが後醍醐天皇から連想し、バンド名候補として挙げていた "GODAIGO" というキーワードに対し、スティーヴが "GODIEGO" とスペルを変えることを提案。ゴダイゴの命名エピソードとしてファンには有名な出来事である。

"GODAIGO" …日本のエンペラー、天皇家(後醍醐天皇)から命名。日本語で書く後醍醐の「醍醐」は如来の最上の教えという意味。

"GO-DIE-GO" …行く、死ぬ、そしてまた生きるという不屈・不滅の精神や輪廻の思想を表す。「(バンドを)死ぬまでやろう」という意思。

"GOD-I-EGO" …神とエゴの間に自己が存在する。神のエゴ、すなわち真実。精神と肉体を自分(I)がバランスをとることで心技一体になる。

バンド名にも様々なコンセプトを与えることで、自分たちの目指すバンド像をより強固なものとしていった。

<日本帰国を決意>

74年初頭から、彼らのバンド “フレッシュ&ブラッド” は、マサチューセッツ州のターナーズ・フォールズにあるヒッピーのコミューン(小規模な自治地域)を活動拠点とする。そして現地の “グリーンサム・プロダクション” なるプロダクションと契約。これは現地のコミューン「ルネッサンス・チャーチ・コミュニティ」のリーダー、マイケル・ラパンゼル(マイケル・メテリカ)が設立したプロダクションで、ミッキーとスティーヴは4~5年間の契約を結んでいた。ミッキーは自身のバンドを “ダッチ・ベイカー・バンド(DUTCH BAKER BAND)”と改称して東海岸でクラブ、コンサート、テレビに出演。それと並行して、マイケルのリーダーバンド “ラパンゼル(RAPUNZEL)” にもキーボーディストとしてゲスト参加し、現地でレコーディングも行ったという。なお、同所はコミューンとはいえども音楽設備が充実しており、PA機材やミキシング・コンソール、ツアー用のキャンピングカーなども完備していた程だったという。

なお、マイケルのバンド “ラパンゼル” には、1977年に来日してゴダイゴに参加することになるトミー・スナイダーもドラマーとして参加していた。“ラパンゼル” の前身バンド、“スピリット・イン・フレッシュ(SPIRIT IN FLESH)” からのメンバーであり、71年リリースのアルバムにはヴィブラフォン奏者としてクレジットされている。ミッキー、スティーヴとトミーの邂逅はこの74年初頭の出来事である。ただ、練習で一緒になることはあっても共にバンドを組んでいた訳ではなく、77年のゴダイゴ加入もちょっとした偶然の賜物から起きたことだった。

トミー参加の音源では初のレコード『SPIRIT IN FLESH』(1971、筆者所有)。

ミッキーは前年末にはバークリー音大の履修をほぼ終えており、5月には卒業式を迎えていた。4か月程は「ルネッサンス・チャーチ」を拠点にロードを続けていたが、新バンド始動に向けて日本への帰国を決意する。

“…で、4月頃よく考えてみて、なんか…そこでやっても、ただ自分としての意味がなくなってきたような感じで。そこのボス(筆者註:プロダクションの代表、マイケル・ラパンゼル)に言って「今、どうしても日本に帰って、やってみたいから」って言って、それで許してもらえて。その代り、又、アメリカへ帰って来た時は、そこで世話になるって約束だったの。”

『THE YOUNG MATES MUSIC』1974年11月号 VOL.78 P.10/ヤングメイツ・ミュージック

現地で契約している “グリーンサム・プロダクション” と関係を解消しなかったのは、日本で始動する新バンドがアメリカに進出する段階になった際、アメリカでの拠点として、同プロダクションを想定していたためでもあった。結果的にはミッキーたちの契約期間である78~79年までにアメリカに進出することはなかったため、プロダクションとの契約関係も自然消滅していった。

1975年3~4月に開催された、タケカワのデビューツアーのプログラム。ミッキーが78年まで、スティーヴが79年までグリーンサム・プロダクションと契約している旨が各々のプロフィールに記載されている。

