大鴉

大好きな宇多田ヒカルの曲の中にKremlin duskという曲があって、Aメロにエドガーアランポーの詩「大鴉」が出てくる。私は大学生の頃、この歌がいたく好きだったので「大鴉」を読んだことがある。
恋人を失った青年の元に大鴉が現れ、“Nevermore”とだけ言い続ける詩だった。
大抵はこれは「二度とない」と訳される。
それからずっと、私の人生には「二度とない」が付きまとうようになった。大鴉が私のあとをついてきて、「二度とない」と囁く。

顔の上を流れた涙は、乾くと固まってしまって、表情筋が動かしづらくなる。涙は最短距離で流れるから、瞳の形によって流れる位置が変わるんだと、昔友達が言っていた。私の涙はちょうど真ん中のあたりから流れる。涙が流れたあとなら、そういうことを思い出すだけの冷静さは取り戻すことができる。
なぜいつも自分だけが、と思うようなことも、どうせ自分だけじゃないんだろう。そうやって思うたび、極端に被害者意識を募らせる自分ごと、輪をかけて嫌いになる。早く何もかも終わりになったらいいと思う。

幸せな時に、何もかも終わりにしたい、と思う。あるいは、したかった、終わりにしておくべきだった。「二度とない」なら尚のこと、あらゆるものが美しく見えたあの瞬間に、全て味わい尽くして、恒星みたいに、終わる時に一番強い光を放って、それきり消えて無くなってしまいたかった。なぜそれが叶わないんだろう。

苦しい時に楽しかった頃のことを思い出しては、なぜあの時に辞めなかったんだろうと思う。何もかも投げ出して、骨壺の中に納まるただの骨と灰になることくらい、難しくなかっただろう、だって何も持っていないようなものだから。享楽的に、刹那的に、浴びるように生きて、それで、そのまま死ねばよかった。そのまま死ねば、楽しいままだったのに。どうして生き延びてしまったのだろう。

どうして死なずにいられたのだろう。あんな瞬間は、もう二度とないのに。ああだけど、未来もまた同様に、二度とないのだ。その予測不能でたった一回の未来に、時々賭けてしまいたくなるんだろう。あの時よりもっと強い光が、私の両眼を焼いてくれるんじゃないか、とか。欲深さが私を生き延びさせる。だけどそれはいつだって刹那の光であって、普段は金星の地表みたいに、水もなく光もなく、自らの負の感情だけがすごい勢いで逆巻く中を生きているような気がする。

私のあとをついてくる大鴉は、良いことがあっても悪いことがあっても、「二度とない」を繰り返す。大鴉は慰めているようでも、絶望させているようでもある。少なくとも私には、そんな風に解釈される。大丈夫、あんな酷い目にはもう二度と遭わないよ。同じように、あの輝かしい刹那も穏やかな昼下がりも君には二度と訪れないんだけどね。それでも生き延びなければいけないと思う?二度とないなら、この先何を頼みにして生きていけば良いの?大鴉はそれには答えない。

連続したひと続きの時間の中を生きながら、どうしたら狂わずにいられるのか、本当はわからない。何度も何度も美しい記憶をレコードが擦り切れるまで再生し続けて、その度に、二度とない二度とない二度とない二度とない、あんな日々も刹那ももうやってこない。どうして得た側から失くしていくのだろう。もう辞めても良いんじゃないだろうか、そもそも生きていることに意味なんてないんだし。

でも死にたがって大きい水の近くに行くと、また大鴉の声がするのだ、“nevermore”、君のこの惨めでどうしようもない人生も、二度とないけど、見限るの?今度はそんなふうに聞こえる。
私は大きい水をぼーっと見て、人生はどうでも良いな、と思う。大きい水の中で、じゃぼん、と何かが跳ねた音がする。人生はどうでも良いけど、世界は見限れないかもしれない。
大きい水は月光を反射してピカピカ光っている。水面が揺れると光も揺れる。虫の声が聞こえる。
他者がいない時の方が、この世界を、紛れもなく自分の外部にあると認識できるのはなぜなのだろう。客体としての私が解体されて、ただそこにいるだけになる。どんな思い出も未来への期待も不安もどこかへ消えてしまって、揺れる水面だけがよく見える。“nevermore”またあの声がする。私がここにいなかったら、あの水音を誰か聞いただろうか。あるいは水面に揺れる淡い月の光を誰か見ただろうか。

死にたい気持ちは消えている。二度とない、繰り返されているかに見える世界のあらゆる瞬間を、本当は見尽くしたい、代わりにそんな欲望が頭をもたげて、ひとまず明日も生きようと思う。

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