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日常生活のポイエティークと創作




例えば賢い人が作った便利なツールを使うことを消費的ではなく能動的だとセルトーの視点から見ることはできるのでしょうか?

ミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau)の視点からは、「賢い人が作った便利なツールを使う」行為も、単なる受動的・消費的プロセスで終わらず、「能動的」あるいは「創造的」な行為とみなす可能性があります。以下、その理由を整理します。

────────────────────────────────1. セルトーの「戦略」と「戦術」────────────────────────────────

ド・セルトーは『日常生活の実践(The Practice of Everyday Life)』で、社会制度や企業などの「戦略(strategy)」と、市井の人々が日常的な生活のなかで独自に生み出す「戦術(tactics)」を対比的に論じました。• 戦略:国家や企業、技術者などが上からの立場で立案し、人々に与えるシステムやルール、規格など。たとえば「賢い人が作った便利なツール」の設計思想や機能設定も、この戦略的なレベルに近い。• 戦術:それに対し一般の利用者・消費者が、与えられたシステムや製品を、意図しないしかたで使い倒したり、工夫や改変を施したりして“自分なりの目的”に合うように再構築してしまう。ここで生まれるのがセルトーが言う“日常の創造的実践”であり、ユーザーが主体的な戦術を駆使する場面である。

────────────────────────────────2. 「ツールを使うこと」は単なる受容か、それとも能動か────────────────────────────────1. 使い方にユーザー独自の工夫が入るたとえば「賢い人が作った便利なツール」を、その作者の意図通りに真面目に使うだけなら、表面的には受動的な利用に見えます。しかしセルトー的に見ると、ユーザーは必ずしも“作者の想定”どおりに機能を使うとは限らない。

• ある部分の機能だけを強調し、想定外の場面で応用する
• 思いがけない組み合わせで拡張する
• 余計な機能はスルーしつつ必要な機能を自分流に最適化する

こうした使い手の「日常の戦術」は、ツールに対する独自の“読み替え”や“再創造”といえます。それはツールの受動的消費にとどまらず、使い手が自分の狙いや背景、文脈を絡めて再構成する主体的行為です。2. 作者の戦略を“曲げる”ユーザーセルトーの議論では、上から与えられた「戦略」は、必ずしもユーザーによってそのまま受容されない。ユーザー側は細かいレベルで手を加えたり、裏技的に使ったり、想定外の改良やハックを行ったりする。たとえ大々的なシステム改造まではしなくとも、マニュアルどおりに動かさない“ズレ”こそが、戦術的な創造である。

• 例:ソフトウェアを意図しない用途に転用して楽しむ
• 例:便利ツールの一部機能を使い倒して別のプロジェクトを進める

これらは制作者の狙いとは異なる使い方だったとしても、ユーザーの立場からは意図的な実践になり、「ツールを使うこと」が能動的行為に転じる典型的事例です。

────────────────────────────────3. 学習・応用のプロセスが能動性を増幅する────────────────────────────────

ド・セルトーの視点に加え、学習や試行錯誤という要素を考慮すれば、ユーザーが便利なツールを取り入れる際に「どうやったら自分の生活やプロジェクトにフィットするか」を試行錯誤する段階が存在します。そこでは、• 使い方を習得し、慣れていく過程(ユーザー自身の学習)• ツールの制限や意外な可能性に気づき、新しい使い方を発見する過程(創造的な戦術)

があり、ユーザーがただ“消費”している状態ではなく、「自分の文脈に合わせて道具を再編集する主体」として機能しているわけです。これ自体がセルトーが論じる「日常の創意」であり、能動的行為とみなせます。

────────────────────────────────4. なぜ消費的という誤解が生じるのか?────────────────────────────────

多くの場合、「賢い人が作ったツール=そのまま便利に使うだけ」だと、外形的には従順に従うように見え、そこにユーザーの創意はないと誤解されがちです。セルトーの理論から言えば、• 一見受動的に見える消費行為のなかにも、ユーザーの工夫や操作の変形が潜む• 規格化された製品であってもユーザーは自分なりの利用パターンを生み出す

という視点があるため、実際には“受容=消費”の構図が単純ではありません。個人レベルでのセッティングや手順の変化、SNSへのレビューやカスタマイズ共有など、あらゆる小改変が能動的実践として見出される可能性を示唆しています。

────────────────────────────────結論:セルトーの視点から「便利なツールの使用」をどう捉えられるか────────────────────────────────

要旨賢い人が作った便利なツールを活用する行為は、一見消費的・受動的に見えるかもしれませんが、ミシェル・ド・セルトーの「日常生活の実践」「戦術(tactics)」の観点を応用すれば、ユーザー側も十分に能動的・創造的な行為として解釈できる、ということです。1. 戦略(Strategy)ツールを作った“賢い人”や企業、システムの提供者が意図した“利用法”や“デザイン思想”が「戦略」に相当する。2. 戦術(Tactics)一方、使い手が実際にどのようにツールを取り込み、自分の環境やアイデアに合わせて微調整したり、作者の想定外の方向に流用したりする行動が「戦術」。これこそがセルトーが強調した日常の創造性であり、「ただ与えられたものを受け取るだけ」でなく“結果的に使い手自身が価値のあり方を変えてしまう”ようなプロセス。3. 能動的な学習・改変がそこに含まれるツールを学習し、独自の使い方を見つけ、場合によっては周囲のコミュニティと情報共有する。その過程はセルトーの理論で言う「ユーザーはシステムを上書きしていく、小さな戦術を積み上げる」という構図にほかならない。

