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フィンランドに行こう

フィンランド
その響きを聞き文字を見るだけで最近の私は沸き立つワクワク感と心の平穏を両方保つことができる。

1万キロ以上も離れた海のむこう、
はるか北方の地に色彩豊かで、人々が穏やかで、
シナモンロールとコーヒーの香りが街のそこかしこに膨らんでて、
冬は寒くて雪が降るけれど
街のあかりと家々のランプがほんのり暖かい、
夢のような場所があると信じているのだ。
まさに私の『桃源郷』のような場所。

そんな心の郷に、私はいつか1人きりで行ってみたいと思っている。
リュックひとつ、あるいは機内に持ち込めるスーツケースを軽々と転がして、
足りないものは向こうで見つければいいやと得意気な私。憧れのFinAirに乗ってみる。

いつもは細々と持っていく化粧品もその時ばかりは最低限。本当は肌につく感じがあまり好きではないファンデーションも、塗らない。
日焼け止めで充分だ。

ボトムスとトップスは組み合わせを変えれば違うスタイルにできる。
今の短い髪を肩まで伸ばして、ハーフアップ、
下ろしたスタイル、ポニーテール、お団子もできるようにしておこう。髪は海外の水が合わなくてもカラーリングが落ちないように地毛を伸ばして自然なスタイルにしようか。今度は濃い色に染めておこう。
前髪を眉毛ほどに切り揃えたらもうおしゃれではないか。
ついでに眼鏡さえあればきっと化粧もさほどせずに自分らしくいられる。おしゃれな眼鏡を一つ新調したい。

3月くらいだろうか、まだ少し肌寒さがありつつ穏やかな風が心地よい。
もう少しで春だよという感じのお日様が石造りの道をつるつると照らしている。
通り沿いの花屋さんには色とりどりの花が並んでいて、優しげな笑みを浮かべたおばちゃまが花を1本1本選んでいる。
人々の歩みは東京と比べ物にならないくらいゆっくりで、互いにおしゃべりをしてあるいている。2人組が多い。道行く人はさりげなく目が合うと挨拶をしている。
犬をつれたスキニージーンズが似合うお姉さんと目が合う。互いに挨拶を交わすようにニコりとする。よい旅を、彼女の笑みからそんな言葉が聞こえてきた。

そのまま歩き続けるとなにやら大きな建物が。
平日の昼間でもそこそこ人が出入りして行き交っている。
もしかして、と固唾をのむくらいの気持ちで中に入っていくとそこは私が写真や映画で何度も見て、ずっと自分の足を運んで目で確かめたかった光景が広がる。
吹き抜けの天井、四角い屋内、無数の本。白くて優しい天井の光に包まれて、本たちがまるでカラフルな花のように一冊一冊光っている。思わず息をのむ。なぜだか涙が溢れそうになる。
ここにいる感動で叫びたい気持ちを必死で押さえている。

やっとたどり着いたんだな、わたし。

しばらくそこに立ち尽くす。
数人の観光客らしき日本人が一生懸命スマホで色々な角度から写真を撮る。私はまだ動けずにいる。
少しずつ通路を歩いてみる。日本は文庫本がたくさんあるけど、こっちは単行本が多くて表紙のデザイン一つ一つが凝っている。指で軽く表紙をなぞる。1冊ずつの素材の違いが指先から伝わってくる。
ざらざら、つるつる、すべすべ、ゴツゴツ。
その感触から私がとうとうこの遠い地に来てしまったことを実感する。今度は少し本当に涙が頬をつたう。あわてて袖で拭う。

これはどんな本なんだろう。ロイヤルブルーに少しだけエメラルドグリーンを混ぜたような深い色をした布地の表紙の単行本。文字は当然だけど読めない。
どんなものがたりで、どんなひとが作ったのだろう。その人はまだこの世に生きているのだろうか、昨日すれ違った素敵な紳士かもしれない。あるいはさっき贈り物であろうお花を丁寧に眺めていたあのご婦人かもしれない。
全然わからない、それでもめくってみる。
時々手書きの水彩と鉛筆で書かれた淡い絵が挿し込まれている。湖の上に浮かぶ数羽の水鳥。白鳥だろうか。湖のほとりには、赤い帽子を目深にかぶって濃いブルーのレインコートを着た老人が釣竿を滴しながら遠くの水鳥たちを見つめて座っている。
物語の内容はさっぱり分からなかった。でもなんとなく分かった気がした、それで良い。

しばらく本を眺めていると、なんだかおなかがすいてきた。
そういえば朝食もまだ食べていなかった。
さっきから何人かが歩いてきた方向に何かカフェのようなものがないだろうか。
思いのままに歩いてみる。

