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大型書店の中身が変わり蔵書量が激減してた話 / 人の現実、等身大、幻想とは何か

書き始めた時のタイトルは
【幻想が幻想を相対化する】
  「幻想(郷)が幻想(現実)を幻想化(相対化)する」

↑と言う題名でした、厨二臭いタイトルで気に入ってたのに( ´△`)ゲーム東方projectの世界=「幻想郷」と、時代によって大きく違う社会と生活を書けば、「共同幻想論」(読んでない持ってない)みたいな話しに成るのでは?と、思い書き始めた文章です。
それなのでトップ画像は、「幻想」(ファンタジー)がコップの水を通して見え、更にもう一つ水面に映っている。オタク的で気に入っています。でも予想と違う話しになり、タイトルの「幻想」は隅っこにかろうじて残っているだけです。

※「東方project」の話しは有りません。「共同幻想論(未読)」の話しでも有りません。

5年程前からハマっている「東方project」の、2次創作品(同人作品)には「共同幻想」を、意識したと思われる作品が多く有ります。
東方の世界=「幻想郷」は、現代日本の何処かに存在し、結界に封じられて140年程経った設定、多分。だから主人公達以外の普通の人々は、江戸や明治初期の生活を送っています。
そこを「幻想郷」と呼び、現代社会の人物も行き来する世界。それを観て更に2次創作する事は、「幻想の幻想」を作る、自然とそんな感じに成るのだと思います。そう言う作品を、社会生活を送りつつ、同人制作する方達の作品を触れる内に、自分も「幻想」について、何か書きたいと思う様になって行きました。

2025/1/9追加補足

秘封を好む人達は「幻想とは何か」この傾向が強い、余り秘封に詳しくないけど、幾つか見た感じだとそう思う。
幻想郷と現代はストーリーによっては、互いに入れ替わる「入れ子構造」なのに、そこに未来なのか、並行世界なのか、境のハッキリしない物語が描かれれば、日常系、叡ッ智系、を除けば幻想が幻想を幻想化する様な、方向性しか無いのだと思う。秘封の2次創作を見ると、「フラクタル」が頭に浮かぶ。(オタクが知ってるだけの言葉を並べた文章です、そーなのかー程度で、お願いします)

※東方projectの話しはここで終わりです。
※普段から思想、哲学書を読む人という訳ではありません。読んだとしても、それらを解説した、読み易い本を読む程度です。


「吉本隆明「共同幻想論」を買いに本屋へ」

名前は知ってますが「共同幻想論」を読んだ事が無いので、記事を書いてから読むか?読んでから書くか?どっちにしようかと思い、取り敢えず先に買って置くかとなり。
有名な本だし本屋に売っているだろうと思い、仕事帰りにデカいTSUTAYAに、久しぶりに行って来ました。(超大型では有りませんが、CD販売、レンタルは隣の別棟に有るので、この棟では主に本の販売をしていた)

この店は、数年前(2015年でした)にオープンした、良い意味で堅さが有る「書店」、と言った感じのデカい本屋だった。自分には一生縁が無いだろうな、と思う様な難しそうな本や、やたらデカく厚い本も有り、哲学、思想、宗教、図鑑、写真集コーナーには、誰がここで買うのだろうと思う様な、本が充実した店で、色々と見ている内に、腹が痛く成ったのを覚えている。
(「ここで買うと」書いたのは、ここは76万人の市で、車の通行量は多い。でも合併前は人口数千の町でした。だからこの店は損得の前に、TSUTAYAが本屋としての存在意義を優先した、特別な意図の有る店なのかな?と、当時は思いました。)

「記憶に在る本屋と全く別の中身に成っていた」

久しぶりのその店に入って驚いたのは、大きく成った日用雑貨コーナーに削られ2/10程と、壁に仕切られた休憩場で1/10程度、あとタリーズコーヒーで1/10?程度だろうか。本のコーナーは大きく削られていた。
本を探しても見つからず歩き回る内に、コーヒーの匂いに釣られ、今度は別の要素で腹が痛く成りさっさと帰った。(でもコーヒーは好き、飲み過ぎだろうか?)