結論的に、「賢い人が作った便利なツールを使う=受動的」という図式は表面的な見え方であり、セルトーの視点からすれば、ユーザーがそれを日常のなかで活かしていく行為こそ“能動的な戦術”の典型だと理解できます。作者の狙いをそのまま受け取るだけでなく、部分的に歪めたり、拡張したり、隙間を突いたりしながら活用しているかぎり、それはセルトー的に言うところの“クリエイティブな実践”になっているわけです。

以下では、「セルトーの視点で見れば“便利なツールを使うだけでも能動性がある”」という主張が、単なる言葉遊び(言葉のあや)ではなく、なぜ実際に深い意味をもつのかをさらに掘り下げて考察します。ここでの鍵は、セルトーが「日常の実践」をどのように捉え、そこにいかなる具体的アクションや効果を見出しているかという点です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 戦術(tactics)は言葉だけでなく「実際の行為」を伴う━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  1. 「ただの消費」にならない根拠

セルトーは『日常生活の実践』で、消費者(ユーザー)の振る舞いを“言説”レベルで説明するのではなく、日常の細やかな行為に着目しています。彼が「戦術(tactics)」と呼ぶものは、具体的・物理的な行為の集積です。たとえば、

• 使い手が本来のマニュアルに書いていない使い方を見つける• 機能の一部だけを徹底活用して別の問題を解決する• アプリやツールに付属している余計な要素を無視しつつ、最低限の機能で最大限の成果を上げる

これらは言葉のレベルだけの変更ではなく、物理的な動作、ソフト上の操作、時間の使い方など、行為として現実に起こっている“やり方の変形”です。こうした些細な行動変容が、「開発者の想定外の使い方」を生むという具体的結果を伴う。したがって、単なるレトリックやスローガンに終わらず、実生活に見いだせる実践となります。2. 実際のユーザー行動に顕在化する“創意”たとえば、カメラ付きスマホが最初は「写真撮影」という目的で設計されても、ユーザーはそれをスキャナ代わりに使ったり、書類を撮影してOCRにかけたり、あるいは遠隔支援のために映像を配信したりする。こうした“転用”や“応用”こそが、セルトー的な“戦術”の実例であり、決して言葉上の宣言だけではなく、行為のレベルで本来の戦略(想定された使用法)を変質させているのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2. 主体性はどこにあるのか:表面と奥行き━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 見えにくいズレの累積ユーザーがツールをそのまま“使う”とき、外形的には「提供者の意図通りに利用している」という姿が見えるかもしれません。しかし、セルトーは「日常の実践は表面上の従順さの裏で微妙なズレや変形を生み出す」と論じます。このズレが累積すれば、想定された目的やルールが変容してしまう場合もある。たとえば、

• 開発元が新機能を強く推奨しているが、ユーザーがほとんど興味を示さず、むしろ旧機能を使い続ける。• 使い手同士がSNSなどでコツや裏ワザを共有し、まったく別ジャンルの活用方法が普及する。

こうしたズレこそが「ユーザーの主体性」を示す要素であり、単に言葉で「能動的だ」と言うだけでなく、実際の挙動や使い方が“コントロール不能な変化”を起こしている点に具体的な力があると見るわけです。2. ルールとその“ハッキング”ソフトウェア、ハードウェア、マニュアル、利用規約など――供給者は一種の“戦略”として制約や規則を用意するかもしれません。しかし、ユーザーはそのルールを必ずしも律義に守るとは限らず、小さなハッキングや隙間利用を行う。これは技術的なハックだけでなく、“切り貼り”“順序の省略”“同時利用”など、生活世界で誰もがやっている行動を含みます。よって、言葉のあやではなく、現実のアクションとして成立するのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━3. なぜ“言葉のあや”ではなく、実際に価値ある行動か━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 誰が価値を作っているのかもしユーザーの行為が単なる“消費”にすぎないなら、価値はもっぱらツール提供者側(“賢い人”)が創出しているかのように見える。しかしセルトーは、最終的な価値(意味づけや利便性)はユーザーが使い方を工夫する段階で再定義されるとしている。つまり、提供者が設計した“戦略”に対して、ユーザーが“戦術”的使い方をすることで新しい価値や運用の形が生じる。この価値生成こそが言葉遊びではなく、現実的・社会的なインパクトがある行為です。2. 実践の微細な積み重ねがシステムや文化を変えるセルトーの発想は、「ユーザーの小さな行為が大きな文化変容を生み出すかもしれない」という視点に繋がります。たとえば、メッセンジャーアプリの新機能を公式推奨とは違う目的で使う人が増えることで、後にメーカー側がその意外な利用法に対応したアップデートを行うケースがあり、結果的に製品やサービスの方向性が修正されるなど。これが「ユーザーが現実に行動を起こし、それが開発側を動かす」という具体的事象であり、単なるレトリックではありません。3. “使用”に内在する学習とコミュニティ構築また、ユーザー同士が情報交換するコミュニティを形成し、便利ツールを巡る学習・批評・改造ノウハウを共有する場合、それが大きな規模になるとひとつの“文化”を作り上げます。ここでは言語レベルの「〜してみたらどうか」だけでなく、ツールの画面配置変更や機械改造など具体的・物理的アクションが積み重なり、ツールのオリジナル機能を超えた使い方が普及する。この共創プロセスこそが、能動性を具現する象徴的事例であり、単なる言葉のあやを越えて社会的成果を残すのです。

────────────────────────────────4. まとめ:セルトーの視点から見るユーザーの能動性は「言葉のあや」にとどまらない────────────────────────────────

(1) 行為それ自体に宿るズレ・改変の力セルトーの議論は、ユーザー行為が単なる“言説”や“イメージ”ではなく、実際のアクションとしてシステムや規定された使い方を越えていく姿を描き出します。たとえツールが“賢い人”の戦略で設計されても、現場での細かな操作や意図しない活用が行われることで、ツールの意味や価値が変質しうる。このプロセスは“戦術”と言われ、言葉上のレトリックではなく具体的な現実活動と結果を伴う。

