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プレインミュージック フーコー



フーコーにおいて音楽自体が潜在的に規律や権力を内包しているという議論を検討する際、まずは「ノイズに対する秩序づけ」という本質的定義をどう扱うかが問題となる。フーコーの系譜学的視点では、音楽を永遠普遍の本質をもつものとしてではなく、歴史や文化的布置によって変動する実践と捉えることが望ましい。すなわち、音楽が常にノイズへ秩序を与える行為だとしても、その秩序がいかなる社会的力学や政治的意図、技術的基盤と結びついているかを探ることが肝要になる。音響をコントロールする際の作曲技法や楽譜制度、あるいは楽器製作から録音媒体に至る技術装置まで、あらゆる要素が権力—知のネットワークを形成し、音楽をある形に規定する可能性があるというのがフーコー的な疑いのあり方だ。


プレインミュージックの規律や規範の内面化をそれ自体の問題として認識するとき、単に「簡素な音楽を作る」という行為がどのようにコミュニティ内で価値づけられ、それを志向する人々がいかに自らを律していくかを問うことができる。簡素さをめぐる規範が強く働けば、それは参加者に自主的な規律化をもたらし、複雑な表現を回避し続ける方向へ誘導するかもしれない。一方で、そうした規範が高度な専門家支配や複雑な機材市場からの離脱を促進しているという視点も並行して考えられる。フーコー主義的アプローチが示唆するのは、こうした価値づけや行動様式が一枚岩ではなく、それぞれの音楽実践の場を通じて微視的な権力関係が形成されるということである。

音楽やツールの自作に伴う教育的側面をめぐる論点としては、学習や指導が新たな規範化や監視システムになりうるというフーコー的懸念が浮上する。プレインミュージックの自作ツールワークショップなどでは、専門家によらない民主的な技術獲得やクリエイティブな探究が奨励されるが、その場では「この程度の知識があれば十分」「この程度の簡素さが理想」といった暗黙のラインが引かれる場合がある。このような学習の現場における指導や評価、コミュニティ内の合意形成が、知らぬ間に新たな権力—知メカニズムを形成してしまい、個々人の創造をある方向へ統制する可能性は否定できない。たとえば自作が推奨されること自体が価値として定着すると、逆に既製品を使う人が周縁化されるかもしれず、そこにも微妙な正常化と逸脱の境界が生じうる。

このような問いは、フーコーが提示した規律権力やパノプティシズムの概念と関連しつつ、プレインミュージックの学習・実践コミュニティをもう一度批判的に見る契機となる。言い換えれば、ある種の自由や解放を旗印にする実践が、同時に別の束縛や規範を創出していないかを検証するのがフーコー流の視点である。そして、教育や自作ツールによる民主化は、資本主義的囲い込みや専門家独占に対抗する一方で、新たな内面化された規律へと接続する恐れがあるとする見方は十分成り立つ。よって、フーコー的視点からは「プレインミュージックがもたらす学習や創作の自由は、いかなる規範・権力関係を同時に伴っているのか」という問いを立てることが意義深い。そこでは単にシンプルな音楽か複雑な音楽かという二択ではなく、社会的・歴史的装置としての音響行為の全体を捉え直す必要がある。

ここで生まれるさらなる問いは、実際に教育の現場で自作ツールを学ぶ過程やプレインミュージック指向のコミュニティがどう自己組織化しているか、そしてそこにどのような評価制度・序列化メカニズムが潜むかという具体的な観察が可能かということである。これをフーコー的系譜学の手法で探究すれば、表面的には自由で平等に見える場でも精密な権力—知の編成があるかもしれないし、あるいは逆に多様な抵抗や逸脱が絶えず起こっている様相が見えてくるかもしれない。

結論として、この問いは十分に意味をなしているといえ、フーコー主義的なアプローチが本質を否定する意義もそこにある。音楽を本質的にノイズを秩序化する行為と断定せず、歴史・文化的な条件の中で、規律がどのように具体的制度や価値観として定着し、逆にどのような抵抗や逸脱が起こりうるかを動的に見極めることが、プレインミュージックの教育的意義やその内在する権力構造を深く考察するための一歩となる。

