束間 のず
夢でみた景色をもとに短いお話を書いていきます
実家で古いものを整理するように言われて、あなたからの手紙が出てきた時、ちょっと笑ってしまいました。そういえば、こういうことをするような子どもでしたね、あなたは。 あなたは、私に幾つかの質問と励ましをしてくれていたので、ちょうど受け取った私が、あなたに返事をしようと思います。 先に断っておきますが、もしかしたら、今の私が答えない方が、あなたにとってはいいかもしれません。もう10年後の私とか、あるいはまた、5年前の私とかの方が、あなたを喜ばせるような回答をしてくれるかもしれませ
浅瀬は陸と海の狭間で、私は大体いつもそこにいた。就活をしていた頃も、大学生の頃もそう。大人になろうにも指針を決めきれなかった私は、ずっと浅瀬にいた。海原に出る勇気も欲望もなく、かと言って陸はなんだか居心地が悪かった。 「大学院行ってどうするの、研究者になるの?いいな〜 私、仕事辞めてまでやりたいことないからさ」 前の職場の同期は、優しくて気の良い女の子だった。私には別に、そんな大層な理想や指針などなかった。あの時の私は、ほとんど天啓のように学問に縋ったが、別に確信などなか
100年も前から、僕はあなたに会いたかった。 あなたは、たぶん少しも僕の方を向いていない。でも僕は、ずっとあなたに会いたかった。 僕はもうずっと、遥か昔に、触れ合うことの何が楽しいのかわからなくなってしまった。 例えば87年前、僕の一部が惨めに切り倒されるなんてことが起こらなければ、僕は今も、あなたに触れられたいと思っていたかもしれない。でもそんなのは、もう机上の空論に過ぎない。 起こってしまったことは起こってしまったことだ。僕はもう、僕の表皮に触れる人間の手は恐ろしいと思う
高校生の頃、好きだった人がいて、その人に宛てていくつも短歌を作っていたけれど、一つも本人に贈ったことはなかった。 溢れるような気持ちを、思い返せば拙い言葉の連なりに、落とし込んで、インターネットの海に流しては、知られたいのか知られたくないのか、自分でもよくわからないと思っていた。今になって考えてみると、他人には知られても構わないけど、本人には知られたくない、が適切だったかもしれない。 星を眺めるみたいな距離と温度で好きになる人が、私の世界には定期的に現れる。それは隣のクラス
待合室に花の香りが立ち込めている。私は鼻をひくつかせながら、頭を傾げていた。野生の花じゃない、綺麗に剪定された、花束の花からするみたいな匂いだけど、どこにも花やそれらしいものが見当たらない。 幻聴とか幻覚とかみたいに、嗅覚にも幻はあるのだろうか。私の脳の中にしかないかもしれない花の匂いを、肺いっぱいに吸い込む。こういうとき、誰かと一緒なら、すぐに尋ねるんだけど。 よほどの異臭でない限りは、幻覚とか幻聴とかより日常生活に支障をきたすことはなさそうだ。まして花の匂いがずっとする
何もしていない時の私の頭の中は、言葉になる前の、はっきりしない思考の塊で埋め尽くされている。それが意識の表面にまで浮かび上がって、私が理解できるような、私がなんらかの感情を動かされるような形をとる時、それらは大抵私の記憶と結びついて、私の意識はたくさんの記憶と感情で満たされた場所に迷い込んでいる。 何度も思い出す出来事がある。大抵は苦しみや悲しみを伴うもので、滅多なことがない限り、幸せなことや嬉しいことは思い出せない。心の中に記憶の回廊があって、私の望むと望まざるとに関わら
「普段、何考えてるんですか」 時々、そう聞かれる。たぶん、私が何も話さないからだろう。 何、考えてるだろう、と聞かれるたびに思うのだが、普段は、これといって何も考えていないような気がする。ぼんやりしている。私の思考の基本設計は、多分、あまり普遍的ではないのだと思う。 きっと共感されないだろうと思いつつ、私が普段持つ感覚について、あるいは私の思考の総体について、ここには書いておこうと思う。 スタニスワフ・レムというひとのSF小説に、『ソラリス』という作品がある。ソラリスは
電車から降りることができない。 多分ここは山手線だと思う。さっきおんなじ景色を見たような気もする。 わたしは、ドア付近の椅子に腰掛けていて、どこへ向かおうとも思っていない。ただ、どういうわけか降りるのが億劫で、それでもう何周もしている。 乗った時のことは、よく覚えていない。 私は思い出そうとする。だけどその記憶の糸を手繰り寄せようとすると、全く関係のないものばかり、次から次へと私の眼裏に浮かび上がってくる。私はそれを、ひとつひとつ眺めて、そうこうしているうちに山手線を何周も