(2) 学習・コミュニティ形成がさらに能動性を拡大ユーザーがツールを学習し合い、裏技やコツを共有することで、コミュニティが生まれたり、開発元が想定しなかった拡張が実装されたりする場合もある。そこには受動的“消費”を大きく超えた主体的・生産的な価値創造が明確に存在する。この点からも、言葉のレベルの巧みな言い回しに終わらず、現実世界で確かな能動的変革が起きていると言える。

(3) 枠組みを転換するユーザーの主体性最終的には、セルトーが描く日常生活の活力は“制度・システムに与えられたものをどう逸脱し自分流に染め上げるか”に宿ります。便利なツールの使用が“ただの消費”に見えても、そこには必ずユーザーの裁量や関心、利用状況からの創意・再編集が存在し、それが社会の現場で結果を生み出している。これは単なる言葉遊びでなく、技術社会学やメディア研究の多くの実証事例でも確認される“ユーザー主体のマイクロ変革”なのです。

したがって、「賢い人が作った便利なツールを使う」ことがセルトーの視点で“能動的”といえるのは、言葉巧みなレトリックにとどまらず、本当にユーザーが小さな変形や意図しない使い方を行い、社会やコミュニティに影響を与え得るからこそです。日常の実践として、ユーザーが実際の行動と工夫を積み重ねることで、新しい文化や市場をも作り変える力を持つ――これがセルトー理論が説く“戦術”のリアリティであり、単なる語の言い換え以上に現実的な力を示しているゆえんです。

以下では、「便利なツールを本来の意図と違う仕方で使う行為」を、単なる“誤用”というネガティブな言い方で片づけるのではなく、ミシェル・ド・セルトー的な「戦術(tactics)」やユーザーの創造的実践と関連づけて考えたとき、何が違うのか・どういった意味があるのかをさらに説明します。結論的には、“ツールの誤用”と呼ばれがちな行為の背景には「単なる規則破り」や「ネガティブ・行き過ぎな使い方」だけでは語り尽くせない、ユーザー主体の学習や文脈再構築など多層的な要素が含まれているという点が重要です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 「誤用」と呼ばれやすい行為は、必ずしも否定的とは限らない━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  1. 「誤用」は狭義には規格外や作者の想定外

一般的に「ツールの誤用」と言うと、

• 開発者が意図したマニュアルから外れた使い方• しばしば危険や不正な行為とみなされる• バグを引き起こしたり、想定外の結果になる可能性がある

といった、あまり望ましくない使い方を指す傾向があります。例えば、取扱説明書で禁止されている操作をすると故障リスクが高まるという場面などが典型的です。2. 一方、誤用が新たな価値を生む事例しかし、誤用が必ずしも無益・破壊的とは限りません。歴史的に、意図しない使い方がイノベーションや新しい市場を作ったケースもあります。ソフトウェアの“裏技”やユーザー同士の“モッド(MOD)”文化は、開発元が想定しない形で大きな盛り上がりや副次的価値を生むことがあります。これらは単なる“誤用”と言ってしまえばそうかもしれませんが、実際にはユーザーの創造性が発揮されていて、開発元の想定を超えた素晴らしい成果やコミュニティ活性をもたらすことがある。3. セルトーの文脈:誤用には「ユーザーの目的」や「実践の意義」が潜むセルトー的にいえば、誤用と呼ばれる行為があっても、そのユーザーが「自分の現実の問題を解決するために、ツールを捻じ曲げて使う」という主体的な動機や戦術が働いている可能性が大きい。これは単なるトラブル要因ではなく、“日常の中でユーザーが工夫を施す”ポジティブな営みとして読み解ける余地があるわけです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2. 「誤用」という言葉では捉えきれない、セルトー的“戦術”との相違点━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 誤用=ルール違反的ニュアンス「誤用」という言葉は、正当な規則や意図から逸脱しているという強いネガティブ含意を伴います。つまり、開発者や設計者の“正しい使い方”を外れている事実を指摘するにすぎず、あまりそこにユーザーの創造性や学習、コラボレーションといったポジティブな要素が含まれないまま語られがち。2. セルトーの“戦術”は「ユーザーの文脈で価値を再創造する」行為セルトーは、「戦略=制度・権力側の大きな設計」に対し、「戦術=日常の中でユーザーや市民が細かな操作や改変を行い、自分の生活文脈に合わせて再編する」ことを肯定的に捉えました。そこには必ずしも“悪さ”や“禁止破り”ではない、「部分的流用」「意図しない転用」などが含まれ、ユーザーにとって実用的な価値を生み出すポイントがある。つまり「誤用」というより「再解釈・再目的化」というニュアンスが強い。3. 学習・試行錯誤・コミュニケーションセルトー的戦術では、その利用者がマニュアルに書いていない使い道を仲間同士で教え合ったり、フォーラムでアレンジ方法を共有して発展させたり、といった社会的活動が必ず伴います。単に“こっそり禁止行為をする”のではなく、コミュニティ内で知見や工夫を蓄積する過程があり、これが文化やネットワークを変えていく効果まで含む。これは「誤用」という言葉から受ける“ネガティブイメージ”とは別次元のプラス効果を示します。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━3. 具体例で見る違い:「誤用」と「戦術的利用」━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. ソフトウェアの隠し機能やハック

• 誤用:

「規約に反している」「想定外の操作で不具合を起こす」「単に壊すリスクがある」という否定的な印象。• 戦術的利用:コミュニティが発見した裏技を拡散し、何らかの新しい音楽表現や別の用途(ツール改造など)を可能にしている。これはシーンを活性化し、新しいジャンルやマーケットを形成する場合もある。