すると廊下を進んだ先、薄いガラスの壁越しに背筋のシャキリとして笑みの美しい店員さんがコーヒーを淹れる姿がみえる。テキパキとしていながらもゆとりのある動作は思わず見入ってしまいそうだ。
常連らしきおじいさんは今朝の新聞をめくりながら、分厚い眼鏡のガラス越しに何やらニュースを見つけた模様。きっと入り口のガラスの壁に面したあそこのテーブルは彼のいつもの特等席に違いない。
私は店員さんから両手で包み込むような丸くて大きいカフェオレカップを受けとると、おじいさんの真似をしてガラスの壁に面した席に座ってみる。
すると、ここからは書店の中の様子が少し見える。赤いカーディガンのマダム、黒いコートのに合う紳士。みんなそれぞれ違う本を手にとって少しめくり、気に入った本を抱えて帰る。その姿を見ていると、なんだか神聖な瞬間をこっそり覗き見しているいたずら天使のような気持ちになって可笑しかった。
一口飲んだカフェオレは思った以上に熱かったけれど、コーヒーとミルクのバランスが丁度よくて心に染み渡った。
ほどなくして、シナモンロールが運ばれてきた。焼きたてがもうすぐできるとお店のお姉さんが親切に教えてくれたので少し待っていたのだ。ブルーのお皿と紙ナプキンの上に丸くくるくるとして愛らしいシナモンロールがいらっしゃる。「ある」のではなく、「いらっしゃる」の方がしっくり来る。1人でニヤニヤが止まらない。
「ああ、とうとういらっしゃいましたか。」
「いやいや、あなたがいらっしゃったんですよ。遥々、まあこんな遠いところからよくいらっしゃいましたね。まあまあ、ゆっくりしてってくださいな。ここの魅力は数日では味わいきれませんから。私たちはね、街のそこかしこで売られてますがね、ひとつひとつ違うからきっとひとつでは飽き足らないでしょうね。まあまあ、どうぞ。お好きなところから。」
「ありがとうございます。それにしてもあなたはいい香りがしますね。シナモンが香ばしくて、甘いんだけどちょっぴり大人の匂いがします。まるでどこかの森に迷い混んだかのような優しいそれでいて複雑な気持ちになります。」
「ええ、そうですか。まあ、私もけっこうお喋りって言われるたちなんですが、あなたも大概おしゃべりですね。はやくお食べんなさい。冷めてしまってはわたしの本当の魅力が分からないじゃありませんか。」
「あらそうですね。あんまりにも嬉しいのとあなたがよくおしゃべりするんで思わず見つめてしまいました。それでは『いただきます。』」

サクり、中はふわりと温かくて柔らかい。
シナモンの香りが花の奥からふんわりと広がる。思っていた以上に優しいシナモンのスパイスは少しだけ不安だったわたしの心を慰めるように抜けていく。
「おいしい。おいしいです。あなたはおいしい。来てよかった、ありがとう。ありがとうね。」
「ははん。それならよかった。当たり前ですけどね。あ、そこまで言うんならざらめ1粒残さず食べて頂戴ね。」

     * * * * * *

私はひとりで旅に来たけど、ひとりじゃなかったし寂しくはない。
だって耳をすませばいろんな所から歌がきこえてくるから。お姉さんがコーヒーカップをカチャカチャ動かす音、コーヒーマシンがコーヒーを淹れる音。また1人目の前の廊下を通りすぎていく足音。おじいさんの鼻歌。
全ての音が合わさってまるで1つの旋律を奏でている。始めて聴く音楽なはずなのになぜか懐かしく感じるときみたいに耳触りが心地よい。
それに、新しい場所に行けばなぜだかそこにしか存在しない自分の分身がいるように感じるのだ。未知のものに出会ったとき、私も知らないわたしが生まれる。
そんなこんなで、わたしは旅をひとりですることが怖くない。もし知った友人や家族と行けば、否が応でもいつもの自分と変わらない自分で周りをみたり、周りと話したりしてしまいがちだ。それも充分楽しいけれど、どうせならもう1人の自分に会ってみたい。

人生はたぶん一度きりで、もし次の人生があったとしてもこの身体も記憶も何一つ持ち越すことが出来ない。
だとすれば、なるべくたくさんの人や世界と出会いたい、そしてそれとおんなじくらい色んな自分を知りたい。
そう思うのだ。

フィンランド
そのコトバは今のわたしにとってまるでおまじないのようで、一度も行ったことのないふるさとみたいな場所だ。

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