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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載17 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ①

<75年元日、デビューシングル発売>

1975年1月1日、日本コロムビアよりタケカワのデビューシングル「走り去るロマン」(YK-2-AX/600円)が、アルバムからのシングルカットで先行リリースされた。

デビューシングル「走り去るロマン(PASSING PICTURES)/夜の都会(NIGHT TIME)」

このシングル盤の価格について触れておきたい。73年秋以降の第一次オイルショックによる原材料、制作コストの高騰に対処するため、73年末から74年前半にかけてレコード各社はLP盤の値上げに追い込まれたが、各社は7インチシングル盤の大多数を500円のまま、価格を据え置きしてきた。当時の国内レコード市場がLP盤へ移行しつつあったのと、シングル盤の購買層がヤング層であったのがその理由。例外的に、クラウンレコードのみシングル盤を600円に移行していたが、日本コロムビア洋楽部も74年12月1日発売の新譜(グラディス・ナイト&ザ・ピップス「アイ・フィール・ア・ソング」)から600円へ値上げを断行した。なお、同社文芸部(邦人歌謡曲・演歌の部署)の新譜シングル盤は76年春頃までは500円で継続していたらしい。

当然、同社洋楽部から発売のシングル「走り去るロマン」も600円の価格設定となっている。大手の芸能事務所の肝入りや、ヤマハのコンテスト大賞受賞者でもない、いわば無名のシンガー・ソングライターのデビュー盤が、他の大多数のシングル盤がまだ500円だった中で600円なのは売上面でそれ相応のハンディキャップだったと思われる。

<アルバムリリース前後の広告・記事掲載>

続いて1月25日にLP盤のアルバム『走り去るロマン』(YQ-7022-AX/2,300円)もリリースされた。LP盤についても、コロムビア洋楽部では2,300円から2,500円への値上げの動きが一部作品で進んでいたが、『走り去るロマン』は2,300円で据え置かれていた。

デビューアルバム『走り去るロマン』最初期盤ジャケット。自転車のバックミラーのフレーム内に写る、タケカワの顔がフレーム内ギリギリまでズームインしており、本人が「顔が大きくてはちきれそう」とクレームをつけたという。

※上のプレビューリンクは79年再々販盤の収録内容に準ずるため、「HAPPINESS(ぼくらの幸せ)」のみ別バージョンを収録。

アルバムリリースに合わせて、コロムビアの広告出稿と、各種音楽雑誌へのパブリシティで露出を増やしている。

広告は洋楽部としての出稿で、1~2ページ内に複数の洋楽アーティストの新譜アルバムを紹介していたが、新人ながらも『走り去るロマン』にも大きくスペースを割いていた。
『レコード・マンスリー』(日本レコード振興)2~4月号(前月15日発売)
『ニューミュージック・マガジン』(ニューミュージック・マガジン社)2~6月号
『ミュージック・ライフ』(新興楽譜出版社)2~4月号(前月20日発売)

アルバムリリース直前に出稿の広告では、こんな誤植も…
これもアルバムリリース直前と思われる、75年1月出稿分。
アルバムリリース直後の75年2月出稿分。
デビューツアー開始前、3月分の広告。カセット版の発売(75年4月25日)告知も追加しているが、現物は確認できていない。

併せて、アルバム発売前後から各種雑誌においてパブリシティが展開された。
『ライトミュージック』(ヤマハ音楽振興会)2月号
…「BRIGHTEST HOPE OF JAPANESE POP 武川行秀、浜田良美」
『GORO』(小学館)2月13日号
…「ニューミュージック人間登場 ビートルズ狂いがついにレコードを作るまで 竹川行秀」 ※原文ママ
『ローリングストーン』日本版(ローリングストーンジャパン)2月号
…「武川行秀 走り去るロマンを追いかける男」
『週刊FM』(音楽之友社)2月17日号
…「ヤングスパーク すんなり素直に“日本”を脱けて タケカワユキヒデ」
『週刊プレイボーイ』(集英社)3月18日号
…「“若者時代”をリードするニューブリード派の旗手たち タケカワユキヒデ ビートルズ狂いからの出発」
『映画情報』(国際情報社)4月号
…「スポットライトを浴びたひと:海外進出の期待の星 タケカワユキヒデ」
『新譜ジャーナル』(自由国民社)5月号
…「フレッシュ・ルポ スケールのデッカイ本格派 武川行秀/今月のうた(楽譜)"PASSING PICTURES"」