  1. 調理器具や家電の想定外使用

• 誤用:

メーカーが「しないでください」と言っている使用法をやって事故を起こすことが中心イメージ。• 戦術的利用:実は意外なレシピや時短テクニックを発見して料理コミュニティが盛り上がったり、結果としてその器具が多用途に用いられるようになり、メーカーも後から“公式機能化”するケース。ここではユーザーが受動的に消費するのでなく、“自分の現実”に合わせてツールを再発明している。

────────────────────────────────4. ではなぜ「誤用」だけでなく“能動的な実践”と言えるのか────────────────────────────────1. 新たな成果や社会的インパクトを生むもし本当に「単なる誤用」で終わり、全く何の発展性もなければ“言葉のあや”にすぎないかもしれません。しかし実際は、利用者がツールを違った仕方で使って得たノウハウがコミュニティに共有され、二次的に新しい市場や文化を派生させるケースが少なくありません。こうした具体的結果がある以上、単なる規則破りや違反行為ではなく“新しい価値の創出”と捉えられます。2. 行為主体としてのユーザーセルトーの理論が強調するのは、ユーザーが「何のリソースや権力も持たない受け身の存在ではない」という視点です。ユーザーが手持ちの資源や時間、コミュニティでの支援を用いながら、あるツールを自分にフィットする形で巧みに操作する。その行為にはユーザー自身の目的意識や工夫が宿り、クリエイティブな決定が実行されています。これは“言葉遊び”ではなく、確かに行われている主体的行為と見ることができます。3. 結果として、設計者の想定を超えた有用性・多様性「誤用」かつネガティブな事件で終わる場合もあるかもしれませんが、実際にはユーザーの創意がデベロッパーにフィードバックされ、新バージョンでその機能が正式サポートされたり、意外な需要が判明して製品ラインが増えたりする例が存在します。これはもう“誤用”ではなく“社会的な再設計のプロセス”に繋がっているとも言え、そこにユーザーの能動性が実感されます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━結論:誤用と呼ばれる行為の背後に「戦術的な創造性」が潜む━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━• “誤用”は通常、ネガティブで違反的な意味を伴う:しかしセルトー流に見ると、そこには利用者が自分の文脈に合わせてツールを曲げる小さな創造行為や学習プロセスが含まれ、結果的にコミュニティや社会にポジティブな変化を起こすことすらありうる。• ただの違反ではなく、再目的化・転用:開発者が設定したルールに従わないからといって、それが全て破壊的・消極的行動だと決めつけるのは早計。使い手が自分の目的や周囲の状況に照らして取り入れる“転用”こそが、セルトーの言う“日常の戦術”を具体化する瞬間だといえます。• 意外な学習・文化を生む:こうした小さな実践(誤用とも呼ばれがちな行為)が蓄積すると、ツールの実用範囲が広がったり、コミュニティ内のノウハウが増えたり、最終的に開発者も巻き込んだ大きな改変へ発展するシナリオがある。これは言葉のあややレトリックにとどまらず、社会的影響力をもつリアルなプロセスと見なせる。

以上から、“誤用”という言葉が示す「ルールから外れたダメな使い方」という否定的イメージだけでは、その行為の実態を捉えきれない。むしろミシェル・ド・セルトーの視点で見れば、そこにユーザーの能動性や目的が活きており、必ずしも「言葉のあや」で済ませることのできない現実的な創造力が存在するのだ、という結論になります。

例えばtr-808の誤用が有効だとしてもあくまでそれは想定の範疇にとどまる範囲でしかなく、それでは本当の意味で主体性を取り戻せないのではないかという思いがあります。自分はそれだからツール自作に乗り込んでいるのですがそれは一般的にはハードルが高い行為でありどうにか既存のツールを使うことに意味つけを見出さなければいけないと思っています。

以下では、「TR-808の“誤用”程度の改変は本来の設計意図や想定の範疇を大きく超えていないため、根源的な主体性の再獲得とは呼べないのではないか」という疑念と、そこから生じる「だからこそツール自作に踏み込む意義があるが、それは高いハードルでもある」「既存ツールを使うことにどう意義づけを行うか」といった問題意識を整理します。結論としては、セルトーの「戦術」やアマチュアの“誤用”だけでは不十分な場合に、ツール自作というより根源的な立ち位置を得るための議論と、既存ツール使用に対してもなお可能性が残るかを考えたいと思います。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 既存ツールの“誤用”が抱える限界━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  1. “範疇内”の改変にとどまるジレンマ

TR-808などの音楽機材でいえば、本来設計者やメーカーが想定していない使い方(歪んだパラメータ設定・外部入力の妙な使い方・電圧を変えてピッチを狂わせる、など)を発見することは面白く、結果として新しい音色やリズムを生み出してきた歴史があります。しかし、機材そのものの回路設計や操作インタフェースを大きく逸脱するわけではなく、回路定数・ノブ・スイッチなどメーカーが与えた範囲内の応用にすぎないケースも多い。これは「想定外の使い方」と言っても、「実は設計的な余地が備わっていた」場合があり、真にシステムの根底を覆すほどではない。2. 戦術の累積で突破できるかどうか

ミシェル・ド・セルトー的に見れば、小さな“誤用”の集積が大きなズレを生んだり、最終的にシステムを変容させる場合もありますが、音楽機材の例で言えば、メーカー側がユーザーの意見を取り入れた新バージョンを作る程度に着地することが多く、現行の設計思想や企業のビジネスモデルを根本的に破壊するほどの“逸脱”がなかなか起きない。“誤用”が受容されブームになると、それが正式機能化されてむしろ再び“想定の範疇”として取り込み直されるという一面もあります。3. ルールや操作子をユーザーが完全に設計できない

