見出し画像

『走り去るロマン』に賭けた夢 連載21 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第7章 CMソング編 1975~76年 ②

<初採用のCMソング「アンクル・ジョン」「スマイル」>

75年夏、レビュー・ジャパンにCMソングを依頼したのは、CM音楽の制作会社である成和アングル。後に1977年の資生堂キャンペーンソングで尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」を手掛けて、音楽業界のCMタイアップブームの先駆者となる。同社がフォークやロック系のアーティストをCMソングに起用したのは、ナショナルのBCLラジオ「GXOワールド・ボーイ」(1972)における、かまやつひろし「近頃のネコ」が初めてで、その次に声を掛けたのがタケカワということらしい。

その成和アングルから依頼された案件は、国産ジーンズメーカー “ビッグ・ジョン” のCMで、ブルージーンズ用、ボーイズ向けジーンズ用、そしてカラージーンズ用の3パターンのプレゼンテーションを求められた。実はビッグ・ジョンのCMソング依頼はこれが初めてではなかった。前年74年の同社CMソングはジョン・デンバーの「太陽を背にうけて(SUNSHINE ON MY SHOULDERS)」を使用していたが、その時のコンペでもう1曲の候補の作詞が奈良橋陽子だった縁で、タケカワはそのコンペ曲の仮歌を入れるも、結局は「太陽を~」が採用となる。いわば、1年越しのリベンジ案件だった。

いかにもアメリカのヒット曲っぽく、なおかつ従来の英語詞で制作されたCMソング、例えばジェリー・ウォレス「マンダム~男の世界」(1970、チャールズ・ブロンソンがCF出演)みたいな楽曲よりもモダンな感じが欲しい、というのがクライアントの要望だった。また、英語詞の制作もタケカワ側に求められ、その同じ詞で成和アングル所属の作曲家・梅垣達志も曲を3パターン作曲し、コンペを行うこととなった。

タケカワは早速、奈良橋に作詞を依頼しようとしたが、ここでひとつ問題が起きる。奈良橋とコンタクトを取ろうにも連絡がつかなくなっていた。プロデューサーのジョニー野村に訊くと、奈良橋は夏休みで軽井沢にある実家の別荘に行っており、しかもその別荘には電話が引いてないため、夫のジョニーですら連絡の手段がまったくないという。3日間で詞を仕上げてから2日間で曲を提出するスケジュールを予定していたが、これでは詞の提出期限に間に合わない。タケカワは旧友の小山條二(小山ジョージ)に電話を入れた。「大変なことになった。俺たちでCM用の詞を3つ書かなきゃいけない。徹夜覚悟でウチに来てくれ」と連絡。その夜一晩で一気に詞を書こうと自宅に小山を呼んだ。

自宅で小山を待つ間に、共通の旧友である山口泰孝がもう一人の友人を連れて、タケカワの自宅を訪れてきた。「これから條二と二人で作詞しなきゃいけないんだ!」と山口に忠告しながらも、タケカワも一緒になってビールを飲んでしまう始末。やがて小山も到着し、深夜23時から作詞作業がスタートする。とにかく時間がないため、二人で別々に短い詞を書いて、お互いにチェックと修正を行い、また新たに詞を作る工程を繰り返した。特にこの案件では、15秒や30秒の長さのCMソングではなく、独立した1曲をCMに使いたいとの注文だったので、曲の構成も視野に入れて作詞しなければならなかった。

深夜にタケカワと小山が作詞で苦戦する中、山口たちは漫画雑誌を読んだり、トランプで遊んだりと邪魔になることばかり。深夜3時頃になり、タケカワも疲れ切って横になった頃、ふと山口が口を挟んだ。
「何のCM? え、ビッグジョン? じゃあ、"UNCLE JOHN" ってのはどう? いかにも陽気なヤンキーおじさんって感じで、いい歳して古いジーンズがよく似合う…」
さらに山口が奇声を上げた。

「アンクル・ジョン・イズ・ビッグ・ライフ・ジョン。ビッグ・ジョン・イズ・アンクル・ライフ・ジョン。ワハハハハハハハ」(中略)
そして、そのとたん、
「おい、それもらったぞ、オレ、本気だぞ!!」って相手にしてないのに、一人で、真剣に、叫んでたっていう訳なんだ。

