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日常生活のポイエティークと創作
例えば賢い人が作った便利なツールを使うことを消費的ではなく能動的だとセルトーの視点から見ることはできるのでしょうか?
ミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau)の視点からは、「賢い人が作った便利なツールを使う」行為も、単なる受動的・消費的プロセスで終わらず、「能動的」あるいは「創造的」な行為とみなす可能性があります。以下、その理由を整理します。
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コモンズとプレインミュージック
以下では、「総量」や「総生産文化資本」という概念を、哲学的かつ包括的な観点から捉え直す試みを行う。特に近年の社会科学や経済学的議論で重視される「量的拡大」は、いかに文化資本の形成や拡散に影響を及ぼし、またいかなる哲学的根拠づけや問題点を帯びるのかを考察する。ここではフランス思想家(フーコー、ドゥルーズ、ガタリ、ブルデュー)をあえて除外し、エリノア・オストロム(Elinor Ostrom)やヨハイベ
もっとみる総体総量とプレインミュージック
以下の論考では、新たな論者としてエリノア・オストロム(Elinor Ostrom)とヨchai Benkler(ヨchai ベンクラー)を導入しながら、プレインミュージックやアート創作における「総量」や「総体」の問題を考えてみる。
第一部では、エリノア・オストロムのコモンズ理論を芸術創作、とりわけプレインミュージックの文脈に適用する意義を探る。第二部でヨchai ベンクラーの「共有ベースのピア生
総体とプレインミュージック
音楽をめぐる最終的な問いは、文化や技術の長期的進化と、短期的かつ量的な拡大・民主化の間で常に葛藤が起きるところにある。プレインミュージックという概念は、シンプルさと門戸開放を積極的に肯定しながらも、長期的な技術深化や知識蓄積を疎外しうるという懸念と隣り合っている。フーコー的視点や功利主義的議論を総合すると、以下のような論点が浮かび上がる。
まず、功利主義的見地からは、低い学習コストで誰もが音楽制
サウンドアート インスタレーションまとめメモ2. ICCで気になったもの
楽器を作って演奏する。
流体の様子を観察。
紙芝居
発光するブラウン管のTVモニターの前で,正弦波(サイン・ウェーヴ)がスピーカーから発されています.
プレインミュージック フーコー
フーコーにおいて音楽自体が潜在的に規律や権力を内包しているという議論を検討する際、まずは「ノイズに対する秩序づけ」という本質的定義をどう扱うかが問題となる。フーコーの系譜学的視点では、音楽を永遠普遍の本質をもつものとしてではなく、歴史や文化的布置によって変動する実践と捉えることが望ましい。すなわち、音楽が常にノイズへ秩序を与える行為だとしても、その秩序がいかなる社会的力学や政治的意図、技術的基盤と
もっとみるシーシュポスの神話とバガヴァッドギータ 不条理に音を鳴らすと言うこと。 行為の放擲について。 プレインミュージック
アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』(Le Mythe de Sisyphe)は、1942年に発表された哲学的エッセイで、カミュの不条理哲学(Philosophie de l’absurde)の核心を表しています。この作品では、ギリシャ神話のシーシュポスの物語を象徴的なモチーフとして用い、人間の生の意味や不条理への対処について深い洞察を示しています。以下にその内容を詳しく解説します。
背景
社会学・文化研究的アプローチ
社会学・文化研究的アプローチ
社会的実践としての音楽:ハビトゥスと文化資本再考• 参考論者: ピエール・ブルデュー、ティア・デノーラ(Tia DeNora)
ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu, 1930–2002)は、フランスの社会学者であり、特に文化資本、ハビトゥス(habitus)、場(field)といった独自の概念を通じて、社会的階層や権力関係を分析したことで知られて