音楽をノイズに対する規律行為とみなし、それゆえあらゆる音楽が秩序付けの装置として機能しているという仮説を軸に、プレインミュージックにおける規律や抵抗、学習やツール自作に関わる諸問題を考察する際、フーコーの『監獄の誕生』における規律権力やパノプティシズムの概念が多面的に活用できる。以下では、いくつかの観点を示しながら批評や批判を交え、超高度な研究レベルで論点を整理する。まずノイズと音楽の関係を歴史的文化的文脈で検証する問いから始め、プレインミュージックの「未熟さ」「シンプルさ」をめぐる抵抗と規律の二重性に注目し、最終的には学習や教育の観点までを包含して論を展開する。

音楽そのものがノイズを秩序化する行為であるという視点は、表面的には万人に共通する普遍的定義のように聞こえる。しかしフーコー的な系譜学からすれば、それは歴史的に形成された認識枠組みの一つであり、必ずしも音楽全般の静的な本質には還元されない。ある文化や時代においては、音楽とノイズの境界が大きく異なり、何が秩序的音響で何が純粋な混沌かの判定自体が権力—知の配置に左右されてきた可能性がある。したがって、音楽を「ノイズへの規律化」とみなすことは大枠では理解しやすいが、それを絶対的普遍原理として語るのは歴史的多様性を捨象する危険を伴う。

プレインミュージックを未熟な規律化、あるいは未洗練なノイズとの接触点として捉えるアプローチは、ある種の「抵抗」や「逸脱」をそこに見ようとするが、その抵抗の対象が曖昧であれば命題自体が洗練を欠くと批判されるかもしれない。フーコーに即して言えば、抵抗は常に権力構造の内在点で生起し、権力と同時に存在する。つまり、プレインミュージックが音楽一般の規律性に抗う抵抗であり得るかどうかを問うには、まず音楽規律の具体的メカニズムや、それが歴史的社会的にどう機能しているかを体系的に分析する必要がある。その分析なしに「未熟なノイズ」はただのロマン主義的散文になりがちだという批判も成立する。

フーコーの規律権力という観点からすれば、ノイズの秩序化が身体の訓練と標準化を含むなら、プレインミュージックはその訓練に抗う運動か、または別の訓練を行う運動かに焦点が絞られる。たとえば高度専門知識を要する複雑な作曲技法を回避し、誰でも即興的に音楽を作れる場を構築することは、従来の権力—知による序列化からの脱領土化として評価できる。だが同時に「シンプルさ」を倫理的美学的価値とみなし、それを他者に推奨する段階で新たな規律や範例が形成される可能性をフーコー的視点は示唆する。シンプルな音楽を作れない者は「ノイズを抜けきれない未熟者」と見なされるかもしれないという懸念が生じる。

音楽の規律性を本質化する立場へのフーコー流応答としては、「音楽の規律性もまた特定の権力—知関係が歴史的に編成した結果である」という指摘が可能になる。たとえば西洋音楽理論における音階や和声体系、楽譜記譜法、あるいはコンクール制度や配信プラットフォームのランキングといった媒体が、何を秩序であり何を混沌とみなすかを強く規定する。プレインミュージックが未熟な要素や素朴なノイズをあえて残す場合、それはこうした歴史的に定着した音楽制度への破壊や攪乱を含意するかもしれない。ただし、その反抗は必ずしも脱権力的ではなく、新たな規律の萌芽とも結合する。

その点で、プレインミュージックが未熟さや雑然とした音響を活用することが専門知からの脱領土化と言えるかどうか、逆に何らかの新たな基準を形成して「シンプルこそ善」となる再領土化が起こりうるかが論点として挙がる。これに関し、オンラインコミュニティやSNSによる自己表現の仕方がパノプティシズムとどう結びつき、ユーザーがシンプルさを期待される圧力を感じるようになるかを検証する研究も考えられる。これらの事象がまさにフーコーの言う可視化と評定による規律装置として機能する例と言えよう。

さらに、プレインミュージックやツール自作の教育的側面をフーコー的視座で捉えれば、従来のブラックボックス化されたハイテク楽器や難解な音楽理論への依存から逃れるための学習プロセスが、逆説的に「これだけ覚えれば誰でもシンプルな音楽が作れる」という別種の標準的知識体系を確立するシナリオとして描かれる。これが学習者を助ける一方、新たな規律を課し、誰がより忠実にこのシンプル音楽作法を再現できるかという序列や評価が暗黙に働くかもしれない。この自己規律と評価指標の成立過程をフーコー的に掘り下げる研究は、実際の教育現場やコミュニティ活動の観察を通じて行える。

