『走り去るロマン』に賭けた夢 連載20 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第7章 CMソング編 1975~76年 ①
<コラボ活動は一時中断>
タケカワとミッキー吉野グループは満員の盛況に終わった渋谷公演(4月25日)の後も、引き続き東大阪(4月27日/ミュージックハウス永和)、名古屋(4月29日/愛知県中小企業センター講堂)で小規模のライブを行った。その後はテレビ、ラジオ等への出演が続く。
連載19で前述した、NHKオーディションの結果を受けて、総合テレビ『第1回ヤング・歌の祭典』(5月5日放送)や『レッツゴーヤング』(5月25日放送)に登場。それぞれ「TWO PEOPLE TOGETHER(二人の童話)」と「YELLOW CENTER LINE(霧のセンター・ライン)」を披露した。特に前者は、番組の司会者だった山川静夫アナウンサーが個人的に保管していた録画テープをNHKに寄贈しており、彼らがテレビ出演した最古かつ、現存する映像となっている。
また、FM東京の生放送番組『DENON LIVE CONCERT』(6月29日オンエア)では「YELLOW~」の他、「NIGHT TIME」「MAKING MY WAY」を演奏。当日の番組は二部構成となっており、後半の部では小坂忠と吉田美奈子が出演。二人のバッキングにはティン・パン・アレーも参加していた。
しかし、この6月末まで続いたミッキー吉野グループとのコラボレーションも、いったんピリオドを打つことになる。ミッキー、スティーヴ、原田、浅野の4人は、7月20日に開催された京都・比叡山蛇ヶ池人工スキー場でのフリーコンサートを皮切りに、8月末まで沢田研二のコンサートツアー『JULIE ROCK'N TOUR '75』でのバックバンドとして、日本全国ツアーに帯同する。同ツアーでジュリーの本来のバックバンドである “井上堯之バンド” とのWバンド体制となったのは、井上堯之バンドのドラマーだった田中清司の脱退とベーシスト交代(岸部修三が6月に脱退し、佐々木隆典が加入)が背景にあり、さらにその初代ドラマーだった原田の伝手で、ミッキー吉野グループも参加したという経緯がある。
ミッキーはこのステージで、後にエディ藩にも提供した「BE MY BROTHER, BE MY FRIEND」と、ジュリーが作詞した「夢のつづき」の2曲を提供。またジュリーが『走り去るロマン』収録曲の「NIGHT TIME(夜の都会)」を英語詞のままカバーしていた。これはミッキーと原田が「いい曲がある」と同曲を推薦して実現したもの。なお、比叡山のフリーコンサートの客席には、タケカワも観覧に来ていたという。
<75年夏の “ソロ活動”>
デビューツアーの期間中にあたる、4月1日にはデビューアルバムから2作目のシングルカットとなる「NOW AND FOREVER(いつもふたり)」をリリースしていたが、アルバム発売の時のようなパブリシティはほとんど行われなかった。連載16で前述したように、アルバムリリース前に海外へデモ音源を送った際に、カントリー音楽が盛んなテネシー州ナッシュビルからも好反応があった楽曲だが、日本国内でのレコード発売を告知する情報誌『レコード・マンスリー』(日本レコード振興)にも同シングルのリリース情報は掲載されなかった。よって、チャート誌のシングルトップ200位圏内にも入らない結果に終わっている。
デビューツアーで披露した「YELLOW CENTER LINE」や「SUITE : GENESIS」は、ゴダイゴのデビューアルバム『ゴダイゴ 組曲・新創世紀』(1976年7月リリース)収録曲だが、同アルバム自体がタケカワの2ndアルバムとして制作していたというのはファンには有名なエピソードだ。ミッキー吉野グループがジュリーのコンサートツアーに帯同する間、タケカワは自身の2作目となるアルバムに向けての楽曲を書き始める。“デモシリーズ” CDのVOL.2には、1975年8月以降に録音されたデモテープ音源が収録されているが、『新創世紀』で発表された「IT’S GOOD TO BE HOME AGAIN」「MAGIC PAINTING」の他、結果的に選曲されなかった「30」はこの時期に作られたものである。「IT’S GOOD ~」はデモテープの録音場所である、兄の芳弘の部屋にあった小型のチェンバロで演奏。コーラスには後にタケカワ夫人となる、国立音大生の石井敦子が協力している。
また、それと同時進行で、“モデル・ランゲージ・スタジオ”(以下 MLS)用に、英語ミュージカル用の楽曲も書いている。MLSは奈良橋陽子と太田雅一が1974年1月に設立した英会話教室で、二人がそれぞれ携わった “モデル・プロダクション”(関東学生英語劇連盟)の活動で得た、「ドラマの演技を通じて英会話のスキルを向上される」メソッドの普及を目的にしている。そのMLSの教材として太田が書き下ろした、生徒が上演するミュージカル用の台本「Stories for you and me」の劇中歌をタケカワが作曲している。“デモシリーズ” VOL.2には5曲を収録しており、「HERE’S A STORY」では石井の他、高校時代からの友人である山口泰孝もコーラスに参加。当時、山口は “TAKE(テイク)グループ” という名称でタケカワのファンクラブを組織しており、会報の発行やミニライブの開催など、タケカワの活動をバックアップしていた。