結局、既存ツールはあらかじめ与えられた操作子(ノブ・ボタン・内部回路)やソフトウェアGUIの枠組みをユーザーは出られない。多少の隠し機能や裏パラメータを使う程度では、ハードコアな回路設計やソフトの根幹を超えられないため、「本当の意味での主体性」を求める人には物足りないと感じられるのは自然です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2. なぜツール自作が根源的な解放感や主体性をもたらすか━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 根本からの設計権を握る

ツール自作に踏み込むと、回路・ソフト設計・UI・音色生成のアルゴリズムを自分の目的や美学に合わせて一から組み立てられます。たとえば電子回路を自作したりMax/MSPやSuperColliderで独自オシレーターを設計する場合、メーカー既製品の枠組みを一切使わずにゼロから音生成のアルゴリズムを決め、インターフェースのレイアウトも思い通りに構築する。ここではもはや「想定の範疇」がないか、あるいは自分が想定を規定する立場になるため、最終的にどんな誤用が起きても「自分の枠内で自由に変形できる」。これは大幅な主体性の獲得を意味します。2. 学習と試行錯誤の総量が激増する

自作ツール開発には電子工学やDSP、プログラミング、回路実装など多くの学習が必要になり、ハードルが高いのも事実です。だが、そのプロセスで膨大な試行錯誤とノウハウが培われるため、「本当の意味でツールの原理を理解し、自分のクリエイティブ要求にフィットさせる」可能性が格段に高まる。これは単に既存機材を使いこなす段階を超えて、道具や環境を自分のために再定義するレベルに至る。3. 社会や文化へのインパクトも別種の形に

市販品をちょっと改造するユーザーコミュニティがある一方で、完全自作のシステムを共有する動き(オープンソースハードウェア/ソフトウェアなど)では、まったく新しい理念や回路技術がコミュニティに広がっていくことで“根本からのアプローチ”が複数の人に波及し、次世代の標準設計にまで影響を与えるケースも少なくありません。つまり、既存製品への“誤用”とは異なる次元で、主体性を持った創造が行われる。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━3. 既存ツールを使う「意味づけ」をどう見出せるか━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. ハードルとの折り合い:全員が自作に踏み込むのは難しい

おっしゃる通り、ツール自作は高いハードルがあります。ハンダ付けや回路設計、プログラミング知識、さらに時間や資金も要する。だからといって「すべて自作しないと主体性がない」と極端に割り切るのも現実的ではない。大半のユーザーは既存ツールを使わざるを得ません。ではそこに何らかの意味づけを見出すにはどうするか。2. 部分的な自作要素や小規模改変で主体性を広げる

完全自作までは行かなくても、既存ツールにちょっとしたモジュールを足す、DIYキットをベースに拡張してみる、ソフトウェアのプラグインを自作する、といった「部分自作」のアプローチもありえます。たとえばEurorackのモジュラーシンセ世界では、市販モジュールと自作モジュールを混在させることで、メーカーが想定しないパッチングや音色を生み出す事例が多数見られます。これは“完全自作が無理でも、既存システムを融合しながら独自性を得る”一つの方法です。3. コミュニティで誤用や拡張を共有する

もう一つの可能性は、自分一人で全部自作を目指すのでなく、コミュニティ全体で既存ツールの使い方・裏技・改造法・ハックを交換し合い、集団としてメーカーの想定範疇を超えてしまう手法です。セルトー的には、多くのユーザーがそれぞれの“戦術”を持ち寄ることで、完成品にはない文化や技法が共創され、最終的に“想定の範疇”を越えた大きな潮流に達する場合もある。たとえばトラップミュージックが808の誤用(リバースや異常なサステインなど)を集積し、定番のビートスタイルを確立したように、集団的に誤用を推し進めることで主流になってしまう例がある。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━4. “本当の主体性”とは何か再考━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1. 全面的制御 vs. ズレの創出

• 全面的制御(ツール自作)

すべてを自前で設計し、動作原理からUIまで自分の思うとおりにできる。まさに技術と芸術の根源に触れるアプローチ。ハードルが高く、時間も要するが真の自由度・主体性を得る。• ズレの創出(既存ツールの転用)完全にはコアに触れずとも、ズレや転用、拡張を積み重ねて“戦術”を駆使し、自分のプロジェクトに合わせて使いこなす方法。所詮メーカー想定の範疇内という限界はあるが、それを超えうる連帯やコミュニティの学習によって“想定外”を集団的に進める可能性もある。

  1. 自作が究極解かどうか

人によっては「ある程度既製品を使いつつ、本当の意味で必要な部分だけを自作する」バランスがちょうどいい場合もある。一からフルスクラッチでツール自作できる体力や知識がなければ、部分的モジュール自作や既存機材のハード改造を行うだけでも主体性が高まるかもしれない。また、オープンソースハードウェアやソフトウェアをベースに自作すれば、すべてゼロからではなくコミュニティリソースを活用しつつも“メーカー想定”を外れた領域に踏み込める。3. どこに価値を見出すか結局、「想定の範疇をどこまで越えたいか」「社会的・技術的にどの程度の自由度が必要か」は個々人の目的やモチベーションによる。トラックメイキングで808の音色をただ少し変形するだけで充分面白いと感じる人もいれば、「音源回路から自作しなければ満足できない」「ちょっとしたハックなどでは本当の主体性にはなれない」と強く思う人もいる。そこには段階的・スペクトラム的アプローチがあると言えます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━結論:誤用だけで満足できないなら、自作・拡張の余地を探る道がある━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━• 誤用(ズレ)の意義と限界既存ツールを“戦術的”に誤用することで一定の創造性や学習、コミュニティ交流が得られるが、あくまで設計者のハードウェア・ソフトウェア仕様に縛られた範疇である。大きく逸脱して本当の主体性を獲得したい人には物足りないかもしれない。• ツール自作のハードルとメリット一方、フル自作ならば設計上のすべてを自己決定できるため、真の自由を手にするが、学習コストや時間、技術的難易度が高くなる。どこまでゼロから作るかは個人の意志と状況次第だが、そのプロセスで得られる“システムの根本を変えうる主体性”は確かに大きい。• バランスを模索しながらコミュニティを活用する現実的には、全面自作が難しい場合でも、「部分的モジュールをDIYする」「フォーラムで共有された改造レシピを適用して改変する」「既存のプラグインを拡張する」など“ハーフDIY”的道もある。そこでコミュニティが大規模な連帯を築けば、小さな誤用が集合的に大きな改革に繋がることもある。