その他にも、『週刊ポスト』『サンデー毎日』といった一般週刊誌や、芸能誌『明星』『平凡』の付録歌本にも掲載された。

デビュー後も多くの雑誌でパブリシティを展開。

内容的にはタケカワの基本的なプロフィールが並ぶ。「全曲英語詞のデビューアルバム」「英語詞で作曲し、歌うシンガー・ソングライター」「東京外国語大学の学生」「ベートーベン研究家の父と鈴木バイオリンの家系の母」あたりはほぼ共通しているが、いくつかの媒体ではさらにビートルズの話題も絡んでくる。その内容を列挙してみたい。

●日本人で好きなミュージシャン、誰かいる?
「いないな。」
●じゃ、あちらのミュージシャンでは?
「困ったな。言いたくないんです。名前をあげることはできるけど、そうすると、やたらとアーダ、コーダと比較されるでしょ。あいつのどこをとったとかね。気分悪いもん。」

『ローリングストーン』日本版 1975年2月号 P.90/ローリングストーンジャパン

「クラシックは性に合わず、親も愛想をつかしたらしい。中学に入ってギター、ベースをおぼえ、バンドを作ってビートルズのコピーばかりやったんですよ。徹底的なビートルズ狂い、レパートリーが100曲ぐらいあったかなあ。その頃からヘッタクソな英語で作詞作曲をやりはじめ、これがまた100曲ほど。とにかくガキの頃から歌といえば、ソク英語だったね。」 

『週刊プレイボーイ』1975年3月18日号 P.147/集英社

“アルバムについては「自分の持っている、いろんな面を出してみたかった」ということだから「ポール・マッカートニーに似ているといわれるけれど、別に意識はしていません。ビートルズは大好きだったから、そんなこともあるかもしれないなあ」といたって素直。” 

『新譜ジャーナル』1975年5月号 P.2/自由国民社

LP盤ジャケットの帯にも「失なわれたビートルズ神話を求めて、青年は世界へはばたく!!」とのキャッチコピーが載っていたが、当の本人としてはやや反発を覚えるかのような部分もあるようなコメントが興味深い。また、ビートルズ絡みでは『ニューミュージック・マガジン』75年4月号の巻頭特集「ビートルズ75」で、タケカワは「なんでもやっちゃうフシギな人、ポール」とのタイトルのコラムを、初めて寄稿している。

デビュー記事の中から、彼のメッセージをひとつ紹介しておきたい。

“ぼくは自分の歌をロックだと決めつけたくない。ロックそのものが、まだこういうものだと、はっきりしているわけじゃないし。あと10年か20年もたったら、その時代の人が決めてくれるだろうと思う。とにかく、心地いい音楽をぼくは創り続けていきたいし、映画音楽だって、なんだってやりたい。スターになることより、ぼくの歌をひとりでも多くの人に聴いてもらうことのほうが、ぼくには重要だ。”

『GORO』1975年2月13日号 P.119/小学館

単に英語で歌うことが “ロック” というジャンル分けにされがちなこの時代で、ロックというジャンルを抜け出た、新たな音楽を創ろうという意識が見えるメッセージではないだろうか。

