雑司が谷散人の街道遊歩 0917
日光街道 4日目-04 2019.8.20
茶屋新田の日光街道旧道は、古河城主永井氏によって松が植えられ、中田の松原として知られた。
最盛期には小金井付近まで続いたという。
今は松は失われたが、幅広い歩道が並木敷の痕跡という。
日光街道旧道は原町に入る。
自治会館先の交差点角に、祭礼道を示す標柱が立つ。
ここは古河城下の南の入口となる原町木戸の跡地で、城下の雀神社の祭礼の際、旅人が城下に入らずとも済むように迂回させた道が祭礼道で、交差点を右へ入る道がそれに当たる。
日光街道旧道は、台町三叉路から古河宿に入る。
江戸から9番目の宿で、古河藩の管理した古河三宿(中田、古河、野木)のひとつ。
天保年間の記録では、古河宿の規模は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で、将軍の日光社参の際は、岩槻城、宇都宮城とともに将軍の宿城となっていた。
将軍宿城の際は、多勢の従者を旅籠だけでは収容しきれず、城下の武家屋敷なども割り当てられたという。
古河宿に入ると、すぐ左手に「古河城御茶屋口門址」と刻まれた碑が立つ。
将軍社参の際に休憩所となった茶店があったようだが、ここに古河城の南の入口が置かれ、御茶屋口門と呼ばれた。
将軍の古河城入城の際の入口。