前は店内に在庫検索パソコンが3〜4台有ったと思う、それらは無くなって、哲学、思想、宗教のコーナーは縮小して、読み易いカジュアルな本しかなく、本当に本当に少しだけしか置かれて無かった。(幅90×高200cm程の本棚1台の中に哲学、思想。昔は4×4で向き合い8台は有ったと思う)

本が本屋で売れないのは分かる、自分もついアマゾンで買って来た。まぁ自分の影響力なんて、限り無く0に近いのだけど。
ここに載っている「My書店」と言う機能は、地元の小さな本屋に、どの程度効果が有るのか分からない。それでも何冊か纏めて買う時は、My書店を通して買う様にしています。

自分は読書家と言う程、本を読む訳では無いし、人に本を勧める事も無いし、誰でも本を読むべきだとも思っていない。

「難しそうな本が置かれている効用」

それでも、だけどさぁ、だけどもだけどっ、と言いたく成る。現代社会は古代や中世に比べ、遥かに複雑に成っている。
昔の王侯貴族の様に、一部の人達が支配する時代は良くも悪くも終わった「筈」。だから一定以上の知性と、技術を持った人達が沢山育つ、環境がどうしても要る。

だから本屋や図書館に「難解な本」が存在する効果は、誰も買わなくて売れなくても、そう言う物が有り、そう言う世界と、それを扱える人がいる事、それらに依って成り立つ物事がある。それらを想像させる働きが「図書館、本屋、本棚」の存在に有ると思っています。

本棚と書いたのは中学の頃、遊びに行った友達の兄の本棚に、本がビッシリと有り(古代中国関連)、随分難しそうな本を読む人なんだな、当時はその程度に思ってました。それから暫く経ち、始めて買った本は三国志の解説書で、その後は中国諸子百家(入門書)を読む様に成りました。今、書きながら思えば「記憶に残る難しそうな本棚」を通して、三国志に詳しい友達と、その兄の影響を受けたのだと思います。

ではどう成れば、現状が変わる可能性が有るのか?自分には可能性の話しすら分かりません。分かっているのは、結局裾野を広く取らないと、だいぶ前に書いた記事の「現実主義のつもりの人達」に書いた、現実だから現実なんだ。みたいな過去と未来を持たない、人達で世の中は溢れて、最後に現実(幻想)は消え去ってしまう。

「バックトゥーザフューチャーの現実観」

映画「Back to the Future」で主人公が作品内で経験した事を、タイムマシーンの無い世界で実践するなら。過去を知れば現在の観え方が変わり、それ以降の行動(未来)は変わる。現在の様々を知り、先を想い描き行動すれば未来は変わる。
作中では条件に因って「現れ実体化」した現実が、写真の中で消えたり現れたりする。現実とは条件に因って現れる事を、子供に分かり易く伝えた作品だったと、この文を書きながら思いました。
過去現在未来を含めて観る、その中で人は何を出来得るのだろうか?沢山の人がそう考えると、現実は変わって行く。(まぁ書くは易しですが、、、)

現実主義のつもりの人達は、「事後」を現実だと思っている。「人」にとっての現実は「過去」と「未来」を含めた「間」に在る。(なんかそれっぽい雰囲気の言葉出て来たので、なんかそれっぽく受けとって下さい)


「人類の生活変化」

自分は高校時代から、人類は原始的生活に戻れるなら戻った方が良いと、割と真面目に思って来ました。
だから高校生の頃にポケベル→PHS→携帯電話の変化が起きましたが持ちませんでしたので、どれも使い方は分かりません。ネットの普及と共に何の実力も無い自分が、意地を張ってもしょうがないと諦め、調べ物が出来るスマートフォンなら欲しいと思い、今に至ります。
ネットの普及も有って幾つかの言葉と経験により、余程の事が無い限り人類は原始的生活に後戻りは出来無いのだと、40を過ぎて漸く諦めが付きました。


「極短期間で変化した母の実家」

最初に読んだ本が三国志の解説書だったので、そこから諸子百家の入門書を多少読みました、そのせいで2500年前に遡って考える癖があります。なので「等身大」と言うと、それよりもっと前の縄文的原始生活をイメージします。

現代人の生活の何処が等身大なんだろうか?勘違いして欲しく無いのは、この生活に感謝しろと言いたい訳では有りません。何故短期間にこれ程、生活が変わったのか?を考えた方が良いと言いたいのです。

例えば母の実家とその地域の家は、全て茅葺きの古民家だったそうです。でも自分が10歳頃の記憶にはそんな家は有りません。母の年齢と自分の記憶から逆算すれば、40年程の間に全て瓦の家に建て替えた事に成ります。ついでに言えば、畑には農耕牛を連れて行っていたそうです。

母の話しを聞いて驚いた自分が詳しく話しを聞いた事で、漸く母は疑問に思い何故短期間でこれ程変わったのか?不思議に思う様に成りました。
物凄く簡単に言えば エネルギーを大量に使う様に成ったからで、それが最近では将来的に平衡を保って生活出来るか?が問われる段階に入っていると説明しました。