<レコードの売上結果は…不発>

肝心のレコード売上だが、タケカワが当時を述懐して「レコードを出したら一生安泰だと思ったんですけど、全然違いました」と言うように、セールス的には決して芳しいとは言えない結果となった。中には新宿・紀伊國屋書店本店2階のレコード店「帝都無線」のように、LP盤の売上ランキングが8位(2月1日付)から2位(2月15日付)まで急上昇した、局地的な好セールスもあったものの、チャート誌のトップ100に入るレベルではなかった。

日本コロムビア洋楽部の清水ディレクターも、1980年のインタビューでこう証言している。

「プロモーションも大規模にやったね。半期で1千500万円くらいの広告宣伝費があるうち1千万円を 『走り去るロマン』 につぎこんじゃってね、ものすごい話題になったんだけど、レコードの方はさっぱり売れなかった(笑)」

ゴダイゴ・ファンクラブ会報 第18号 P.15/1980 ジーピーエス

<シングルとアルバムのチャートアクション>

日本国内において、音楽ソフトのチャートアクションといえば “オリコンチャート” (以下オリコン)が有名である。遡ればその始まりは1967年に創刊された業界誌『総合芸能市場調査』からであり、翌68年にシングル盤、70年からはLP盤も併せた週間チャート発表を開始している。現在のように販売店のPOSシステムがない70年代においては、特約の販売店での売上枚数(一説には出荷枚数ともされる)を毎週月曜ごとに集計した結果であり、定点観測的にソフトの順位推移・累計枚数を俯瞰するには、オリコンは有効なデータベースであった。

1975年当時のオリコンは、『総合芸能市場調査』から改称した『週刊コンフィデンス』に掲載されており、シングルチャートは「CONFIDENCE HOT 100」、アルバムチャートは「CONFIDENCE TOP LP 100」としてそれぞれトップ100までを発表。“得点” に10を掛けた数字が売上枚数として、現在もその順位と枚数が記録として残されている。ただし、100位圏外の作品については売上枚数は累計にカウントされていない。シングル・アルバムの売行きパターンとして、例えば100位圏外でじわじわと売れ続けるロングセラーのものもあり、オリコンに記録される累計の枚数と実際の販売枚数に差異が生じるのが難点である。

結果から言えば、オリコンにおいてシングル「走り去るロマン」は100位圏内にランクインすることがなかったため、売上枚数は記録されていない。同様に、アルバムの『走り去るロマン』も、1975年の初盤は100位圏内にランクインしていない。現在の『走り去るロマン』のオリコン記録として残されている「LPチャート最高位16位/売上数64,260枚」という数字は、1978年2月リリースの再販盤(ゴダイゴのブレイク以降の1979年2月26日が初ランクイン)と、ゴダイゴ演奏によるリメイク版「ハピネス」を差し替えた翌79年5月の再々販盤を合算した記録となる。

左:78年2月25日リリースの再販盤。オリコンLPチャート最高位50位。
右:79年5月25日リリースの再々販盤。同LPチャート最高位16位。

しかしながら、70年代にはオリコン以外にも毎週のレコードチャートを発表する業界誌(紙)が存在していた。『週刊ミュージック・ラボ』(連載16参照)、『週刊ミュージック・リサーチ』(72年創刊~90年休刊)がそれで、前者はシングルがトップ200、LPがトップ150までを掲載。後者はシングル・LP共にトップ20まで掲載していた。その『週刊ミュージック・ラボ』のLPチャート "Music Labo HOT 150 ALBUMS" における、『走り去るロマン』初盤のチャートアクションは以下の通りである。

1975年3月17日号…124位 ※初登場
→ 3月24日号…117位
→ 3月31日号…141位 ※翌週以降は150位圏外のため記録なし

"Music Labo HOT 150 ALBUMS" には3週ランクイン。

確かにオリコンと同様に100位圏外ではあるが、無名のシンガーソングライターによるデビュー盤、なおかつ洋楽の新譜LPとして150位以内にはランクインしていたのは大健闘といえよう。しかもリリースの2か月近く後のランクインというのも興味深い。ちょうどタケカワのデビューツアーが3月17日の京都・拾得から開始するタイミングで、出荷量・販促を強化したのではないだろうか。もしくは、アルバムのジャケットデザインを一部修正した修正盤を追加出荷したタイミングが、この3月頃だったのかもしれない。

