背骨
健康診断の時や、何かの理由で整骨院を受診すると、時々レントゲンを撮りましょうと言われ、診察室でわたしの骨の写真と対面することがある。初めての時は、どういうわけだか、そのレントゲンに写るわたしの背骨に見惚れていた。高校生の頃のことだ。ああ、わたしにも背骨があるんだ、そう思った。身体の真ん中を通る支柱は私自身が直接見ることはできないけれど、たしかにわたしの中に存在している。なんとなく、滑らかなんだろうと思ったことを覚えている。わたしの背骨。頭から腰まで、積み木のように積み重なって連なり、わたしを組み上げるもの。これがあるから、わたしはわたしの背筋をぴんと張ったり頭を下げたりできる。それを横切るように、内臓を守るみたいにいくつも写っている肋骨。
レントゲン写真と対面するたびに、わたしは幼い頃の、曽祖父の葬式を思い出す。火葬場から戻ってきた曽祖父の遺体は骨と歯だけが燃え残り、拾い集められたあと、小さな壺に仕舞い込まれていた。幼いながらに、あんなに小さいところに全て納まるのかと驚いた。人間というのは、ほとんどがたんぱく質でできているから、燃えたらあれくらいしか残らないのだ。バラバラになって、組み上げるものも繋ぎ目もなくなった骨は、無秩序に骨壷に詰め込まれて、人の形をとっていた頃の跡形もない。曽祖父の骨は、わたしのそれと大差ない成分でできているに違いないのに。
診察室で対面するわたしの背骨は、猫背のせいなのか、いつもすこし曲がっている。適当に、運動してくださいねとかお医者さんに言われて、大抵はそれっきりだ。わたしの体の中にあるのに、わたしは診察室にいる間しか、わたしの骨を見ることができない。まるで誰かに組み上げられたかのように、秩序を持って並ぶそれらの骨は、わたしが火葬場で見たものとは違っている。肉体を失うというのは、そこにある秩序が失われるということなのだろうか。診察室のドアをそっと閉めてから、わたしはわたしの体に触れる。手首から枝分かれするように伸びていく骨、指の関節、わたしの顔、わたしの顎、わたしの首、それからわたしの背骨。確かにそこにあることを確認するかのように、背中から首に向かって指を滑らせると、指先がごつごつしたでこぼこに触れるのがわかる。曽祖父が亡くなった後、わたしは幾分か背が伸びて、それから猫背になった。幾分か背が伸びたわたしはいつの日か、と時折思うようになる。仄かに紅く見えた骨片、その単なる集合体に、わたしもいつの日か。だけど今日ではないのだと、体越しに背骨をなぞるのが、いつのまにか癖になっている。