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花に嵐の映画もあるぞ(邦画編)。

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わたしの好きな映画を、「褒めること」意識してつらつら書いていきます。 取り上げる映画は、時にニッチだったり、一昔前だったりしますが、 そこは「古いやつでござんす」と許して、ご容赦…
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2020年3月の記事一覧

詩人が群がり、出るところ。アレハンドロ・ホドロフスキーの「エンドレス・ポエトリー」。

かなりラディカルな(だから、題材によっては誤解される) NHKドキュメンタリー「ノーナレ」。 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」の「謎の詩人 最果タヒ」の回が、 考えさせられた。 詩を読んで心動かされた人たちの心の上に、詩人の言葉を、映像に乗せる。 「わからないようで分かる」「分かるようでわからない」 言葉の力を追い求めるのが、詩人だ。それを結晶化できる人間は、そういない。 まして、自分自身を、その間の中に置くことができる人は、中々いない。 彼は、それができた。自分自身に

アルマゲドンな東宝特撮「妖星ゴラス」_ 人事を尽くし天命を待つ、のみ。

この驚異に対して何もかも一致団結できないまま、ただぼんやりとした不安の中で日が過ぎている、今日この頃。 「何もかも予測できない、未知領域にある。」 という言い分はごもっともだが、まずは「人事を尽くして天命を待つ」べきではないだろうか。 昭和東宝特撮は(もう何遍も、言い尽くされていることだが)「現実には、ほぼあり得ない事態」に科学者・一般市民・政治家が連帯して立ち向かう勇姿を描き出す。 1962年公開の本作のテーマは、ずばり、ディープ・インパクトだ。 人事を尽くす。198

高倉健の「あ・うん」_普段寡黙な男がよくしゃべるのは、恋のせい?時代のせい? 

東京に雪が降った。 雪が降っても、普段とさして変わらない人もいれば、 雪が降ると、思わずはしゃいで、ふだんとは違う表情を見せる人も、いる。 高倉健。雪の中でも背筋をしゃんと伸ばす、不思議と雪が似合う人だったが 前者が「駅 STATION」「動乱」「鉄道員」で、後者が「あ・うん」だろうか。 雪の中屋台に出かけておでんをつつくシーンが、ほっこりするのだ、これが。 舞台は昭和10年代の東京。羽振りの良い中小企業の社長門倉とつましい月給暮らしの水田は、見栄えも正確も対照的ながら

成瀬巳喜男監督「あにいもうと」_不幸な兄きよ、永遠に。

大正時代を代表する作家・有島武郎(1878−1923)は、1916年に妻を亡くした。 その時彼は遺された三人の子供に、短編小説の形を借りて、次の言葉を贈った。 お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。

映画「草原に黄色い花を見つける」_詩と竹と英雄の詩。

こんな時世だからこそ、ほっこりするのびのびとした映画を観るか、 それとも、心がささくれ立つような映画を敢えて、観るか。 今夜、私は前者を選ぼう。 今はもう失われた風景、というものが世界に至る場所に存在する。 それは、高度経済成長期に消滅した、日本の美しい里山の風景だったり、 遠い南の島の、夕日がゆっくり綺麗に水面に沈む素朴な景色だったりする。 本作の舞台は、「詩と竹と英雄」が奏でるベトナムの美しい村の景色だ。 窓を閉め切って、うかつに外を出歩けないこのご時世 ベトナムの風

地球という揺りかごに揺られて、悠久の旅を。それが「ボヤージュ・オブ・タイム」。

現在、最新作「名もなき生涯」が公開されているテレンス ・マリック。 アメリカだとアメリカン・ニューシネマの世代に括られるそうで、じっさいデビューは1973年監督の「地獄の逃避行」。 以降、美しい映像と、ボイスオーバー多用による主観的な語り。 この二つの強い表現の組み合わせ:同じ文法だけを使って映画を撮ってきた。だから、アート系作家の中でも一、二を争うアクの強さ。 そんな人間が「分かりやすく複雑な物事を解きほぐす」を由とするドキュメンタリー映画をとったらどうなるか。ここに

この世の終わりをかたわらに。「滅亡について」(武田泰淳・著)

不安の上に不安が重なり世界の終わりを予感する、落ち窪んだ気持ちになるとき 読み返したくなるのが、この本だ。 作者である武田泰淳は日中戦争に2年間従軍、終戦時は上海に滞在しており、命からがら帰国した。 国の破れ、価値観の転倒 という衝撃は、彼に、世界滅亡を予感させた。 だから彼は「世界の破滅」を、言葉の力で手繰り寄せる。歴史を読み解き、大小問わぬ滅亡、鋭い滅亡のあたえる感覚をゆっくりと反芻する。 2万文字が、2時間の映像に勝る、瞬間だ。 冒頭部を引用しよう。 まず彼は「滅亡

