二度とない
通勤中いつも、おんなじ曲がり角ですれ違う親子がいた。去年の5月くらいのことだ。まだ物心もついていないであろう小さな男の子と、その子の父親。
狭い歩道を向こう側からやってくる私を見て、父親は男の子に「前、前!」と促す。男の子はニコニコしていて、だけど幼い子供によくあるように、足取りはおぼつかない。
いつ転んでも良いように、父親は軽く彼の体のそばに手を置いている。
私はそれを、通勤のたびに何度も、何度も何度も見ていた。毎日同じ家で目覚めて、毎日同じ電車に乗って、毎日同じ駅で降りて、毎日同じ職場に向かい、毎日同じ道中で、毎日同じ親子が歩くのとすれ違う。
あの子供は、きっとすぐに背が伸びて、そのうち父親の手がいらないくらいバランスを取るのが上手な体になるだろう。
でも私は多分、一年経っても二年経ってもこれ以上歩くのが上手くなることはないだろうし、きっと一年経っても二年経っても仕事をしているだろう、そんなふうに思っていた。
仕事はずっと続く。途切れるということがない。ひとつの仕事が終わると、また次の仕事が始まる。無論、わたしもそれに合わせて、ずっと仕事をしている。ひとつのことが片付いたら、また次の何かをする。
別に今までだってそうだったはずだ。生活というのは死ぬまでキリがなく、それはそれは腹立たしいことだと思う。
職場でずっと掛かっている有線は1週間に一度、セットリストが入れ替わる。逆に言えば、1週間の間は、全く同じ曲が、全く同じ順番で掛かるということだ。
職場にある大きな機械は、昼となく夜となくずっと動いていて、その低い稼動音と、よく知りもしない流行りの曲をBGMにして、私は仕事をしていた。
下の階が工場になっている職場だったから、よく金槌を打つ音が聞こえた。嫌なことがあると、私は職場のトイレに入って泣いたり、携帯をいじったりしながら、その金槌の音を遠くに聞いて、太宰治のトカトントンみたいだ、と思っていた。
実際、あの小説の郵便局員と同じような癇癪持ちなんじゃないかと思うことがある。
毎日おんなじ部屋で目覚めるたび、どうして毎日おんなじ部屋で、おんなじ自分なんだろうと思う。眠っていようが起きていようが、私は私から、私を取り巻く世界から逃れることができない。
それは別に、ここではないどこかへ行っても同じだと、そう自分を宥めすかして、また職場へ行く。
その道中に、またあの子供がいる。昨日も今日もすれ違った、どうせ明日もすれ違うに違いない。そう思っていた。
7月ごろ、私は流行病と思しきものに罹って、会社を1週間ほど休んだ。お盆休みの少し前だった。
症状がなくなってからも、お盆休みの後も、私は上司に心配されるくらい、元気がなかった。
子供の姿を、時々見かけないことがあると気がついたのはその頃からだっただろうか。
いつも元気よく走っているわけではなかった。ベビーカーに乗せられていることもあったし、父親ではなく母親に連れられていることもあった。雨の日は雨合羽を着て、長靴を履いていた。
10月、私は上司に仕事を辞めて大学院に行くことを伝えた。存外、上司は反対しなかった。まあ、全然やってきたことと違うし、ずっと元気ないしね、と言われた。
途方もない苦痛の塊だった仕事に、終わりが見えた途端、私の心はぐんと楽になり、自分はなんて現金なやつなんだろうと思った。
変わらず大きな機械は動いていたし、下の階からは金槌の音がしていた。
もう関係がないと思うと、不思議とそれは苦痛でもなんでもなくなった。私は退職までの出勤日を指折り数えながら過ごした。なんて不真面目で薄情なのだろうと思いながら。
11月、職場の玄関から見えるコンクリートの地面に、にわか雨の跡が見えた。まだらに雨が降った後にすぐに晴れたとみえて、妙に外が眩しいような気がした。