『走り去るロマン』75年ジャケット修正盤。前述の最初期ジャケ写の顔写真もズームアウト。タイトルの文字色、背景の他、裏ジャケのクレジットにおける誤植も修正されている。

なお、先行シングルの「走り去るロマン」については、『ミュージック・ラボ』のシングルチャート "HOT 101-200 SINGLES"、つまり200位圏内でもチャートインは果たせなかった。

<音楽雑誌のアルバム・レビューでの評価>

アルバム『走り去るロマン』の売上という面では、トップ100圏内には到達しなかったが、内容的にはどう評価されていたのだろうか。ここで音楽雑誌のアルバムレビューをいくつか紹介したい。まずはタケカワの高校時代から縁のある『ライトミュージック』から。

ちょっとユニークなシンガー=ソングライターがデビューした。この武川のアルバムは全曲英語詞で歌われている。これを書いたのは彼自身でもあり、彼は現在、東京外語大・英米語学科の3年生。横浜国大から編入したのだが、その目的が英語詞が書きたかったからというから徹している。アルバムに針をおとすと、洋盤を聴いているような気分になってしまう。サウンド造りも “ダーク・ホース” レーベルのサウンドに似ていて、かなりウェスト・コーストだからだ。ミュージシャンは松木恒彦、石川鷹彦、深町純、村岡建といった日本のメンバーたちで純国産ポップスである。このアルバムもサディスティック・ ミカ・バンドのように海外へのデモンストレーションを狙った面を持っている。

『ライトミュージック』1975年2月号 P.104/ヤマハ音楽振興会

洋楽中心の『ニューミュージック・マガジン』のレビューでも、好評を得ている。

89(点) 走り去るロマン
武川行秀 ― 新人である。彼のデモ・テープを聴いたのは1年ばかり前だったと思う。当時から少なからず興味を持っていたぼくには、やっと手にするデビュー・アルバムである。日本のポップスを海外に―日本の業界に長年あったこの願望を担って登場した彼の音楽には、確かに和製ポップスなる甘っチョロイ言葉を超越した才能が閃く。問題は海外のレコード業界の反応(むしろここが最大のネック)だが、武川の場合は既に2、3あるそうだ。日本もオール英語詞のアルバムが出る時代を迎えたのだ。これは冒険ではなく、反面その時代の到来を意味する。A④を中心にA面のほうが説得力ある。 

『ニューミュージック・マガジン』1975年2月号 P.142/ニューミュージック・マガジン社

だが、『ミュージック・ライフ』ではこういった批評もあった。「全曲に対して全く同じアレンジ」では決してないのだが、タケカワがアルバム制作の過程でアレンジをひとりで抱え込んで苦心していた経緯を考えると、痛いところを突いた批評ともいえよう。

大型新人として登場した武川行秀のデビュー盤。全曲英語で歌われ完全に海外進出を目的として創られていることに、まず注目したい。そして結果から先にいえば、その狙いの半分は成功しているといえるだろう。曲創りは充分に、アカ抜けているし、歌い振りもそれなりのスケールを感じさせる。
しかし、あえていえばアレンジ面で問題が残っており、特にストリングスの使い方には、まだまだ考える余地がありそうだ。例えば “ぼくのドリーム” や “ラッキー・ジョー” などという曲は、もう少しリズムの方を前面に出しても良かったように思う。収められている全曲に対して、全く同じアレンジがされ、同じポリシーで作られていることが、このアルバムを平板な印象にしてしまっているのだ。素質があると思わせるだけに、その辺が残念な所である。

『ミュージック・ライフ』1975年1月号 P.183/新興楽譜出版社


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