『走り去るロマン』に賭けた夢 連載19 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ③
<ミッキー吉野グループに浅野孝已が加入>
地方ツアー終了後の4月、タケカワとミッキー吉野グループは「NHKオーディション」に参加、合格している。これは60~80年代に行われていた、NHKの音楽番組に出演するための非公開の資格審査会で、純邦楽、軽音楽、クラシックを問わずこの審査会に合格する必要があったという。同オーディションの軽音楽部門で「YELLOW CENTER LINE」を演奏したとタケカワが証言している。同月の合格者にはザ・リリーズ、さくらと一郎、JOHNNYS' ジュニア・スペシャルなども名を連ねた。翌月の5月5日に放送された『第1回 ヤング歌の祭典』(NHKホールから録画中継)で、彼らはグループとして初めての音楽番組出演を果たした。
このNHKオーディションの際に、ミッキー吉野グループにギタリストとして初めて参加したのが浅野孝已である。浅野は1951年6月1日、東京・池袋出身。中学入学早々にギター教室に通い始め、4か月目には教室の講師から「キミにはもう教えることがない」と言わしめたのは有名なエピソード。中学時代から “ジュニア・テンプターズ” なるバンドを結成していた早熟ギタリストだった。
1968年、垂水孝道・良道兄弟らが結成したロックバンド “エム(THE M)” に加入。ジャズ喫茶やディスコティーク等で昼・夜・深夜を問わず、ひたすらに演奏活動を行うライブバンドだった。69年ぐらいから新宿の “ニューACB” や、池袋 “ドラム” でミッキーが在籍するザ・ゴールデン・カップスと対バンが組まれるようになる。また、エムが箱バンを務めていたディスコティーク “赤坂チーター” にミッキーが遊びに来て、即興でセッションを行うこともあった。その後もニューロックの雄として、72年2月にシングル「時は今ここに」、アルバム『エムⅠ』をリリースするものの、同年秋にエムは解散する。
ミッキーがボストンから帰国した際に、新バンドの構想として浅野をギタリストに誘うプランもあった。だが、当時の浅野は73年9月にレコードデビューしたバンド “チャコとヘルス・エンジェル”(以下、チャコヘル)に在籍中。チャコヘルは当時15歳のチャコこと田中まさゆき、18歳の天本健をフロントに据えて、リーダーの牧勉や浅野たちが脇を固める、いわゆるアイドルバンドだった。ミッキーが来日したスティーヴを連れてチャコヘルのステージを観た後に、楽屋の浅野を訪れて勧誘したものの、「今のバンドで満足しているから」と断られたため、タケカワのツアーにはエドワード・リーがサポートとして参加した経緯がある。しかしこの時、ミッキーは「(ギタリストの座は)空けておくから、都合つく時になったら電話ちょうだい」と浅野に伝え、そして浅野もまた、チャコヘルとの契約更新の時期をそれとなく二人に教えていた。
その更新時期にあたるのが、NHKオーディションのあった75年4月。浅野が内緒でオーディションに参加したことは、所属事務所のベルキャット音楽産業にもバレてしまったという。だが、チャコヘル自体もシングル5枚、アルバム3枚をリリースしていたものの、セールス的には芳しくない状況が続いて、バンド解散の瀬戸際だった。浅野はミッキーに「ギタリスト、まだ空いてる?」と電話し、ミッキーも快諾。結局はオーディション直後、同年4月29日に日比谷野音で行われた野外ジョイントライブ「ヤングフェスティバル」(他に “イエロー”、“クロニクル”も出演)を最後に、チャコヘルはバンドとしての活動を休止、解散となった。
チャコヘル解散の4日前、タケカワのツアー最終日の、渋谷公会堂公演で浅野が合流することになる。NHKオーディションの前に、渋谷公演のリハーサルも兼ねて横浜のスタジオで行った音合わせ1回だけで、全20曲を覚えてきたというのは有名なエピソードだ。
<渋谷公会堂を満員に!>
地方での観客動員面では散々だったツアーだったが、浅野が合流した4月25日の渋谷公会堂公演は唯一、満員を記録。前述した、アマチュア時代のワンマン公演『TRECNOC』のように、スタッフが手売りでチケットを売り捌き、公称2,300人収容の会場を埋めることが出来た。
当日のステージ音源は現存していた6曲、「YELLOW CENTER LINE」「NIGHT TIME」「LUCKY JOE」「MAKING MY WAY」「THE HUDDLE」「HAPPINESS」のみ、2017年にリリースされたCD『PASSING PICTURES BOX』に収録されている。現在もなおゴダイゴのステージ音響・演出を担当している、綜合舞台の代表・西尾榮男が渋谷公演を担当していたため、音源が保管されていたという。当日の詳細なセットリストは不明だが、アルバムから7曲と「SUITE : GENESIS」等の未発表4曲を含めた11曲、約1時間半のステージだったようだ。これらのライブ音源には、アルバムでフィーチャーされていたストリングスやホーンセクションの生演奏がない代わりに、ミッキーのオルガンやシンセのソロが前面に出た演奏となっており、後に結成する “ゴダイゴ” を予見させるサウンドになっている。
『ライトミュージック』75年6月号では、渋谷公演の模様をこのように紹介していた。
その一方で、『ニューミュージック・マガジン』6月号の同公演レビューでは、このような意見もあった。一読すると辛辣な評価でありながら、所々で核心を突いた論評である。
タケカワが過去の『TRECNOC』コンサートの経験で、MCを殆ど喋らなくなったという(連載08参照)側面もあるが、公演の全編を通してすべて英語詞の楽曲を歌うのに対して、いち観客として戸惑いを感じたというレビュー。「日本人による洋楽曲」を歌うアーティストに対して、共通言語である日本語で、流行りのフォークソングのようなメッセージ性を同じように求めるのはナンセンスなように思われるが、単純に違和感を感じる観客がいたのも事実であろう。ただ、バンドのアレンジに関しては、タケカワにとって本格的なロックバンドをバックに従えた初めてのツアーであった点、そしてミッキー吉野グループの側にもハードロック志向があった点で、タケカワのポップさと融合しきれていない面もあったのかもしれない。
<ツアーを終えての、タケカワとミッキーの想い>
渋谷公演で成功を収めて、終わり良ければすべて良し…という訳ではなく、「日本人による洋楽」の売り出しの難しさを痛感させられたのがこのデビューツアーだった。地方都市での不入りについて、タケカワは後年のインタビューでこう答えている。
ブレイク後の1980年に採録されたインタビューだが、デビュー当時は自身に集客力・知名度がないことを認識しながらも、自分の音楽の価値がない訳では決してない、とポジティブに捉えていたことだけは確かである。
反対に、ミッキーの方は地方ツアーでの不入りについては「ショックだった」と振り返っている。会場の大小はあれど、カップス在籍時にこのような不入りを経験したことはなく、このツアーでの教訓として、後にゴダイゴがデビューしてからは「知名度が上がるまではワンマンでコンサートは開催しない」という活動方針に繋がっている(ゴダイゴの初ワンマンはデビュー2年後の78年3月27日、九段会館)。その根底には「バンドを組むからには、売れなければダメ」との強い想いがあった。
ただ、この状況を変えなければいけない、という想いは決して失ってはいなかった。
タケカワとミッキー、二人はそれぞれ、前を向いて進もうとしていた。その二つの道が完全にひとつに繋がるのは、まだ少し先の話だった。
※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
※無断転載禁止
前後のエピソードはコチラから!