水底へ

浅瀬は陸と海の狭間で、私は大体いつもそこにいた。就活をしていた頃も、大学生の頃もそう。大人になろうにも指針を決めきれなかった私は、ずっと浅瀬にいた。海原に出る勇気も欲望もなく、かと言って陸はなんだか居心地が悪かった。

「大学院行ってどうするの、研究者になるの?いいな〜 私、仕事辞めてまでやりたいことないからさ」

前の職場の同期は、優しくて気の良い女の子だった。私には別に、そんな大層な理想や指針などなかった。あの時の私は、ほとんど天啓のように学問に縋ったが、別に確信などなかったし、今もない。

ただ、憧れだけがあった。

沖の方はきらきらひかって綺麗だった。私は、その先生の書く言葉や、その先生の話す言葉や、その先生の言い淀みや、なんであれ、その先生から発されるあらゆる言葉に取り憑かれていた。何かに惹かれることや、その何かに惹かれたまま、それに近づこうとすることは、浅瀬から沖の方へ、ずんずんずんずん歩いていくのに似ていた。綺麗、あんな風になれたら、一体どんなふうに世の中が見えるのだろう。私も、先生と同じものを手にしてみたい、そうしたら私も、先生と同じように世界を見られるに違いない。そうしたら、もっと─。

初めはほんの軽い気持ちだった。学問の全てを手にできるはずなどないとわかっていたし、そうわかっているからこそ、惹かれた。自分の手にできないものこそ、途方もなく美しく見えるのが常だった。弁えているのだから、別にいつでも引き返せる、いつでも引き返せるのだから、ここに大きな決断はいらない。
踏み出せばいい。数センチの浅瀬から、数十センチの浅瀬に行くだけだった。初めは。

取り返しのつかない瞬間というのは、そうとは気づかないうちに訪れるものなのだ。あとから振り返ったときに、あのときにああしていれば─なんて思う「あのとき」は、そのときには全く気がつけないものだ。
いつでも帰れる、そう思いながら私は歩いた。何度も砂浜の方を振り返って、その度に、別にいつでも帰れる、帰りたいかどうかは置いておいて、いつでも帰れる、そう唱えていた。

だけど、気がつくと水底を歩いている。陽光が海面から水底へ差していてきれいだけれど、もっと歩いたら、これもなくなるだろう。海の底はもっと暗くなる。水底に先生はいない。先生の研究室にある本を全て読んだとしても、私は私でしかないと、いつの間にか気がついてしまっている。なのに、もう戻るなんて考えられない。
別に、いまも戻ろうと思えば戻れるのだ。自分の足で。戻ったところで何にもならないというだけで。取り返しのつかなさを決めているのは私なのだ。戻るにはあまりにも、たくさんの呼吸をここでしすぎたように思う。
深海にいる魚は深海でしか生きられないんだろう。どういうわけか、昔よりも息がしやすくなっている。進んだら進んだ分だけ、楽になることがあるなんて驚きだった。
べつに、いまも全てが手に入ると思い上がったわけではない。海は広大で、私はたった一人だし、歩くのも早くない。

ああでもなんだか、こんなに長く水底を歩けたことは、未だかつてなかったかもしれない。先生は気まぐれのように、私に向かって「研究者、向いてると思うけどね」と言った。でも、向いてるなんて思ったことは一度もなかった。私は、なにか、私自身の、まぬがれがたい何かのために、あるいは何かのせいで、学問をやっているように、この深海を歩いているように思えてならなかった。

私は、この深海を歩いているうちに、自分自身のいろんなことが書き変わっていくのを感じていた。傲慢で社会性のなかったはずの私には、友人ができ、先輩ができた。自分が何も知らないんだと絶えず思い知らされ続けるこの場所にいると、どんどん謙虚になっていくようだった。アルバイトも部活も、3ヶ月と続かなかった私が、気付くと1年そこにいた。

大学を卒業するときは、研究など絶対にごめんだと思っていた。それもなんだか今にして思えば間抜けな話である。自分のことをそうと知らない深海魚が、陸で生きていけると思い込んでいたにすぎない。当時の自分が苦痛に違いないと思っていたはずの、研究に関わるほとんどのことが、どういうわけか楽しくて仕方がなくなってしまっている。ずっとこのままというわけにいかないことは、理解しているつもりだけれど、それでも、こんなに鮮烈な日々が、私の人生に未だかつてあっただろうか。

それもこれも、私は先生に出会ったおかげのように思えてならなかった。
でもこの認識も、どうにも揺らいでいる。
宇多田ヒカルの「光」という曲の中に「君という光が私を見つける」というフレーズがある。
「私が光を見つける」のではなく、「光が私を見つける」としたところが秀逸、と、誰かがどこかで褒めているのを目にしたことがあった。私の認識の揺らぎは、まさしくこれだった。

私は、先生に出会い、先生の学問に魅了されてこの深海までのこのこ歩いてきたとずっと信じていたけれども、本当は違うのかもしれない。
荒唐無稽で呆れられるかもしれないが、最近は、学問が私を見つけたように思えてならないのだ。
このようにしか生きられない私の前に、深海が、そうと気づかれないように手をこまねいていたのではないか。私はそれに誘い込まれ、自分自身でここまで辿り着いたと思い込んでいる1匹の深海魚に過ぎないのではないか。

見つかったのも救われたのも、私の方なんだろう。そうわかった上で、私はまだ歩いている。

水底へ。
私もいつか誰かを見つけるかもしれない。
その誰かも、ほかの誰かを見つけるかもしれないし。
もっと深い水底へ。
私がこれから成していく学問が、誰かを見つけますように。

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