朝、目が覚めて昨日の記憶がやけに温かく眩しく感じる。 生まれも年齢もバラバラの私たちは いつの間にかこうして時々少し遠くに来て あれやこれやと夜中語り合い、 同じものを食べて飲んで、笑った。 別に抱えている荷物とかそんなものには触れないけど、 ただその人たちの飲みかけのワイングラスがあって、コルクの栓が転がっていて、 よく知らないYouTubeのチャンネルが流れている。笑い声が聞こえる。 それだけでこんなにも心の中がじんわり温かくて、記憶の破片たちがほんのりとした明かり
荒波を飲む 塩辛い味を吸い込め 痛みはそのまま 座礁した船を救え 歯に挟まったそれを掴む どこにいてもだれといても荒れたその波を見つめてさあ何年経った一体いくつ年を重ねた 私はまだ私がわからないまま 渦巻く波を指でなぞって見せた 現実を知らないふりしたままで 死んだ目をした魚はもう食べたくない 湖
昨日の夜 夜22時。同じデスクの島の人たちは一人一人消えていき、気がつくとフロアで明かりが点いているのは私の周りだけだった。 もう遅い。帰らなければ。 そう思うのに私の身体が家路に向かわない。 明日のプレゼンは何としてでも私の実現したいことを伝えきりたいんだ。 普段なら疲労も限界なこの時間、今日は不思議と疲れを感じなかった。 *********** 芽生えるなにか 社会人2年目。もうすぐ入社して丸2年。 私はとある会社の商品企画をしている。 入社した当初から業務の実
今日みた夢はやけにリアルだった。 昔から親しい友人との掛け合い、好きだった人とのすれ違い様に感じた感情、恋愛ってこういうもんかなと自分を納得させつつも前に進むのを躊躇う気持ち。 最近の私の感情がぎゅっと凝縮されて1つの物語になったみたいな夢で鮮明に書き起こせば夢解析に使えるし、なんなら小説の題材なんかにも出来そうな感じがした。 話は少し変わる。 人間、強い感情の方が記憶に残りやすいらしい。どれだけ頭で理解できていても、どれだけ納得がいっても、感情の深い部分が動かなければ忘れ
笑いと傷って反対のようで本当はとても近いんじゃないかと思うときがある。 誰かが落ち込んでいて少しでも元気を出してほしいとき、 友だちと友だちがけんかをしそうになているとき、 自分がすごくちっぽけに感じてしまったとき、 私は笑いに頼りたくなるのだ。とにかく笑っていれば人と人なんて何とかなると、おぼろげながらに思って進んできた気がしている。 そんな私も、昔は面白くないときに笑うのが苦手で、少し苦しささえあった。なぜなら作り笑いだって思われたくないから。ばれたら相手を悲しませ
お金を何に対して払うかは すなわち自分が何を大切にするかや、 生活をどのように彩るか、 どんな人の生活を支え、 この世界の何を大切にするが、 すなわち『わたし自身』になる。 そして、お金も時間も人生も、 『わたし』にとっては有限で、だからこそ大切なものなのだ。それは他人も同じだ。 日々、私たちは選び、選び合っている。 それでもたまに、選ばなかった方の人生を思い浮かべては、脚色され少し狂気じみた感じさえする結末を美しいと思ってしまう。 本当はそんな世界など存在しないのに。
フィンランド その響きを聞き文字を見るだけで最近の私は沸き立つワクワク感と心の平穏を両方保つことができる。 1万キロ以上も離れた海のむこう、 はるか北方の地に色彩豊かで、人々が穏やかで、 シナモンロールとコーヒーの香りが街のそこかしこに膨らんでて、 冬は寒くて雪が降るけれど 街のあかりと家々のランプがほんのり暖かい、 夢のような場所があると信じているのだ。 まさに私の『桃源郷』のような場所。 そんな心の郷に、私はいつか1人きりで行ってみたいと思っている。 リュックひとつ、
お元気ですか? 時々宛名のない手紙をどこかに書いては 出さずにしまっていたわたしも、 あなたに手紙を書くのをこれが最後にしようとおもいます。 大したことは書きませんし、書けませんから安心してください。 最近また私は海のむこうに行っていました。 言葉も違う、気候も食事も、人と人の間に流れる空気、交わされる挨拶、表情すべてが 私のいる日常とは異なっていて 自分のいる世界は本当にこの世の中の一部でしかないことを感じました。 そして、いつもと違う地に行っても 私の臆病さ、惨め