『ローリングストーン』日本版 1975年12月号 P.90/ローリングストーンジャパン

山口のその奇声に、タケカワは思わず絶叫した。“アンクル・ジョン” というフレーズに、なんとなくタケカワ自身が思い描いていた、書いてみたかった詞のイメージとピッタリ重なり合った瞬間だった。あっという間に出だしの "Uncle John is big like a mountain" のフレーズが生まれ、以降の詞をタケカワが仕上げた。タケカワが「UNCLE JOHN」を完成させてしばらく後に、小山も「SMILE」「JUST TO FLY」の詞を書き上げた。

徹夜明けの日中、3つの詞を提出した際にコンペ相手の梅垣と初めて会う。梅垣とは2時間も話し込むほど意気投合。梅垣は『走り去るロマン』リリース当時からタケカワの事を注目していたという。コンペはタケカワと梅垣で3曲ずつ作曲し、その結果としてボーイズ向けジーンズ用のCMソングに「UNCLE JOHN」、カラージーンズ用に「SMILE」が採用される。楽曲としてはタケカワがいちばん自信のあった「JUST TO FLY」は不採用となり、小山の作詞したその詞を元に梅垣が作曲した楽曲がブルージーンズ用のCMソングに採用された。

CMの歌入れは2曲合わせて2時間程度で終了。それまで、デビューアルバム収録の楽曲など、レコーディングの所要時間が長いのに慣れ切ったタケカワは、30秒程度の歌入れに対し「間違えるヒマがない」と当時のコラムで感想を綴っている。最後にスタジオでテレビCF用の映像を大きいスクリーンに上映し、楽曲と合っているかを最終チェックした。

「UNCLE JOHN」と「SMILE」は改めてフルサイズでレコーディングを行い、秋のビッグジョン展示会で発表。この2曲を収めた7インチシングルは、75年11月10日にタケカワの3作目のシングルとしてリリースされた。テレビCFはTBS系列『月曜ロードショー』(月曜21:00~)の番組スポンサーだったため、番組のタイムCMとしてオンエア。笑顔で走ってくるキッズたちを描いた "Boys & Teens" 編と、キャンパスライフをエンジョイする学生たちの "COLOR Jeans" 編は、それぞれの商品ターゲット層を映像で明確に表していた。

タケカワの3rdシングル「アンクル・ジョン(UNCLE JOHN)/スマイル(SMILE)」。ゴダイゴとして78年1月にリリースした『CMソング・グラフィティ』には2曲共に、このシングル盤のバージョンが収録されている。

また、"UNCLE JOHN" というキーワードから、広告代理店が「大いなる男の物語 ヒゲづらのアンクル・ジョン 力強くてたくましいビッグな男」なる広告コンセプトを打ち出し、オーバーオール(サロペット)を履いた大柄な農夫のイラストイメージを作成。テレビCFオンエア前の9月20日から、そのイラストをメインモチーフにした紙媒体広告の出稿や、店頭POP・看板での販促を展開した。山口のふとした閃きが、広告イメージにまで発展していたとは、タケカワたちも聞かされていなかったという。

“アンクル・ジョン” のイメージイラストを全面に押し出した、ビッグ・ジョンの紙媒体広告。前述のシングル盤のジャケットにも描かれている。

<不採用曲から生まれた「イン・ユア・アイズ」>

ビッグジョンで不採用となった1曲「JUST TO FLY」(“デモシリーズ” VOL.2収録)だが、同じく成和アングルから新たな案件を後日持ちかけられる。「以前、ビッグジョンのときに作った "JUST TO FLY" みたいな曲で」というオファーを受けて制作し、採用されたのが、アパレルメーカー・三陽商会の “サンヨーコート” CMソング「FASHION HOUSE SANYO」。同曲と「JUST TO FLY」を聴き比べると、それぞれの歌い出しにメロディの共通性が感じられる。のちにゴダイゴ結成後にCMソングを集めたコンピレーションアルバム『CMソング・グラフィティ』(1978年1月15日リリース)では曲の終盤の歌詞を替えた別テイクを収録。それが「IN YOUR EYES」である。

「FASHION HOUSE SANYO」はラジオCMでオンエアされ、これが収録された販促用の非売品7インチシングル『サンヨーBGM特集』も制作された。なお、シングルのB面はこれまた梅垣達志による「サンヨー "Goodly"」を収録している(オーストリア出身の作詞家、マルコ・ブルーノがA・B面曲とも作詞を担当)。

非売品シングル『サンヨーBGM特集』。「FASHION HOUSE SANYO」は、楽曲終盤の歌詞変更以外は、「IN YOUR EYES」とアレンジ含め同内容である。

