成果とマネジメントの壁画
あなたは何者かという問いに何と答えるか。
自分の名前を答えることもできるし、出身や所属、職業や経歴。わたしをわたしとして表現するものはわたしの数だけ存在し、それぞれがわたしを構成する要素である。
それらは欠かすことができる。実にあらゆる面で欠けている。ある部分は突然修復され、ある部分は時間と共に失われ、ある角度から見れば存在し、またある角度から見れば別な存在がそこにある。全体像を正確につかむことなど誰にもできない。全体像という概念が存在しないのかもしれない。
だからわたしが何者であるかは、わたしが決めなくてはいけない。
誰かに決められてしまう前に、理解しやすいカテゴリを割り当てられてしまう前に。
いつだって遅すぎることはない。
自分が何者かわかれば、自分が選ぶべき道もおのずと定まる。
少し踏み込んで、わたしの事業が何であるかを決めるのは、わたしの顧客であるという。それは単純に財やサービスを提供する相手という意味ではない。わたしが何に奉仕し、仕事によって何を変えようとしているのか。そのメリットを受ける最終的な相手が顧客である。
多くの場合、仕事は複数の顧客を持つ。上司と部下、コンシューマーとディストリビューター、株主と社員、お金を払う人とお金を受け取る人。どの位置の誰を顧客と定めるか、それが事業を決めるということ。
ここまではドラッカーの受け売り。成果を求める人たちによって選び出された経営学の父。
でも成果という軸を外せばわたしも、わたしの仕事も本来自由である。
仕事の目的が成果ではないとしたら、わたしの顧客がどうかなんて重要じゃないし、わたしが何者であろうと異論があるはずがない。
安定成長が神話として失われた時代において、成果がわたしの幸せをもたらしてくれるとは限らない。成果もまた誰かによって定められた基準でしかなくて、わたしにとっての幸せは、わたしにとっての幸せ以上には意味を持たなくなってしまった。
いつかの時代、人間たちは薄い金属片や紙切れや、あるいはデータと呼ばれる電子の束に価値を見出し、それらを多くを持っている人や集める力をもつ姿に憧れていたんだ。
いつかの時代、人間たちは羊や土地や子供の数に価値を見出し、それらを多く所有している人を信用し、豊かさの象徴として励んでいたんだ。
いつかの時代、人間たちは戦いに明け暮れ、殺した人の数や奪った領土の面積や、あるいは潜り抜けた多くの死地を誇りとし、勇ましく散っていく姿を夢見て後を追っていったんだ。
いつかの時代、人間たちは協力することをやめ、共通の思想を持つことをやめ、つながりを持とうとするのをやめ、心を持つのをやめて。人間らしく生きる円環から抜け出した境地があると信じるようになったんだ。
いつかの時代、わたしたちは仕事に明け暮れ、それが何になるのかも、自分が何者なのかも忘れ去って、それでなお誰かを顧客と呼んで、それに価値を提供することを事業と呼んで。
効率的に成果を出すことだけに躍起になって、隣の他人を蹴落として、顔の見えない誰かを蔑んで、自分の大切に思う人たちが傷つくのを恐れて素直になれない自分を憎んで痛みを忘れて自分が信じる神様や思想や肌の色に安らぎを見出して自分と同じとか違うとかを理由に殺し合ってつかの間の協力関係を得るために大切なものを次々と差し出して過去からの遺産を食いつぶし未来への希望を使い果たし都合の良い絵を描いてこれが希望だとか真実だとか正しいとか間違っているとか。
もう、そんなのうんざりじゃないか。
わたしはわたしだけのものだというのに。わたしの仕事はわたしだけのものだというのに。
わたしは自由だということを、いつかの時代の壁画を見て思い出す。
どうしてこの画のあの人は、そんなもののために一生懸命なんだろうね。