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この世の終わりをかたわらに。「滅亡について」(武田泰淳・著)

不安の上に不安が重なり世界の終わりを予感する、落ち窪んだ気持ちになるとき
読み返したくなるのが、この本だ。

作者である武田泰淳は日中戦争に2年間従軍、終戦時は上海に滞在しており、命からがら帰国した。
国の破れ、価値観の転倒 という衝撃は、彼に、世界滅亡を予感させた。
だから彼は「世界の破滅」を、言葉の力で手繰り寄せる。歴史を読み解き、大小問わぬ滅亡、鋭い滅亡のあたえる感覚をゆっくりと反芻する。
2万文字が、2時間の映像に勝る、瞬間だ。


冒頭部を引用しよう。
まず彼は「滅亡というものが頭にこびりついて離れない理由」を定義する。

滅亡を感じ、悲惨を予感するのは、深刻であり、哲学的であるから、深刻であり哲学的であるために、ことさらこのような思念に溺れようとはするが、それでいて滅亡悲惨はどんな小さなものでも、顔面のかすり傷、腹中の蛔虫まで気にかかる。

同書 21ページより引用

そして「滅亡」は、無意識の中からぽかりと生まれてくるものと、論じる。

(世界によって裁かれる罪人であるという)その意識に反撥するため、私たちは苦笑し、から元気をつける。そして、歓喜の祝典からのけものにされたどうしが、冷たいしずけさ、すべての日常的な正しさを見失った自分たちだけのしずけさの裡に、何とかすがりつく観念を考えている。するとポカリと浮び上って来たのは「滅亡」という言葉であった。

同書 21ページより引用

そして最後に「滅亡」を飲み込む、不安を乗り越えるための方法を、提示する。

おごれる英雄、さかえた国々、文化をはな咲かせた大都会が亡び、消え去った歴史的現象を次から次へと想い浮かべる。「聖書」をひらき、黙示録の世界破滅のくだりを読む。「史記」をひらいては、春秋戦国の国々が、滅亡して行く過酷な、わずか数百字の短い記録を読む。あらゆる悲惨、あらゆる地獄を想像し、想起する。すべての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの。すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの。それら私の現在の屈辱、衰弱を忘れ去らしめるほど強烈な滅亡の形式を、むりやり考え出してはそれを味わった。そうすると、すこしは気がしずまるのであった。

同書 21〜22ページより引用

彼は、どの時代でも、滅亡が我々のかたわらにあること、だからこそ、そこから目を離してはいけない、と残酷に言ってのける。

この二つの文だけで、むかし、夏目漱石が「三四郎」で広田先生に代弁させた

滅びるね。

という感覚。曖昧なそれを、見事な推察力によって的確にとらえる。
昔の日本人は、いまより間違いなく「滅亡」を言語化するのがうまかった。
それは、時代のうねりの中で崩れかかる己を「破滅」から救い出すための行為。

いま、既存の世界線が崩れかけているからこそ、読み直したい本だ。



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ドント・ウォーリー
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