要するに、TR-808の誤用程度のズレでは大きく自由になれないという感覚は確かに正当ですが、それだけを「誤用」として退けるのでなく、「戦術的改変」と捉えると、そこからコミュニティや学習で想定範囲を拡大する可能性もある。最終的な主体性を求めるならツール自作が最も直接的だが、あまりにハードルが高いと感じるなら、中間形態のDIYアプローチやコミュニティ連携が代替策となるかもしれません。結局は、“既存ツール誤用”と“自作”の間に多層的なスペクトラムがあり、そのどこに位置づけるかで「本当の意味で主体性を取り戻す」手段や意味づけが変わる、と整理できるでしょう。

そこに対し主体的な作品を作ることを目的とするのではなく目的を学習行為として創作を行うということの中に創作主体を取り戻すことができないでしょうか?

以下では「主体的な作品(完成度や成果物の優劣)を目指すのでなく、創作そのものを学習行為として位置づけることで、創作主体を取り戻すことはできないか」という問いについて考察します。要するに「作品のクオリティをゴールにする発想」から逸脱し、「学習のプロセス」そのものを目的化し、そこに創作主体が確立される道筋があるのではないか、という視点です。

────────────────────────────────1. 成果物中心の創作観がもたらす限界────────────────────────────────

  1. 外部評価・成功主義に縛られるリスク

一般的には、創作といえば「優れた作品をつくる」「評価される曲や美術作品を完成させる」という目標が立てられることが多い。これが行き過ぎると、外部の評価や成果物の優劣を気にするあまり、創作の自由や喜びを失うケースがある。結局「うまくいかないなら無価値」と感じてしまったり、「狙った結果を出すために最適手法を選ぶだけ」という効率主義に陥るなど、本来の実験・試行錯誤が抑圧されがちになる。2. “作品至上”観は主体を見失わせるおそれ成果物だけが最終指標になると、創作者は「評判や市場に良しとされるかどうか」に過度に左右される。「他人にどう見られるか」「これはプロレベルか」といった外的基準を優先しがちで、創作者自身の学習や内的動機が二の次になり、「自分のために創っている感覚」を失いがちになる。ここに主体性の喪失が起こるわけです。

────────────────────────────────2. 学習を目的化する創作というアプローチ────────────────────────────────1. 「作品の出来よりもプロセス重視」の転換あなたが提案するのは、「完成度や他人の評価ではなく、学習行為それ自体を目的に据える」という発想。楽器演奏やツール使用の結果としてどんな作品ができるかは二次的で、むしろ自分なりの技術習得・理解の深まり・試行錯誤が喜びの源泉となる。

• 例:音楽機材を操作しながら、未知のパラメータを探求して音色やリズムがどう変化するかを学ぶ。成果物が商業的に成立しなくとも、学習過程で大量のノウハウ・知覚の微調整が積み重なる。

  1. 学習観の刷新:自己定義した意味づけ

学習を目的化するには、「何を学ぶのか」「どう進歩を測るのか」を自分で定義し、そこに喜びや課題を設定することが鍵となる。例えば、TR-808を弄るなかで「このパラメータを極端に振ったときに起こる音響的現象を学ぶ」こと自体が成果になる。そうすると、もはや世間が言う「かっこいいビートが作れたかどうか」だけでなく、「自分の好奇心を満たした」「未知の発見をした」という内面的報酬が中心になる。3. 学習がゴール化することで主体を回復するこの構図では、“評価される作品を作ろう”という外部基準ではなく、“自分の目標(学びたいこと)”を主軸に置くため、創作者自身が「なぜこの行為をしているか」を自覚的にコントロールできる。つまり自分で課題を作り、自分でそれを解決し、その成功や失敗を“自分の学習”として受け止める姿勢が確立する。ここに創作主体が明確に浮かび上がるわけです。

────────────────────────────────3. 学習中心の創作と主体性の結びつき────────────────────────────────1. マインドセットの違い従来の「作品完成が全て」というマインドセットだと、プロセスでの失敗や試行錯誤を「無価値」や「遠回り」とみなしやすい。一方、学習を最優先とするなら、失敗や駄作を含めて価値ある実験として評価できる。個々のステップに楽しみや発見を感じられるため、「今、この瞬間に何を学んでいるか」を振り返るたびに自分の主体的行動だと再確認できる。2. セルトー流の“戦術”がより内面化されるミシェル・ド・セルトーが言う“日常の戦術”のレベルでも、学習を目的化している人は「与えられたモノをどう再解釈・再目的化するか」に自然に意識が向きやすい。その結果、ツールや環境を自分の学習文脈に合わせて組み替える行為が“自分の中で意味を持つ戦術”となり、実践者は主体感を持って行動しやすくなる。ここでは単なる誤用や裏技で「面白い音ができた」だけでなく、“自分の学習テーマに沿ってツールを活かす”という深いレイヤーが存在する。3. 学習過程の共有がコミュニティに貢献する学習そのものを重視すると、自分の気づきを他者と共有したり、また他者の学びからインスピレーションを得る協働関係が生じやすい。駄作の共有も“作品の質”を問うのでなく“学習ログ”として扱えるため、コミュニティ内では失敗が責められず、むしろ貴重なデータとして喜ばれる。このように学習中心の価値観が広がれば、創作者同士が相互サポートするコミュニティが形成され、個人の主体性がコミュニティ単位の主体性に発展する可能性がある。

