ソラリスの海と私
「普段、何考えてるんですか」
時々、そう聞かれる。たぶん、私が何も話さないからだろう。
何、考えてるだろう、と聞かれるたびに思うのだが、普段は、これといって何も考えていないような気がする。ぼんやりしている。私の思考の基本設計は、多分、あまり普遍的ではないのだと思う。
きっと共感されないだろうと思いつつ、私が普段持つ感覚について、あるいは私の思考の総体について、ここには書いておこうと思う。
スタニスワフ・レムというひとのSF小説に、『ソラリス』という作品がある。ソラリスは、架空の惑星の名前である。ソラリスは、惑星全体が大きな海で覆われていて、その大きな海が、知能を有しているという設定だ。この『ソラリス』は、SF小説の分類としては「ファーストコンタクト」、いわば未知との遭遇を題材にしたものに振り分けられる。地球外の知能を持つ生命体との出会い、という、SFにはお誂え向きのテーマだが、しかしソラリスの海は、知能を有すると思しいものの、人間の敵にも味方にもならない。人間の理解の範疇を超えた知能と思考を有するものとして描かれる。
この小説を初めて読んだ時、私は、ああ、わかる、と思った。私は自分自身の中に、自分の理解の範疇を超えた大きな何かが、私よりはるかに賢くて、はるかに多くの情報を蓄えた何かが、いるように思えることがある。以来、それを「海」と呼んでいる。普段の私は、その大きな海を泳いでいるたった一人のちっぽけな人間である。
私は、次から次へと物事を忘れるのに対して、海はずっと情報を蓄積し、なんらかの計算を、行なっているような気がする。私は海と意思の疎通が取れないので、そんな気がするだけである。海は、時折私になんらかの形で示唆をもたらし、それには大抵間違いがない。海は私よりも賢くて、たくさんのことを知っているようだ。だけど海がどんなことを考えているのかは、よくわからない。
そういう私が、海とより深く繋がることができるのは、文章を書いているときだ。何かを書こうとする時、私はより深いところまで潜っていく。自分自身の中にあるものを書いているという感覚はまるでない。書くということは、私にとってどこまでも体験だった。書こうとする時だけ、海はたくさんの思考を、余すところなく与えてくれるようだった。普通はこれを「考える」というのかもしれない。
海は私よりも多くのことを知っているので、私は書くということそれ自体が、いつもずっと楽しい。知り得ない感情も思考も、書いているとわかることがある。自分が何を考えているのか、それ以外の時はさっぱりわからない。
仕事をしていた頃、私は文系卒にも関わらず何故か金型の設計図を書く羽目になっており、その間、どういうわけか、飲み込みが早くて優秀な人、と思われていた。
その優秀さは、実は積み上げられた基盤のしっかりしたものではなく、もっと危ういものに裏打ちされている。海は、たくさんの情報を蓄積している。統計みたいなものをとっているんじゃないかと思うこともある。するとなんとなく、勘が働くようになる。海の統計に基づいた勘は、だから大抵当たるのだけれど、これは理解ではない。
優秀そうに、上司の目には見えていたんだろうが、その実はただ、再現をしているだけで、本当の理解とは程遠かった。本当に理解していなくてもできてしまう仕事があるというのは、一つの大きな発見であった。
ともかく私が優秀な人だと思われていたのは、ひとえに海のおかげだった。この海と私の乖離は、一体いつからなのかあまりわからない。ただ、少なくとも昔は、私と海は一体であったような気がする。失った海とのつながりを取り戻すために、文章を書いているんじゃないだろうか、そんなふうに思うこともある。でも、書き終わったことのほとんどは、しばらくすると手放されてしまう。一体なんのために書いているのだろうか。
でも、私の意識から手放される物事のほとんどは、消えてなくなるわけではない。いま、ここにこのように文章として残る。私は海との交渉を繰り返すことによって海と繋がり、その繋がった状態は、テキストに固着させられる。そのテキストは、消されたり壊されたりしない限り、永久的に残る。私の文章は、厳密には私が書いた文章ではない。読み返すたびに、私は私の知らない私に出会う。
書くという体験よって産み落とされる文章の上にいる私と、ただの私との齟齬が、読み返している時いつも面白い。奇妙だと思う。私は一体どこにいるんだろう。思考とは一体どこにあるのだろう。
「どんなこと、考えてるんですか」
どんなこと、考えているだろう。それを炙り出すためにはいつも、書かなければいけなかった。書かないとわからなかった。文章にしなければ、自分の思考すら満足に辿れないのは、どうしてなんだろう。いつももどかしいと思っていた。でも仕方がないのかもしれない。そのくらい、私にとって書くことは重要だった。
ソラリスの海は、このちっぽけな私の自我に気がついているのかどうか、定かではない。