アルファルド
2021.1.18
6日前のことだった。風呂場の浴槽が宇宙と繋がっていた。いつまで経ってもお湯が溜まらないことを不思議に思って浴槽の底を覗き込むと、そこは宇宙だった。宇宙が浴槽と繋がっているのか、浴槽の中に宇宙があるのか、定かではない。あるいは、どちらも同じかもしれない。
まぁ、そんなこともあるのかもなぁ、と思って、それからはシャワーだけ浴びるようにしている。
謎の疫病が流行ってから、感染拡大防止のためにほとんど外に出なくなった。頻繁に開閉されないドアは、閉まっている間、本当に私の部屋と、私の住んでいる街を繋いでいるのか疑わしい。このワンルームは私が外へ出ようとする時だけ世界と繋がり、あとは恐ろしく広くて暗い宇宙の真ん中に浮かんでいるだけなのではないだろうか。まるで小惑星のように。そうなら、浴槽の底が宇宙になっていても不思議はない。
人類は散り散りバラバラになって、私の星は一体どこへいくんだろう。どこへ行っても同じことだけれど。
こんなことになる前は、頻繁に人に会うこともできたし、私の星に誰かを招くこともできた。それがどんな心地がすることだったのか、もう思い出せないけれど。
そんなふうに振り返りながら浴室のドアを開けて、私はおや、と首をかしげた。
宇宙が大きくなっている。前は浴槽に収まっていた宇宙が、脱衣所のそばまで迫ってきていて、これではシャワーも浴びられない。
そう言えば、宇宙が暗いのは光が進むよりも早い速度で広がり続けているから、らしい。そんな知識を私に教えてくれたのは、誰だったっけ。なんて呑気に考えている間にも、宇宙は広がり続け、私の右足のつま先を音もなく呑み込んだ。
「あ」
反射的に足を引っ込めたけれど、遅かったらしい。つま先から見る間に色が失われ、代わりに真っ黒い空が広がっていく。宇宙は止まることなく私を呑み込み続けようとしている。困ったことになった。このままだと私はつま先から踵、踵からくるぶし、くるぶしからふくらはぎ、ふくらはぎから太もも、といった具合に宇宙に呑まれて、最後には私が宇宙になってしまう。もし宇宙になったら大変だ。私の中に惑星が生まれることもあるかもしれないし、私の中に第二の地球が生まれてしまうこともあるかもしれない。そしたら私の中に誰か、あるいは何か生き物が生まれたり、住んだりするのだろうか。その生き物たちにとって私は、創世者とか始祖とかいった位置付けのものになったりするのだろうか。
いけない、こんなことを考えている間にも宇宙が広がっているんだった。我に返って足元に視線を移すと、くるぶしまで宇宙色に染まっている。まずい、と思うと同時に見惚れてしまう。私の足の中で輝いているあの恒星は一体何だろう。
ヴーヴー、という音がして、我に返った。机の上のスマートフォンが鳴っている。見ると、友達からだった。通話ボタンをタップする。
「もしもし。」
「あ、ひさしぶり〜!別に用事はないんだけど、元気してるかな〜と思って!」
「ああ、うん、元気。元気なんだけど、ちょっと困ったことがあって。」
「え、なになに?」
答えようとして後悔した。右足が宇宙になっている、なんて言ってどうする。変な宗教にハマったと思われて縁を切られるのが関の山だ。馬鹿馬鹿しくなって足元を見下ろすと、くるぶしまであったはずの宇宙がつま先の方へ静かに引いていくのが見えた。
「あ、ううん。ちょっとさっきつま先ぶつけちゃってさ。それだけ。」
「なんだ。もっと深刻なことかと思ってびっくりしちゃった。ね、絶対また遊ぼうね!今はこんなだけど絶対またみんなで集まりたいって思ってるんだ。」
「うん。私も。」
「声聞けてよかった、またね。」
「うん。またね。」