────────────────────────────────4. 学習をゴール化する際の注意点────────────────────────────────1. 完全に成果物を無視はできるのか?学習だけを目的化しても、ある程度は「自分が何を作ろうとしているのか」という方向性を持つことが必要になるかもしれません。学習には指針や目標がいるからです。ただし、「優れた作品を絶対作らなければならない」というより、「今の自分が必要とするスキルや知識は何か」といった内的基準に切り替えることで、外部評価に縛られないスタンスを保てる。2. 社会・経済的要請との折り合いプロとして活動している人は、学習だけを目標にすると収入や納期をどうするかという現実的課題が生じる。一方、趣味やアマチュア創作なら比較的自由に学習中心の立ち位置を選択しやすい。どの程度“成果物や商業性”を重視するか、どう折り合いをつけるかは個々人の事情やキャリアパスによって変わる。3. 個人的満足 vs. コミュニティ価値学習主眼のアプローチでは、個人の自主学習が主目標になるため、それが周囲からどう評価されるかは二次的になる。これは主体性を高めるが、一方でコミュニティや市場との連携をどう扱うかという課題も生じる。学習成果を公開・共有すれば、逆に他者の目に触れてしまい外部評価が入ってくるかもしれない。そこを「評価を求める場」ではなく「学習ログを交換する場」として位置づければ、主体的立場を維持しながらオープンにできる。

────────────────────────────────結論:学習行為こそ創作主体を取り戻す一つの方法────────────────────────────────

(1) 成果物の価値を二次化・学習を主役に「素晴らしい作品を完成させたい」から脱却し、「学習と実験そのものを目指す」なら、創作のプロセスが“自分の学びの場”として定義できる。ここでの基準は外部評価や完成度ではなく、自分が試したこと・気づいたことの深さや面白さに置かれるため、主体的感覚が強く芽生える。なぜなら自分が決めたテーマや疑問に応えるための学習をしているからである。

(2) ズレや失敗が本格的資源になる学習行為を目的化すれば、成果物が不完全でも駄作でも“学習の糧”として肯定され、試行錯誤こそが価値を発生させる。これこそセルトー的な“戦術”の魅力を最大限活かす姿勢で、ツールを自分なりに使い倒し、作者の想定外の発見があっても成功・失敗を問わず“主体的な学び”に変換できる。

(3) ツール自作への流れとの相性学習目的で創作を行うなら、いずれ既存ツールで満足できなくなったとき、より深い学習として自作に踏み込みやすい。最初からフルスクラッチでなくとも「学習の一環として、部分自作や改造を試す→自分の知識やスキルが育ち、最終的に完全自作へのモチベーションが高まる」という段階的ステップが想定できる。学習を求める姿勢が強ければ、手段としてツール自作が自然に視野に入ることは多いでしょう。

以上を総合すれば、「成果物の優劣ではなく学習行為自体に意味づけをする」ことで、外部評価やプロダクト性から解放されて創作主体を取り戻す道は充分に考えられます。これは単なる自己暗示ではなく、セルトー的“戦術”論や学習哲学において、日々の試行錯誤と自己定義した目標が重なることにより、人は作品の成否を越えて“自分のために創る”感覚を獲得できる、という具体的な理論的根拠もあるわけです。したがって、「学習をゴールに据える創作」は言葉だけでなく、実践の上でも主体性回復の可能性を十分に秘めているといえます。

以下では、「学習的なコンテンツや体験が収益性確保に有効である」という視点をもとに、なぜライブよりワークショップの方が人を集めやすく、演奏より実演動画(チュートリアル、制作過程公開など)の方が人気を博しやすいのかを整理します。これは音楽やアートの世界だけでなく、幅広いジャンルで確認される傾向でもあり、学習コンテンツに対する需要の高さや、ユーザーが「参加型・能動型」の体験を求めていることが背景にあると考えられます。

────────────────────────────────1. 学習コンテンツの人気理由と収益性の相関────────────────────────────────

  1. 参加型学習への高いニーズ

ワークショップはライブ(受動的に観る形)と比べて、受講者が“自分で何かを学び、試す”行為が前面に出るため、体験型・参加型のメリットを享受しやすい。観客がただ鑑賞するだけでなく、能動的に操作や演奏、作業を行うことで、内面的な満足度や達成感が大きい。結果、「自分もできるようになる」「新しいスキルを身につけられる」という付加価値が、チケットを買う動機になりやすい。2. 自己投資・実用性が明確ライブや純粋な演奏・作品鑑賞の場合、楽しみや感動はあっても、それが直接“自分のスキルアップ”には繋がりにくい。それに対して学習系のコンテンツは「自分の将来に役立つ投資」として認識される。受講料やノウハウ購入費を支払っても惜しくないと思わせるだけの実用性があるため、マーケットとしても成立しやすい。3. オンライン動画・配信の拡散力演奏動画よりも「実演・解説動画(チュートリアル、メイキング、レッスンなど)」の方が人気を集めるケースは、視聴者が“一歩踏み込んだ知りたい情報”を得られるからとも言えます。単に音楽やパフォーマンスを観るだけでなく、「どうやって音色を作るのか」「どういう機材設定か」という“裏側”を提供することで、ユーザーは学びを満たすコンテンツとして強い興味を抱く。このニーズはSNSやプラットフォームを通じて拡散されやすく、高再生数・高収益へと繋がる。