以上から、プレインミュージックをフーコーの規律権力論やパノプティシズム観点で再考する際、音楽一般の規律性やノイズ制御本質論といった壮大な問題に接続しうるが、フーコーが本質を否定する傾向にあることを踏まえれば、歴史的多様性や社会的文脈、技術的条件を考慮しつつ、プレインミュージックの特殊な場で起こっている権力—知関係を丹念に拾い上げる必要がある。音楽がノイズに何らかの秩序を与える行為であっても、その秩序がどう生成され、参加者がどう内面化し、またどのような教育的インフラや道具立てを通じて維持されるかは、決して一枚岩の本質論では語れない。そこにはフーコー的観点が示す通り、規律への抵抗や脱領土化の可能性が常に内在し、同時に新たな規範化や再領土化が並行するという動的構造がある。それゆえ、プレインミュージックを研究対象とする際には、ノイズと秩序の相克や、シンプルさが生む規範性、そして教育が生み出す別種の標準化装置といった複層的観点から考察することが望ましい。



1. 音楽そのものがノイズへの規律行為として成立しているという仮説は、歴史的・文化的視点からどのように検証できるか。音楽が常に秩序を付与する装置として機能しているとすれば、その具体的メカニズムはどう分析されるか。
2. プレインミュージックを、未熟または未洗練な規律化によるノイズとの接触点として位置づけるとき、そこに見られる「抵抗」や「逸脱」とは何に対する抵抗であり、どのような政治的・美学的効果をもたらすのか。
3. フーコーの規律権力論から言えば、ノイズを秩序化する行為が「身体の訓練」「標準化」「正常化」を伴うならば、プレインミュージックはそれらを解体する運動なのか、あるいは別様の規律を導入する動きなのか。
4. 音楽を本質的に「ノイズを秩序へと収束させる行為」とみなす立場に対し、フーコー流の歴史的系譜学はどう応答するか。音楽の規律性を本質化することは、歴史的・文化的多様性を捨象しないか。
5. プレインミュージックがあえて未熟さや逸脱を残すアプローチをとる場合、それは専門知識からの脱領土化として評価できるか。それとも、別種の規範を形成してユーザーを自己規律へ誘導する新たな装置となる恐れがあるのか。
6. 音楽という行為自体がノイズの制御として権力を行使しているとすれば、「未熟なノイズ」を積極的に活用するプレインミュージックは、権力構造を逆手に取る戦略と言えるのか。それとも、単に異なる様式の秩序立てを行っているに過ぎないのか。
7. 教育や学習の側面から、プレインミュージックがツール自作や簡素な手法を推奨する際、新たな「正統的知識」となるマニュアルやガイドラインを作り出すのは不可避か。その場合、初心者は再び規律的学習の対象として内面化を強いられるのか。
8. ノイズへの規律行為としての音楽が普遍的に存在するとしたら、音楽的抵抗や逸脱は常にシステム内部での変容として終わる可能性が高いのか。それとも、プレインミュージックのような実践は根本的にシステム外部へと連結するのか。
9. パノプティコン的視点を導入するなら、プレインミュージックのコミュニティやオンライン評価システムはユーザーをどのように常時可視化し、評価が自己規律につながるのか。その可視化がプレインミュージックのシンプルさを促進するメカニズムになっていないか。
10. フーコーの分析をさらに押し広げ、プレインミュージックにおける抵抗が本当に「音楽の規律性」への根本的反発であり得るのかを問うために、どのような実証的・理論的研究が必要か。学習者の自己報告、コミュニティ内の規範化、オンラインプラットフォームのアルゴリズムなど、どのような領域で観察を行えば抵抗と規律の相克が浮かび上がるのか。

(1) 音楽そのものがノイズへの規律行為として成立しているという仮説は、歴史的・文化的視点からどのように検証できるか。音楽が常に秩序を付与する装置として機能しているとすれば、その具体的メカニズムはどう分析されるか。

この問いを検証するには、音楽を不変の本質に還元しない歴史的系譜学的な調査が求められる。例えばヨーロッパのクラシック音楽理論は、リズムと和声の厳密な制度化によりノイズを秩序へ編み込む装置として機能してきたが、一方で即興重視の非西洋音楽やノイズミュージックでは音と秩序の境界が異なる。よって音楽の構造や理論的制度(楽譜、調性、拍子など)と社会的慣習(演奏会場のしきたり、教育制度など)を丹念に追跡し、そこでノイズがどのように規律され、正当化されているかを具体的に示すことが歴史的検証の手がかりとなる。音律・拍子・形式がどう生まれ、それがいかなる制度(宗教儀礼、貴族文化、ラジオ放送など)と連動し、音響を「音楽」として整序してきたかが分析対象となり、結果として「音楽=ノイズへの秩序付与装置」という命題の歴史的妥当性を検証できる。