<アグネス・ラムのブレイク直前「スプリンター・リフトバック」>

レビュー・ジャパンは75年秋に社屋を移転し、法人名も親会社の“MCAミュージック” に改称する。そんな中で国内大手クライアントのCM案件を受けることになる。トヨタ自動車の“スプリンターリフトバック” で、スプリンタークーペにリアゲートを加えた3ドアタイプの76年向け新製品。リアゲートに大きなスクエアカットのガラスウインドウがある形状から、光が射す “サンデッキ” に例えられた。夏に向けてのテレビCFには俳優の近藤正臣と、この頃は人気ブレイク間近だったモデルのアグネス・ラムが出演した。

作曲に先がけてタケカワは「詞の内容は空にまで手が届きそうな、広大なイメージで。曲もそうしてほしい」とCMプランナー側から伝えられたという。ここでタケカワが制作したデモは2曲。CMソングに採用された「SPRINTER LIFTBACK」(当初のタイトルは「TRAVELLING ON A SUNDECK」)と、採用に至らなかった「CATCH THE SUN」。後者はスタイリスティックスばりのファルセット・ヴォーカルを効かせたメロウ・ナンバーで、不採用が惜しい佳曲だった。

レコーディングの頃には既にゴダイゴ結成が既定路線であり、アレンジもミッキー吉野が担当。ヴォーカル録りは、テレビ・ラジオの各CM音源用に13パターンを4時間かけてレコーディング。テイクは78回にも及んだ。また、「FASHION HOUSE SANYO」と同様に、76年4月から販促用の非売品7インチシングルも頒布されている。なお、この販促用シングルのジャケットは三つ折りでアグネス・ラムのカラーピンナップも付属しており、現在も往年の彼女のファンにとってちょっとしたコレクターアイテムとなっている。

販促用の非売品シングル「TRAVELLING ON A SUNDECK」(1976年4月)。B面は歌メロをサックスに置き換えたインストルメンタル。ゴダイゴ結成時のメンバーで録音されており、トミー・スナイダー加入後に再録音された『CMソング・グラフィティ』収録版(下記Spotifyリンク)とはバージョンが異なる。

なお、翌77年にはCFモデルがステファニー・ボージェスに変更。CMソングもジョージ・ハリスンの "DARK HORSE" レーベル所属のイギリスのデュオ、スプリンターが歌う新バージョンとなっている。余談だが、同バージョンは「SUN SHINE ON ME」と改題し、歌詞も一部変更している。77年のCMが新登場のハードトップモデルをメインに、セダン、クーペ、リフトバックを含めた全ラインナップのアピールだったことも、変更の一因といえよう。

1977年2月リリースのスプリンター「SUN SHINE ON ME」シングル盤。クレジット記載はないが新アレンジで、ゴダイゴが演奏している。

<世界のポップスターを蹴落とした?「僕のサラダガール」>

1975年末、カネボウ化粧品のキャンペーンソング制作の依頼がMCAミュージックに来る。ただし、そのCMソングを歌うアーティスト候補の順番は三番目だと、タケカワは年明けにスタッフから聞かされることになる。
「三番目? 採用される見込みなんてないじゃないですか?」
「いや、確実に見込みがある。一番目の候補がポール・マッカートニー、二番目がエルトン・ジョン。そして三番目がキミだからだ。制作予算的にも間違いなくキミに決まると思うよ。」

この案件でも成和アングルが制作を担当。また音楽評論家の立川直樹がタケカワの起用を推薦したという。同じカネボウの1シーズン前のCMソング(76年春季キャンペーンソング)はオランダ出身のフレンチポップシンガー、デイヴの歌う「ギンザ・レッド・ウィウィ」。この曲も作曲が佐藤健、編曲が大野雄二といった “日本製フレンチポップ”。前述した “洋楽ヒット曲風” のCMソングの潮流に乗って、タケカワが選ばれる運びとなった。

デイヴ「ギンザ・レッド・ウィウィ」シングル盤(1976年2月1日リリース)。コンフィデンス(オリコン)シングルチャートで最高位30位、8.5万枚を記録。

76年夏季キャンペーンは4月21日から8月15日までの117日間を予定しており、西ドイツ(当時)ハンブルク出身の16歳のモデル、レジナ・コニーゴが広告・テレビCFに出演。キャンペーン開始前の4月2日から6日には、プレイベントとして「サラダガール・イン・日比谷」が東京・有楽町の日比谷映画街(現・日比谷仲通り)の歩行者天国で行われた。また、8月2日にはカネボウと東宝の共催で「ミス・サラダガール・コンテスト」を開催し、優勝者の古手川祐子と準優勝者の名取裕子は東宝芸能から女優としてデビューしている。