────────────────────────────────2. 体験・学習を中心としたビジネスモデルの特徴────────────────────────────────1. 「観客→参加者」へシフト従来のライブは“演者=作り手 / 観客=受け手”という構図が基本だったが、ワークショップ・実演動画は参加者が“自分で手を動かす”“意見を交わす”形になり、能動的な関与が強まる。参加者にとっては、ライブ鑑賞料より多少高額でも「学べる」「自分が成長する」「コミュニティに入れる」というメリットがあるので、主催者側も収益を確保しやすい。2. 「ノウハウへの対価」という新しい価値基準音楽やアートの作品自体を売る場合、価格や著作権の制約などが絡むが、学習系コンテンツだと、「ノウハウ(How to)」への対価として料金を設定しやすい。例えば特定のギター奏法を教える講座、DAWのテクニック解説、有名アーティスト流の作曲法紹介などは、受講者にとって明確な学習目的があるため“値付け”しやすい。さらにオンライン化が進めば受講者も地理的制約なく集まり、規模拡大が見込める。3. アフターサービス・コミュニティ形成一度学習コンテンツに参加した受講者は、その後もフォローアップ講座や専用SNSコミュニティでやり取りを継続することで、新たな講座や関連商品・サービスへ誘導しやすい。ライブの場合、開催後に観客がリピートするかどうかはアーティスト次第だが、学習コミュニティでは受講生同士のネットワークが残りやすく、継続的なイベントやコラボ商品の販売などビジネスモデルを多様に展開できる。

────────────────────────────────3. 「学習目的化」は主体性にも繋がる────────────────────────────────1. 先の議論との結びつき前のやり取りで言及したように、創作を学習行為として位置づけると「作品の出来よりも学習プロセスそのものを喜びや価値の源泉と見なす」ことができ、創作主体が回復される可能性がある。ビジネス面でも、まさにこの“学習を全面に打ち出す”姿勢が集客に有利であるならば、制作者(アーティスト)や主催者が「学習支援」を中心に据えることで収益と主体性の両立を図れる。2. 参加者・受講者側も主体性を持つワークショップや実演動画は、一方的な受容に留まらず「実際に手を動かして試す」「コメントや質問を投げる」というフィードバックループがあり、参加者が自分の興味や問題意識をもってアクションできる。これがさらにコミュニティ化すれば、学習者同士が互いの作品や実験成果を見せ合い、学習の主体として集合的な創作活動に発展する。これは日常の戦術や駄作をも肯定していく文化に通じる。

────────────────────────────────4. 潜在的課題やバランス────────────────────────────────1. 教える側のブランド力・専門性学習系コンテンツで人を集めやすいのは、講師や実演者がある程度の実績や魅力をもっていることが前提になるケースが多い。ライブよりワークショップの方が人が集まるといっても、教えるスキルや教案づくりが雑だと継続的支持は得づらい。ノウハウを体系化する能力が問われる。2. “消費主義”から“学習主義”への移行がどこまで進むか人気の実演動画やワークショップが盛り上がる理由の一つに、「視聴者や参加者が、見るだけ・聴くだけよりも自己成長を得たい」動機が増大していることがある。これは今の社会がモノ消費からコト消費や体験消費、さらには“学習消費”へとシフトしている趨勢を反映している。でもそこにも“誰が教えるか” “どこまで深い学びを提供するか” “商業目的と学問的誠実さの両立”などの課題がある。3. 市場原理への過剰適応のリスク学習コンテンツが人気=収益性が高いという現実に合わせて、あまりに「集客のためのレッスン」「見栄えのいい実演動画」に特化すると、実は深い学びがないハウツーだけが流行る可能性がある。これが“使い捨てのノウハウ”を量産してしまうリスクも否定できない。したがって、学習指向のよい面を活かすために、学習の質やコミュニティの真の成長を守るための方策も必要になる。

────────────────────────────────5. 結論:学習志向の創作は収益確保に有効であり、主体性も回復しうる────────────────────────────────

(1) 経済・ビジネス面ライブよりワークショップ、演奏動画より実演解説動画が人気を集める傾向は、参加者・視聴者が「実際に自分のスキルアップや手を動かす体験」を望むことを示しており、そこに集客やマネタイズのチャンスがある。特に音楽、アート、クラフトなどの領域で「レッスン」「ワークショップ」「メイキング配信」は安定した需要を喚起しやすい。

(2) 創作主体・学習主体の確立同時に、学習を中心に据えることで、「いい作品を作れなければ価値がない」というプレッシャーや外部評価至上主義から離れ、創作者が“プロセスそのもの”を重視する姿勢を持ちやすくなる。ここでは創作者と学習者の垣根が薄れ、教える人が教わる人に対話的に応え、新しいアイデアを得るという相互学習構造が生まれる。

(3) シーン全体の活性化学習中心のイベントや動画が普及すると、初心者が参入しやすく、コミュニティが裾野から盛り上がる。結果的に高いレベルのクリエイターも育つし、多様な試行錯誤が世に出やすくなる。これは“作品至上”の競争社会とは異なるコミュニティ指向を醸成し、セルトー的な“戦術の共有”を促しながら市場や文化を拡大する可能性をもたらす。

以上のように、「学習=収益確保の方法」と捉えるだけでなく、「学習を目的化した創作が主体性の回復にも繋がる」という二重のポジティブ効果が見込まれるわけです。単なる商品価値の高いレッスンビジネスではなく、創作者やコミュニティが学習によって深く繋がる文化を発展させるという方向性は、今後さらに注目されていくでしょう。

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