(2) プレインミュージックを、未熟または未洗練な規律化によるノイズとの接触点として位置づけるとき、そこに見られる「抵抗」や「逸脱」とは何に対する抵抗であり、どのような政治的・美学的効果をもたらすのか。

プレインミュージックが既存の複雑な理論や高度機材に対抗する姿勢を示す場合、その抵抗は専門家独占や商業音楽市場など「高度に組織された音響規律」への批判として読み解ける。プレインミュージックが目指す簡素さや即興性は、技術支配や市場ロジックによる拘束を逸脱しようとする政治的身振りを伴いうる。ただし、それが社会全般の価値観やヒエラルキーから本質的に逸脱し得るかは疑問であり、美学的には「粗削りさ」「DIY精神」などの象徴的効果が強調されるが、同時に別のコミュニティ基準を形成し、そこでの序列化を生じさせる可能性も考えられる。よって「抵抗」は必ずしもシステム外部への逃走でなく、システム内部で別種の規律を持ちこむ戦略と言える。

(3) フーコーの規律権力論から言えば、ノイズを秩序化する行為が「身体の訓練」「標準化」「正常化」を伴うならば、プレインミュージックはそれらを解体する運動なのか、あるいは別様の規律を導入する動きなのか。

プレインミュージックが、複雑な高度技術への依存や音楽的権威構造を解体しようとする姿勢を打ち出すなら、それは既存の規律を部分的に解体するプロセスとみなせる。一方で、フーコー的視点は「絶対的な脱領土化は同時に再領土化を伴う」点を強調する。すなわち、プレインミュージックがシンプルさを美徳として掲げる場合、新たな標準化や自己規律が潜在的に発生し、作り手は「こうあるべきプレインミュージック」の規範を内面化する。したがって解体と再編の両面が併存する運動である可能性が高い。

(4) 音楽を本質的に「ノイズを秩序へと収束させる行為」とみなす立場に対し、フーコー流の歴史的系譜学はどう応答するか。音楽の規律性を本質化することは、歴史的・文化的多様性を捨象しないか。

フーコー的系譜学は「何かの本質」を先験的に設定せず、音楽がある時代・社会・制度の中でどのように編成されてきたかを追跡するだろう。各文化・各時代でノイズと音楽の境界が異なる可能性があるならば、「音楽=ノイズへの規律化」を普遍的原理として提示すること自体、ある限定された文化圏の特殊性を普遍化してしまう危険がある。よって歴史的・社会的・技術的条件の文脈で「どのようにノイズが音楽化されているか」を具体的に検証し、複数の系譜を比較することで本質主義的単純化を回避するのがフーコー流の応答となる。

(5) プレインミュージックがあえて未熟さや逸脱を残すアプローチをとる場合、それは専門知識からの脱領土化として評価できるか。それとも、別種の規範を形成してユーザーを自己規律へ誘導する新たな装置となる恐れがあるのか。

両面があり得る。プレインミュージックを実践する人々が、高度な理論や装置を必要としない音楽創作を選ぶことは、複雑さや専門支配への抗いとして評価できる。だがフーコー的には、どのようなコミュニティでも新たな規範やヒエラルキーが生まれうる可能性があり、「シンプルさ」の価値を推奨するマニュアル、チュートリアル、コミュニティ規範がユーザーを新たに規律化するルートを作り出す。したがって一方では専門知識からの脱領土化、他方ではシンプルさへの再領土化の同時進行という複雑な力学が想定される。

(6) 音楽という行為自体がノイズの制御として権力を行使しているとすれば、「未熟なノイズ」を積極的に活用するプレインミュージックは、権力構造を逆手に取る戦略と言えるのか。それとも、単に異なる様式の秩序立てを行っているに過ぎないのか。