映画「いちご白書」…つぶれかかった「Give peace a chance」のために。

2020年3月に公開された「三島由紀夫VS東大全共闘」。 (予告編を見てもお分かりいただけるとおり)証言者が口を揃えて言うのが 1969年は「言葉の力が信じられていた最後の時代」だったということ。 三島由紀夫が全共闘1000人に対し、自衛官1000人に対し、自分の言葉を費やして何を賭けたのか、確かめる価値はある。 もちろん、学生運動の当事者たちが、皆が皆ここまで真面目に生きてた訳でもなく、「赤頭巾ちゃん気をつけて」や「僕って何」な日和見たちも存在した。 同時代、おなじく学

「ディーン 君がいた瞬間」_彼が遺した三作品を添えて。

くすんでいるかのように、抑えた色調でデザインされたVHSのパッケージ。 私が小学生の頃は、まだ、ハリウッドスター ジェームズ・ディーンの神話が、ぎりぎり生き残っていたように思う。 強くなりきれない、傷つきやすい青年を演じたこと。黙って笑っていればイケメンなのに、顔をくしゃくしゃにして悲哀を、表現すること。たまに笑っていても、どこか、はにかんだように見えること。孤独、というほかないものを漂わせていること。 何より、時代とともに疾走し、たった三作の主演作を残して燃え尽きたこと。

旅の終わり、夢の果て。ほろ苦いフランス映画「冒険者たち」。

「今すぐここから抜け出したい」という高望み。 動機は何が良いだろう。「宝探し」 はどうだろうか。 遠い噂に聞いた、南の海の宝探し。夢破れた男二人と女一人が、その冒険に乗り出した。ワクワクするはなしだ、最後は、かなしいけども。 青春の鎮魂歌とも言うべきロベール・アンリコ監督の永遠の名作が、ニュープリント・マスター版で登場。パイロットのマヌー(アラン・ドロン)、彫刻家のレティシア(ジョアンナ・シムカス)、レーサーのローラン(リノ・ヴァンチュラ)は互いを助けながら、それぞれの違

いい日旅立ち、ワインの休日。アレクサンダー・ペインの「サイドウェイ」。

いずれ何処かへ行きたい。無理にでも、何か理由を見つけて。例えば、気の置けない男ともだちと、何処かに旅するのを夢見ては、いかがだろうか。 その気分をユーモアにのせて描いたのが、アレクサンダー・ペイン監督の「サイドウェイ」だ。 カリフォルニア州サンディエゴに住む、×イチで小説家志望の中年教師マイルス。 彼の大学時代からの悪友であり、落ち目のテレビタレントであるジャック。 凸凹ばかりの二人の人生も、マイルスはようやく書き上がった小説を出版社に持ち込み、ジャックは不動産屋の娘と結婚

映画「荒野にて」…美しい馬のために、どうか、逃げ出す力を。

なんというか、いま ここから逃げ出したい という気分がある。 それを、「青春の煽動者」寺山修司は あゝ、荒野。 の感嘆符込めた一言で、的確に捉えた。 荒野は不毛な土地のこと。 身も心も枯らしたこれ以上渇くことない大人には住める土地でも、 みずみずしい情感を持った少年には、とうてい住むに耐えきれない土地だ。 だから少年は荒野を出て他所を目指そうとする、 しかし いくらはなれてもはなれても「ここより他の場所」に到らない心の焦りは75セント分の切符ではどうにもならないの

戦う敵を求めて鬩ぎ合う、イコ・ウワイスの「ザ・レイド」「GOKUDO ザ・レイド」。

シリーズ前作と旧作とで、ジャンルが180度変わると 期待値と違うから当然損した気分になる。しかしここで満足度を満たせば得をした気分になる。 インドネシア出身のアクション俳優イコ・ウワイスは、この転換をうまく活かした。 該当するのは「ザ・レイド」二作品。第一作目はゾンビもの、第二作目はヤクザもの、と180度作風が転換した稀有な例。 共通しているのはイコ・ウワイスが演じる警官ラマの不屈の精神、ネバーギブアップの根性だ。 「ザ・レイド 」。 圧倒される新米警官・ラマ。インドネ

みちのくを彷徨う仲代達矢=一文字秀虎=リア王。それが邦画「春との旅」。

個人的な悔しさぶつけて いいですか? 仲代達矢率いる無名塾の東京公演 今年は、折からの事情のために、中止。 週末の楽しみが、奪われてしまった。 世間にとっては「終わった人」なのかもしれないが、自分は、仲代達矢の舞台を、ずっと追いかけている。 老いてもなお主役を演じ続けようとするひと。老いの恍惚と愉楽の間際で、舞台の上で楽しく笑うこの人が、好きなのだ。追いかけ続けたいのだ。 (それは、名優の最後の姿をまぶたに焼き付けておきたいという、観客として残酷にすぎる感情と、紙一重では