私は電話を切って、再び右足を凝視した。宇宙は足の指の爪のあたりまで縮んでいる。一体どういうわけだろう。気になって浴室まで戻ってみると、宇宙は浴槽の中に収まっていた。私はさっきとは全く逆の理由でおや、と首をかしげた。しかしまあ、これでシャワーが浴びられるし、私の中に第二の地球が生まれることもないだろう。よかったよかった。
しかし、部屋の中に宇宙があるというのはいいものだ。宇宙ほど静謐で美しく魅力的なものがあるだろうか。浴槽の縁に手をおいて浴槽の中の宇宙をうっとりと眺めながら私は思う。そうして宇宙で瞬くいくつかの恒星をぼんやりと眺めるうちに、気が付いたら私は眠ってしまった。
浴槽の縁で目を覚ましたとき、私は絶句した。さっきまでつま先の数ミリしか占拠していなかったはずの宇宙が、ふくらはぎまで成長している。まずい。なぜまた成長したんだ。浴槽の方に目をやると、浴槽の中の宇宙も僅かに蠢いて拡大を始めようとしていた。私は急ぎ浴室を出て、ドアを閉めた。問題はふくらはぎまで宇宙になった私をどうするかだ。
時計をみると、時刻は午後10時23分だった。こんな時間に病院なんてやっていないだろう。というか病院なんかに行ってどうするんだ。医者に私の宇宙がなんとかできるのか。とてもそうは思えない。とにかく玄関のドアをあけて、このワンルームをきちんとこの街と繋げておかなければ、このワンルームもろとも、多分私も、宇宙になってしまうだろう。
コートを引っ掴んでコンビニへ走った。その辺にあったスナック菓子を適当に手に取って、レジに並ぶ。
「レジ袋ご入用ですか?」
「お願いします。」
店員さんからの問いに答えて、自分の足に視線を移す。宇宙の成長が止まったようだった。
「218円です。」
トレイに百円硬貨を3枚のせて、お願いします、と言うと、宇宙はまた僅かに小さくなったように見えた。
「72円のお返しです。ありがとうございました。」
店を出た時、宇宙はふくらはぎの中程まで引いてきていた。私はひとまず安心して、ゆっくり歩いて帰ることにした。
しかし雑踏の中を歩くうち、宇宙は先ほどよりも勢いを増して、私の体を再び呑み込み始めた。
「なんで……?」
そんな疑問も虚しく、宇宙は私を呑み込み続ける。ふくらはぎ、膝、太もも、下腹部、左足のふともも、ひざ、ふくらはぎ、くるぶし、つま先、腹部、胸部、肩、首、腕、手首、手、指先。体の部位はすべて名前を失い、私は頭を残したまま、宇宙で歩き、宇宙で息をして、宇宙で地面を蹴りながらワンルームの自分の部屋までなんとかたどり着き、宇宙で鍵を開けて、宇宙でドアノブを掴んで、宇宙を部屋の中に入れようとした。
しかしそこに部屋はなかった。
幾万の星が私に向かって瞬き返した。そこは宇宙だった。私は戦慄し、逃げようと思ったが、宇宙が凍りついたように動かず、逃げることも叶わなかった。冗談じゃない、宇宙になるなんてごめんだ、宇宙になんてなりたくない。宇宙は私の目と鼻の先にまで迫ってきていた。宇宙の上を冷たい汗が滑り落ちるのを感じた。誰か声をかけてくれないだろうか。この際勧誘でもセールスでも構わない。私は宇宙を見開いて辺りを見渡したけれど、周りには誰もいなかった。宇宙を使ってこの状況をなんとかする術を考えようとしたけれど無駄だった。ああ、すぐそこに宇宙が迫ってきている。宇宙が宇宙を吸収して、宇宙は宇宙になってしまう。宇宙はそんなのごめんだ。宇宙になんてなりたくない。なんでこんなことになったんだ。宇宙はどうすればよかったんだ。
わからなかった。だってもう宇宙になっていたから。あのあと宇宙の中でいくつか星が生まれたような気もするけれど、それがどんな心地のすることだったか、もう思い出せなかった。