フーコー的枠組みでは、抵抗は必ず権力の内部で生じる。プレインミュージックがノイズを温存することは、既存の調性や高度技術による整理に対して一種の攪乱を起こすと読み取れるが、それが根源的に権力構造を破壊するかどうかは別問題である。多くの場合、ノイズを活用する実践は別の秩序へ接続し、そこでも特定の価値観や選好が規範化されるため、単なる様式の置換に留まるおそれがある。より徹底的な抵抗として機能するには、コミュニティのルールや評価の仕組みを含めた包括的な変革を伴わなければならない。

(7) 教育や学習の側面から、プレインミュージックがツール自作や簡素な手法を推奨する際、新たな「正統的知識」となるマニュアルやガイドラインを作り出すのは不可避か。その場合、初心者は再び規律的学習の対象として内面化を強いられるのか。

フーコーによると、学習や教育の装置は「試験」「監視」「序列化」「正規化」と密接に結びつく。プレインミュージックのコミュニティでは、ブラックボックス化や専門技術の独占を回避しようとする一方で、その場での「最小限の知識」「初心者向けマニュアル」が共有されれば、それ自体が新たな規律の回路を生み得る。初心者はそのテキストに従うことで安心を得るが、同時に決められた簡素な方法論を内面化し、逸脱を抑制する場合が出てくる。したがって教育は解放と再支配の両義性を孕む。

(8) ノイズへの規律行為としての音楽が普遍的に存在するとしたら、音楽的抵抗や逸脱は常にシステム内部での変容として終わる可能性が高いのか。それとも、プレインミュージックのような実践は根本的にシステム外部へと連結するのか。

フーコー的には、抵抗がシステム内の闘争として捉えられる以上、システムの外部へ完全に脱出するのは困難だと言える。プレインミュージックの逸脱も、ノイズを活用する別の規範を確立したに過ぎないかもしれない。それでも一時的な脱領土化の可能性や創造的攪乱の価値を過小評価してはならない。システム内部での変容が新たな音楽文化や美学を誕生させるシナリオも十分あるため、この問いは理論的に開かれている。

(9) パノプティコン的視点を導入するなら、プレインミュージックのコミュニティやオンライン評価システムはユーザーをどのように常時可視化し、評価が自己規律につながるのか。その可視化がプレインミュージックのシンプルさを促進するメカニズムになっていないか。

SNSや配信プラットフォームにおける評価システムは、制作者が再生回数や“いいね”のカウントを意識し、シンプルでフックの強い音を選びやすくなるなどの影響を及ぼす。それはフーコーの言う「常に監視されるかもしれない」という内面化された仕組みを連想させる。制作者は評価を失う恐怖やコミュニティ内での評判を気にして、自己規律的に「プレイン」な要素を強化する方へ向かう。これによりプレインミュージックのシンプルさがさらに強化され、同時に差異的・複雑な表現が周縁化される可能性がある。

(10) フーコーの分析をさらに押し広げ、プレインミュージックにおける抵抗が本当に「音楽の規律性」への根本的反発であり得るのかを問うために、どのような実証的・理論的研究が必要か。学習者の自己報告、コミュニティ内の規範化、オンラインプラットフォームのアルゴリズムなど、どのような領域で観察を行えば抵抗と規律の相克が浮かび上がるのか。

まず、コミュニティ自体をエスノグラフィ的に観察し、ユーザーがどのような価値観を語り合い、どんな基準で「良いプレインミュージック」と判断しているかを分析する必要がある。さらにオンラインプラットフォームのアルゴリズムが人気の傾向をどう計算し、それが創作者の行動にフィードバックをもたらすかの仕組みを解明する情報社会学的調査も欠かせない。合わせて、ユーザーが学習プロセスでどんなテキストやチュートリアルを利用し、それにどう適応し、あるいは逸脱するかを実際に記録・分析する。そうした多層的実証研究が、プレインミュージックがシンプルさをめぐる既存ルールの解体か、それとも規律権力の別形態として再確立される場なのかを浮かび上がらせるだろう。さらに、理論面では、フーコーの生政治概念やバイオパワーとの接合、あるいはドゥルーズ=ガタリ的な脱領土化/再領土化論の活用が考えられる。ユーザーの身体や欲望がどこまでコミュニティの規範を内面化しているか、自己報告と実態観察を突き合わせるような多面的研究が有効となる。

以上の観点を踏まえると、プレインミュージックの実践やコミュニティをフーコー的に分析することは、従来の音楽批評を超えた制度的・政治的・文化的含意を持つ。音楽やノイズの秩序化がいかなる規律や抵抗を孕むか、実証と理論の往還による徹底研究が促される。

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