作曲、デモ制作などの裏方作業がメインになる中で、あるCMソングの依頼がタケカワの所属するレビュー・ジャパンに舞い込んでくる。
<CMソングという「販売戦略」>
音楽出版社であるレビュー・ジャパンにとって、自社で音楽出版権を持つ楽曲を各媒体に提供し、著作使用料を得ることが命脈である。連載11で前述したように、レビュー・ジャパンはアメリカ本国のMCAを通じて取り扱っている海外の楽曲以外にも、日本国内で作家と専属契約を結び、その作家が書いた新たな楽曲の出版権を管理していた。同社で国内制作した作品が活かされたフィールド、それが映画音楽(劇伴)であり、CMソングだった。
ジョニー野村はCMソングの制作について、後年このようにコメントしている。
1971年の著作権法改正により、ラジオやテレビで楽曲を流す際に著作使用料を支払うことが義務化されることになる。特に楽曲をオンエアする機会の多い民放ラジオ局各社は、自社で既に設立していた子会社の音楽出版社(ニッポン放送系のパシフィック音楽出版、文化放送系のセントラル音楽出版、TBS系の日本音楽出版=日音など)で権利を有する楽曲を優先的にオンエアし、利益を得ていた。ラジオで流した楽曲のレコードが売れるごとに、音楽出版社のレコード原盤制作権(印税、レコード小売価格の1割相当分)が音楽出版に入り、親会社の放送局に還元される。併せて、他の放送局からもオンエアした分の著作使用料が入ってくる…といったようなキャッシュの流れが確立されていた。これはラジオだけでなく、連載11で前述したテレビ局系列、芸能プロ系列の音楽出版社も同様だった。しかし、外資系のMCAの日本支社であるレビュー・ジャパンには当然ながら放送媒体が付いてなく、同様の宣伝戦略がままならない。繰り返し述べるが、ここに音楽出版社の新規参入の難しさがあった。
だが、CMソングは広告主や代理店サイドによる出稿量の意向次第で、放送媒体のしがらみもなく、ラジオやテレビでの放送頻度も高い。そこがジョニーたちの狙いであった。加えて、レビュー・ジャパン支社長の荒家正伸と、60年代後半から数多くのCMソングを生み出してきた、作詞家の伊藤アキラが旧知の仲であったことも大きかった。レビュー・ジャパン専属作家の第一号である樋口康雄も、所属当初からCMソングの作曲を手掛けている。
「CMがらみでヒットさせようという意向はなかった」とあるが、70年代前半のCMソングとは、テレビCFでいえば15、30、45、60秒の映像枠に収まる、広告・宣伝目的の短時間の楽曲にすぎず、この頃はレコード化される楽曲のプロモーションのために、CMとタイアップするような文化はまだなかった。77年頃からクローズアップされた、資生堂vsカネボウ化粧品の “タイアップ戦争” を契機に、CMを介した各レコード会社のプロモーションが激しくなり、70年代の終わりにはCMソングに起用したヒット曲が多数生まれるという現象が定着した。
タケカワの話に戻るが、73年にレビュー・ジャパンの専属作家となって以降、当然のことながら会社に来るCMソングのオファーに際して、いくつかのコンペ(競作)に参加することとなる。初めての案件は強壮保健飲料のCMソングで、スポンサーの要望は「口ずさみやすく、手拍子が入るもの」だった。しかし、タケカワは日本語詞に曲を付けるのに悪戦苦闘し、結局不採用となる。そのCMはジョニーが即興で作った曲が採用され、ジョニーが歌ったという。
デモ音源の存在が判明している分では、73年に書かれた「ミツカン酢」(中埜酢店、現・Mizkan)が最古。同年に “オズモンズ” のダニー・オズモンドと妹のマリーがテレビCFに出演した「カルピスソーダ・カルピコ」(カルピス食品工業)では、伊藤アキラの詞にタケカワがピアノで弾き語りするコンペ用デモ音源が確認されているが、結果的には小林亜星が作曲したものが採用された。その他にも、久保田鉄工(現・クボタ)の田植え機「春風」、家電メーカーのナショナル(現・パナソニック)の「ナショナルクレジット」などが不採用となっている。
しかし、当時のCMソングの趨勢は、商品名や商品の説明を歌詞にした旧来の「コマソン」(前述の4曲も「コマソン」に該当する)から、商品をイメージした歌詞を歌う「イメソン」へ移行しており、その流れから洋楽ぽい楽曲でのイメソンが制作者側から求められていた。ただし、実際に洋楽の既存曲を使用、もしくは新曲を海外アーティストに依頼するとなると莫大な権利料や制作費がかかってしまい、CMの制作予算をオーバーするおそれがある。そのため、国内で「洋楽ヒット曲風の英語楽曲」を作ることのできるタケカワはうってつけの人材であった。
※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
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