朝の空は澄んだ青色、夕方の空は混ぜた紫とオレンジ色。 どこに行ってもそれは同じで 建物の高さや地形によって空の広さは違って見える。 東京の空はビルとビルに挟まっててなんだか窮屈そう、でもぴかぴかの繋ぎ合わされた窓たちに映る夕陽は悪くないな。 こちらの空は開けた土の地面の脈々とした地形のもっと先にも広がっていて自分がちっぽけに見える。 その場所にしかないものっていうのはたくさんあるのに、その場所にいこうとどこにいこうと自分の奥底にあるものっていうのはそう簡単には変わらない気がし
その店員はグラス半分に入ったミルクの上に淹れたてのエスプレッソをゆっくりと注ぐ。 氷がゆっくりと溶け出しミルクとエスプレッソが複雑なペイズリー柄のように絡まりあって、一つの液体がつくられていく。 わたしはその当たり前かつ、不思議な様をぼーっと眺めていた。 すかさず隣の彼が待ちきれない様子で、突き刺された透明のプラスチックストローでくるりとかき混ぜた。思ったより早く撹拌された液体は一つの液体のようでいて、異なる3種類の液体が混じり合った3つの液体だ。 金曜日の昼下が
日に日に他人への興味が薄れていくこの頃。 誰がどうだ、ああだとかどうでもいい、 人間という生物としてなら面白いけど他人の小さな競争心とか見栄とかそういうものが見え隠れしても特に何も感じなくなった。 みんな同じものを手に入れるために必死になって、かく言うわたしもきっとその一人で時々虚しくなる。 だってさ、みんなで同じものを取り合ったら持てる人と持たざる人が出てくるじゃん? 誰かが盃を煽って笑うとき、誰かが黒いカーテンで視界を黒くする。世界ってそういう風にできてきたよね? だか
道にエビが落ちていた。 つるつるとちょうど近くの街灯に照らされてきれいにゆで上がった濃いさくら色が光っていた。 小エビなんだか車エビなんだか、あるいは茹でられたブラックタイガーなんだか私にはわからなかったが、家路を急ぐ足をはたと止めて一瞬私の心のすべてがそのエビに注がれる。 ずっと見ている訳にもいかないので、そのエビを写真に納めて後ろ髪を引かれながら何事も無かったような顔をして歩き出す。 昨晩はエビのことで頭がいっぱいだったので、最近会っている男の子への返事は忘れた。 誰
街のコーヒースタンド、おしゃれな大型車が前に止まっている。ガラス張りの向こうにはInstagramのおすすめで出てきそうなモデル張りの人たちがテーブル囲んでおしゃべりやカウンターでの一人時間に夢中。 店内はいつものごとく賑わっている。今日は雨もちらほら降ったはずなのに、それでもここの空気とコーヒー求めて人がやってくる。 私もその一人で、叔母にもらったおさがりのワンピースと習い事の途中で両手に抱えた大荷物をもって、気が付くとその店に向かっていた。 いつもその店に向かう
お疲れ様です、頑張ってるね、無理しないでね、ありがとう。 なんとなく関係性が遠い人にはこういう言葉がかけられるのに、関係が近ければ近いほど、 そして自分にたいしてなんて尚更こういう言葉をかけ忘れてしまう。 それをするのが恥ずかしいことだと思ってしまう。 これは日本人特有かもしれない。 「祈るほど頭を垂れる稲穂かな」 こんな言葉がある。 人に対して謙虚でいなさいという意味だけど、私も含めそれを 「自分の価値を下げなさい」と、勝手に変換してしまっていた気がする。 自分を低く見
昔から私の辞書にはかっこいいという形容詞が入ってない。 自分を少しだけクールに見せたくてちょっとした工夫はしてみても、やっぱりどっかに穴があって簡単にボロが出る。 ああ、みんなみたいに上手く水掻きして生きてみたいなあ、ヒレのかたちが他のお魚とは違うらしい。 大事なものをどこかにおいてきたり、 読みが甘くてちょっぴり恥ずかしい思いをしたり、 ずっとどこか抜け落ちててうーん、直るのかな。 でも、あれもこれもまあ私らしくはあって それを受け入れてくれる人たちに恵まれる魚ではあ
私にはわからない。自分が本当は何がしたくて、何がしたくないのか。 だから今日も大して面白くないことで笑って見せて、 悲しいときに平気なふりをした。と、いえば大げさだろうか。 小さいときから私の夢はよく変わった。 アニメのキャラクター、女優、ケーキ屋さん、お医者さん、看護師さん、カウンセラー 途中から自分がなりたいというよりかは、周りが喜んでくれそうなものを選んだりしてまたよくわからなくなった。 私は生まれて間もなく、母と父と3人で田舎のほうに住んだ。 家ではたいてい母と二