今の生活に感謝する事や、維持出来るか不安に駆られる前に、不思議に思い考える事が先だと思っています。
自分の様に専門知識や技術の無い人は、良くも悪くも極端から極端へ振られ易いですから。答えを求めるより、意図的に不思議だなぁ程度に、とどまり続ける事を専心した方が良いと思います。


「中国史」と現代日本の生活

皇帝は6頭立ての馬車に乗るそうです、でも自分は100馬力の車に乗ってます。(実際の馬は1〜10馬力らしいです)

三国志時代(1800年前)の皇帝「曹丕」は葡萄好きだったそうです、中国ドラマでも葡萄を食べるシーンが有り、皮と種を吐き出していました。でも自分は種無しシャインマスカットを皮ごと食べてます。

三国志時代は弥生時代でこの少し後に、社会の授業で習った金印を貰ってます。歴史書が合ってるならですが。
何年か前、TVで知り驚いたのですが「ぎしわじんでん」とは中国史書「三国志ー魏志ー倭人伝」だったと言う事です。繋いで「ぎしわじんでん」と言われているので、長らく気付かずに居ました。
古い時代なので、中国史書を資料に邪馬台国の研究をしているのに驚きました。

最後の王朝になる清朝ドラマ「如懿伝」を見れば。凄まじく高級な毛皮を着ていても息は白く、夏は側仕えが手で回す扇風機が出てきます。でも自分はエアコンを使っています。

特に他国の違う時代と比較すると、分かり易いと思います。良し悪し、維持出来るか、更に先の技術に何か有るか。は取り敢えず置いて、「等身大」の生活、欲望は大きく変化している事が良く分かります。


「等身大」=本能はコントロールし易い

結局、「等身大」と言う妙な言葉がそこら中から聞こえるのは、「等身大」の欲望(本能)は権力者、資本家に取っては非常に扱い易い欲だからだと思っています。
TV、ラジオ、ネットの主なお客様はスポンサーです。視聴者では有りません、長い時間を掛けて上位者に都合の悪い言葉は淘汰され、都合の良い言葉が溢れています。
これは陰謀論と言うよりは、資本主義と視聴者の純朴な欲望に沿って、自然にそう成ったのだと思います。

動物園を見れば、象、虎、ライオン、ゴリラ、サイ、非常に強い生物が居ます。でも誰も恐れ無い動物の欲望は人からすれば、簡単にコントロール出来る欲望だからです。

だからなのか、自分が住む地域のラジオでは、「悩まずに、美味しいモン食って、バカやって、明日も頑張りましょう」とよく言っています。一見優しい言葉の様でも、悩まず考えず、純朴な欲望を持った人は上位者に取って、ひたすら都合の良い存在です。(上位者とは特定の人ではなく、構造に近い存在の代行者の事を指してます)

僧侶ですら悩まず、考えず、明るく、優しく社会に適応して行きましょうと言っています。勿論、悩み苦しむ人にはそれで良いです。当然です。
でも才能や既に能力が有る人には、もう少し先、聖人君子、覚者を目指しましょう位は言わないの?と何時も疑問に思っています。

「等身大」の本来の意味は、社会の価値観や上位者に支配されない為に、人の欲望とは何かを常に問い直し、立ち帰り、自分自身で欲望を「律」しなさいと言う意味で使われ始めた言葉だと思います。でも社会環境や前後設定、言葉の指し示す意図を説明せずに使えば、正反対に働く言葉です。何故意図を明示せずに使うのか?

明示すると言葉の力が失われる、確かにそれは有ります。でも、それはもっと昔の時代の話しだと思う、現代人は「良くも悪くも意識が発達」しているのだから、もっと言葉で違いを丁寧に説明した方が良い。
前に読んだ本「自由への旅」(ウ・ジョーティカ)には、感覚や状態の違い、修行の意義方向性が細かく丁寧に説明されていました。

そもそも農業ですら、他の動物から見れば不自然な行為なんだから、大地に根差した純朴な平民なんか、現代には居ません。人間にとっての等身大とは何なのかを、相当数の人が考える、時代に成ったのだと思ってます。


「あとがき」

自分自身は何も出来て無いクセに、「等身大」から外れた大袈裟で説教臭い文章に成ってしまいました。最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。
「出来無い事を口にするな」と言う人が少なからず居ます。言われた事も有ります。自分では力不足なので、幻想=荘子のイメージから、荘子好きな実力者の人の言葉を借ります。

『自分が至らないから、まだ人を救えないとか、教えられないとかいう人があるが、至った人間など昔から一人もない。 ただ至らないままに人を導き、教え、救っていると、だんだん至る道に近づいてゆく。』野口晴哉


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