「嘘の月ですね」 嘘みたいに明るい月を見ながら、お友達はそう言った。 そのお友達と一緒にいると、どういうわけか、現実なのにフィクションみたいな場面にしょっちゅう出会う。 大学生も過ぎると、大人になってから誰かと仲良くなることがだんだん難しくなると実感するけれど、そういう意味で言えば、このお友達は特異な例だ。 彼に会ったのは2年ほど前、大学4年生の時だった。卒論を書き上げた私は、卒業する前にどうしても演劇に関わりたくなって、とある公演の制作スタッフをした。そのときの主宰が、
大好きな宇多田ヒカルの曲の中にKremlin duskという曲があって、Aメロにエドガーアランポーの詩「大鴉」が出てくる。私は大学生の頃、この歌がいたく好きだったので「大鴉」を読んだことがある。 恋人を失った青年の元に大鴉が現れ、“Nevermore”とだけ言い続ける詩だった。 大抵はこれは「二度とない」と訳される。 それからずっと、私の人生には「二度とない」が付きまとうようになった。大鴉が私のあとをついてきて、「二度とない」と囁く。 顔の上を流れた涙は、乾くと固まってしま
健康診断の時や、何かの理由で整骨院を受診すると、時々レントゲンを撮りましょうと言われ、診察室でわたしの骨の写真と対面することがある。初めての時は、どういうわけだか、そのレントゲンに写るわたしの背骨に見惚れていた。高校生の頃のことだ。ああ、わたしにも背骨があるんだ、そう思った。身体の真ん中を通る支柱は私自身が直接見ることはできないけれど、たしかにわたしの中に存在している。なんとなく、滑らかなんだろうと思ったことを覚えている。わたしの背骨。頭から腰まで、積み木のように積み重なって
通勤中いつも、おんなじ曲がり角ですれ違う親子がいた。去年の5月くらいのことだ。まだ物心もついていないであろう小さな男の子と、その子の父親。 狭い歩道を向こう側からやってくる私を見て、父親は男の子に「前、前!」と促す。男の子はニコニコしていて、だけど幼い子供によくあるように、足取りはおぼつかない。 いつ転んでも良いように、父親は軽く彼の体のそばに手を置いている。 私はそれを、通勤のたびに何度も、何度も何度も見ていた。毎日同じ家で目覚めて、毎日同じ電車に乗って、毎日同じ駅で降り
死、それは、生命活動の停止を意味します。生命あるものはみな死に至ります。人間の場合は、多くの場合心臓の停止をもって死と判断されますが、例えば「脳死」というものもあり、何をもってして死とするかは、個人の判断に委ねられている部分もあります。 ─死んだら、どうなるのですか。 人間なら、多くの場合葬儀が執り行われます。形態は死者、あるいは弔う人々の宗教によって変わりますが、何らかの形で魂を浄化したと彼らが看做したあと、死者の死体は、埋められたり燃やされたり、川や海に流されたり、場
人を待っている。でもさほど会いたい人でもない。スマートフォンが光って、メッセージが表示される。 「何色の服着てますか?」 黒のコートです、と打ち込んでから、私は別のトーク欄を開き、半年前から既読がつかない画面をぼーっと眺める。 リリカちゃんとは、ある日を境に連絡が取れなくなってしまった。どうしてかは知らない。私がリリカちゃんの気に触るようなことをしていたのかもしれないし、あるいは単に、私に興味がなくなっただけかもしれない。もっと深刻な場合について考えたりもしたけれど、既読が
2021.1.18 6日前のことだった。風呂場の浴槽が宇宙と繋がっていた。いつまで経ってもお湯が溜まらないことを不思議に思って浴槽の底を覗き込むと、そこは宇宙だった。宇宙が浴槽と繋がっているのか、浴槽の中に宇宙があるのか、定かではない。あるいは、どちらも同じかもしれない。 まぁ、そんなこともあるのかもなぁ、と思って、それからはシャワーだけ浴びるようにしている。 謎の疫病が流行ってから、感染拡大防止のためにほとんど外に出なくなった。頻繁に開閉されないドアは、閉まっている間
会うたびに、あなたはいつもどこか違っている。 至極機嫌の良さそうな時もあれば、元気がない時もあるし、怒っている時もあれば、くたびれている時もあるし、心ここに在らず、といった調子の時もある。 あなたがいないとき、私はそういうあなたを、すべて重ね合わせて、あなたという人間を抜き刷りにする。絶え間なく揺らぎ変化するあなたの、その集積の最大公約数のあなたをあなたとして私は思い浮かべる。 だからいつだって、それは実際のあなたとは違う。毎日毎日あなたのことを考えて、あなたという人間を頭の