ミッキーは先に日本へ帰国し、スティーヴの受け入れを含めた新バンド結成に向けての基礎固めをすることになる。スティーヴは遅れての来日(家族はテキサスに移住しており、既に日本には生活基盤がなかった)となるが、コミューンで知り合った女性・ミミと結婚してコミューンを脱出、来日するエピソードは彼の自伝『Who am I?』(1996、クレスト社)で詳述されている。

<帰国直後の “ミッキー吉野グループ”>

ミッキーは74年6月に帰国して早々にジョニー野村と再会。ジョニーが一緒に連れてきたタケカワと初めて会った場で、“ゴダイゴ” 構想を含めた帰国以降のビジョンを熱弁したことは第5章(連載15参照)で紹介した通りだ。帰国直後の諸活動については後述するとして、ミッキーは “ゴダイゴ” 構想とは別働隊の “ミッキー吉野グループ” として、国内でのライブ活動を再開する。74年8月4、5、8~10日に、福島県郡山市の開成山公園で開催された野外ロックイベント『郡山ワンステップ・フェスティバル』の、3日目(8月8日)のトリを飾ったのがグループの初ステージ。この時のメンバーが、70年の第1期に次ぐ “第2期ミッキー吉野グループ” と呼ばれるものである。

第2期のメンバーはGSの人気バンド、“ザ・カーナビーツ” のヴォーカリスト&ドラマーを務めたアイ高野を同パートとして起用。カーナビーツ解散後にはザ・ゴールデン・カップスでミッキーと共に活動した旧知の仲だった。当時のミッキーはこう語っている

“彼としても今度でイメージ・チェンジになると思うんです。ちょっとブランクがあったのでまだ本調子がでてないようだけど、ぼくの一番好きなドラムはアイ高野なんです。”

『ニューミュージック・マガジン』1974年11月号 P.37/ニューミュージック・マガジン社

また、ベーシストとして、“つのだ・ひろ&スペースバンド” に参加していた藤井真一。ギタリストはエドワード・リー(連載18参照)の4人。この当時のライブレパートリーはオリジナルとカバー曲が半々の割合で、ハリー・ニルソン「NOBODY CARES ABOUT THE RAILROADS ANYMORE」、ロバータ・フラック「WHEN YOU SMILE」、サーストン・ハリス「LITTLE BITTY PRETTY ONE」といったナンバーをカバーしている。一方でオリジナルは、テリー・シガノス作詞でミッキーの作曲による「PLAY YOUR SONG」「IT’S NICE TO HAVE YOU, BABY」。この2曲はボストン留学中の71~72年にかけて書かれた楽曲である。

『郡山ワンステップ・フェスティバル』出演以降も、同じく8月16日に横浜野外音楽堂で開かれた『DAY DREAM FESTIVAL』、9月18日の渋谷・西武劇場(現パルコ劇場)での「フラッシュ・コンサート 3」でも同様のセットリストでプレイしている。なお、このメンバー編成での活動は、これら3公演のみで終了。「フラッシュ・コンサート 3」直後の雑誌インタビューでは、メンバー(=スティーヴ)が来日しないことには、目指している新バンドは始動できないというミッキーの固い意思が見受けられる。

「先日の “ワンステップ・フェスティバル” にも出たんだけど、まあ顔見せって感じ…。まだまだ、メンバーが来るまでは本格的にはチョット無理だ…っていうより、勿論僕だってネ、いつだって全力投球だけど…。それでもやっぱり、かなり違いますネ。(中略)来年を目標にしているから、 結局1年以上かかる訳ですよネ。そしてメンバーっていうのは、もう4年前からつながりがあって、グループが出来るまで4年かかったんですよ。で、やっぱり今回、かなり時間もかかってんで、なんとしても成功したい。」

『THE YOUNG MATES MUSIC』1974年11月号 VOL.78 P.11/ヤングメイツ・ミュージック


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