"SALAD GIRL" というキーワードについては、カネボウの当時の販促パンフレットにこう説明されている。

「夏になるとなぜか心がはずんでくる。じっとしていられないような不思議な気分になる。そんなあなたに、すてきなニックネームをプレゼント。サラダのような女のコ、サラダガール!(中略)サラダのように健康で、サラダのようにみずみずしい女のコになりましょう! それが、この夏カネボウ化粧品からの提案です」
「この夏は、メイクしているのかいないのか分らないほどにナチュラルなメイクアップをしたい。だいじなのは、肌の美しさを生かすこと。クリーンでフレッシュな健康感を表現できれば、それがサラダガール!」

『SCRAPBOOK OF NEW SUMMER LIFE SALAD GIRL』PP.1-2、13/1976 カネボウ化粧品

CMソングゆえに、キーワードありきで詞を作るにあたり、奈良橋には和製英語の “サラダガール” というコンセプトがイメージできなかったという。想像するのは耳からニンジンを生やし、鼻がセロリに変わってしまう女の子の姿。「新鮮な女性はドレッシングをかけられたりしないわよ」と奈良橋は首を傾げたが、発想を変えて朝起きたての女性をイメージして、ようやく詞を完成させた。

タケカワがデモ段階で作曲した、3パターンの音源はCD “デモシリーズ” VOL.2に収録されている。不採用となった「Another Version Type 1」「同 Type 2」から、奈良橋が作った詞も2パターン用意されていたことが窺える。タケカワの回想では、2日間の制作期間で3曲のデモを提出したとある。

なお第8章で後述するが、76年1月の時点でミッキー吉野グループと本格的に合流=新バンド “ゴダイゴ” 結成の意向でプロジェクトを進行することが決定しており、「サラダガール」制作の話を聞かされたのも、“ゴダイゴ” のメンバーとして初めて集まった時だった。そのままゴダイゴのデビューと歩調を合わせる形で楽曲を制作することになる。

ちなみに、日本コロムビアが作成したゴダイゴのレコードデビュー時の販促資料にも、タケカワ起用の経緯が書かれている。先述のエピソードと比べてみてもらいたい。

<ポール・マッカートニーを、そしてエルトン・ジョンを蹴落したタケカワ!!>
 サントリーのサミー・デイビスジュニア、コカ・コーラのグレン・キャンベル…と、枚挙のいとまもないほど、日本の企業は自社のCMに外人アーチストを使っている。タレントとして画面に出る者もあれば, 歌手として歌声を聞かせる者もありといった具合に、そのケースも千差万別。とにかく、最近ではビートルズのリンゴ・スターまで登場し、外人アーチストのかつぎ出しは、それこそ一種の流行のようにさえなっている。
 こんな現象に “待った!” をかけた1人の若きシンガー・ソングライターがいる。その名はタケカワユキヒデ。昨年1月に「走り去るロマン」と題されたアルバムでレコードデビューし、特に関係者筋の間では抜群の評価を受けた、23才になるアーチストだが、この夏のカネボウ化粧品のキャンペーンのCM音楽を一切まかされ、大変な話題になっている。
 昨年秋にはアラン・シャンフォーの歌う「ボンジュール、お目々さん」で、またこの春には現在フランスで圧倒的な人気を持つデイヴの歌う「ギンザ・レッド・ウィウィ」でヒットパレード戦線をかき回したカネボウの夏のキャンペーン。今回は、前2回以上に強力なものをうち出そうと, 音楽担当の候補にあがったのも、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、カーペンターズ、ミッシェル・ポルナレフ、オリビア・ニュートン・ジョン…そしてポール・アンカとスーパースターばかりだったが、関係者の1人が会議の席上、持ち出してターンテーブルにのせたタケカワのシングルが大受け、誰も日本人アーチストとは気づかず満場一致で「これでいこう!」ということになってしまった。
  こんな理由から、全ての交渉は途中で打ち切り。申し出を受けたタケカワも快く承知、異例のオーディション・テープなしで仕事が決まってしまった。まさに“次代のスーパースター”タケならではのエピソードだろう。

『GODIEGO』デビュー販促資料 P.4/1976 日本コロムビア


※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
※無断転載禁止
前後のエピソードはコチラから!