その少しあと、書類の縁で指を切った。私の手が乾燥していてすぐに切れるのは、肌が弱いからではなく、仕事が嫌で頻繁に手を洗うからだと思い至った。
昼休憩を近所の神社で過ごすようになった。ほとんど毎日、私と同じくらいの時間帯にお参りして帰る人がいることに気づいて、その人のことを心の中で「敬虔なひと」と呼んでいた。敬虔なひとは、ほとんど毎日神社にやってきてはお参りをして、境内にあるベンチで何かを食べたり、携帯をいじったりしていた。
私は昼休憩の間、境内を間借りしているだけの、さほど信心深くもない人間だったけれど、なぜだかその人に言いようのない親しみを覚えるようになった。
12月、職場から帰ろうとして駐車場を横切り、なんとなく空の方を見ていたら流れ星が見えた。初めて見る流星だった。
本の中の流れ星はたんに光が流れていくようなイメージだったけど、実物はあんなふうに、燃やし尽くすように流れていくのだと初めて知った。仕事を辞めても生命は生命なのだ、とよくわからないことを思った。
辞める前に一度違う支社も見てみると良いと勧められて、岐阜まで行った。空気のいいところだと思ったし、見学は楽しかったけど、考えを改めるつもりはなかった。
1月、年明け早々、また流行病と思しきものに罹った。出願の締切が迫っていた。治るや否や国会図書館に行き、なんとかして研究計画書を仕上げた。
仕事を遅刻して、書類を出しに大学に行った。冬だというのに日差しが嫌に暖かかった。入学センターの女の人にコートの柄を褒められて、それを嬉しがりながら、私は大学を後にした。
院試の対策をするという理由で、1月の締日に仕事を辞めた。最後の日も、これといった感慨はなかった。
上司は私にじゃあねと言った。じゃあね、受かるといいですね、まあ、かしこだから大丈夫だと思うけど。
優しいんだか優しくないんだかよくわからないひとだ、と思いながら、お世話になりました、と言って私は職場を出た。
その時に、やっとわかった。
一歩一歩、職場から遠ざかるごとに、実感が追いついてくるのだ。ああ、きっともう二度と、この道を通らない。
もう関係がなくなったのだ、なにひとつ。
もう上司に会うこともなければ、設計図を書くこともないだろう。有線で掛かっている最近流行りの曲の歌詞に頭の中でケチをつけることもなく、金槌の音を聞きながら『トカトントン』に連想を飛ばすこともきっとない。
もう昼休憩をあの神社で過ごすなんてこともなく、だからあの敬虔なひとに妙な親しみを覚えたり、鳥居をくぐる時にお辞儀をする仕草になんだか見惚れてしまうなんてこともないのだ。
あの子供もそうだ、もう会うことがないのだ、たまたま、私と同じ通勤時間に、私と同じ道を通るだけの、ただの赤の他人なのだ。
どうして、昨日も今日も明日も明後日も、当然のようにすれ違うと、そう思っていたのだろう。ずっと同じことの繰り返しだなんてそんなことは、なかったんじゃないか、はじめから。
翌日、私は先生に会うために大学に行った。
よろしくお願いしますと頭を下げて、昨日、上司に挨拶をした時のことを思い出した。
だけどすべての瞬間は、二度とないのだ、と私は思う。永続して見えるそれは生まれては消えるその明滅の連なりなのだ。
大学を後にして実家に帰るバスの中で、窓ガラスに映る自分の顔をぼんやり見ていた。私には考え事をする時に鏡を見る奇妙な癖がある。
あの子も、きっといつかあの道を通らなくなるのだろう。ベビーカーがいらなくなるかもしれないし、雨合羽の代わりに傘をさすようになるかもしれない。あの子さえその気になれば、すぐにでも。
だけど、だからこそ、何もかも二度とないのだ。そう思いながら、実家へ向かう道の、長い長いトンネルの暗闇を見つめていた。