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映画「草原に黄色い花を見つける」_詩と竹と英雄の詩。
こんな時世だからこそ、ほっこりするのびのびとした映画を観るか、
それとも、心がささくれ立つような映画を敢えて、観るか。
今夜、私は前者を選ぼう。
今はもう失われた風景、というものが世界に至る場所に存在する。
それは、高度経済成長期に消滅した、日本の美しい里山の風景だったり、
遠い南の島の、夕日がゆっくり綺麗に水面に沈む素朴な景色だったりする。
本作の舞台は、「詩と竹と英雄」が奏でるベトナムの美しい村の景色だ。
窓を閉め切って、うかつに外を出歩けないこのご時世
ベトナムの風に吹かれては、いかがだろうか。
1980年代半ばのベトナム中部フーイエン州の豊かな自然を背景に、兄弟と幼なじみの少女の恋や成長を瑞々しく描いた青春映画。ベトナムの新鋭ビクター・ブー監督がベストセラー小説を原作に手がけ、同国で大ヒットを記録し、アカデミー外国語映画賞のベトナム代表作品にも選ばれた。いつも一緒に遊んでいる仲良し兄弟のティエウとトゥオン。12歳になる兄ティエウは、幼なじみの少女ムーンのことが気になっているが、うまく思いを伝えることができない。そんなある日、ムーンの家が火事で焼け落ちてしまう。ムーンはしばらくの間、兄弟の家で過ごすことになり、ティエウの恋心はますます募っていく。しかし、ムーンはトゥオンと遊んでばかりで、嫉妬したティエウは、ある取り返しのつかないことをしてしまう。
【スタッフ】
監督 ビクター・ブー
原作 グエン・ニャット・アイン ほか
【キャスト】
ティン・ビン ティエウ
チョン・カン トゥオン
タイン・ミー ムーン
グエン・アイン・トゥー ダンおじさん
カイン・ヒエン ヴィン ほか
「詩と竹と英雄の国」 それがベトナム。
ベトナムは「詩と竹と英雄」の国と云う。
「詩」とは口から発されることば。
度重なる侵略の歴史の中で、詩の形に昇華された伝説、いいつたえ、ならわし、ことわざ、歌の類は、親から子へ、そして孫へと、世紀をまたいで世代を越えて受け継がれた。** 書かれたものを介さずに。紙にすがたを残さずに。**
「竹」は熱帯の生んだ自然への愛。
ひいては、雨や風など季節のうつろいに感謝するのは、日本人と同じだ。
「英雄」は、歴史に残った勇者だけでなく、国を守るため果てて死んでいった無名兵士たちへの敬意。 転じて、歴史を忘れず、歴史から学ぼうとする姿勢
「詩」とはやさしさ。 「竹」とはしなやかさ。 「英雄」とは精悍さ。
この3つのキーワードの根底に通じるもの、それは、ただまっすぐにひたむきな生命力だ。それは、ベトナムの風土が育んだ心だ。
そして、本作では、映画という一つのかたちの「詩」を通して、まっすぐひたむきで、みずみずしい生命力が描かれている。
竹を揺らす風を、感じる。
まず目を引くのは、大きな手でガッシリカメラを掴んでベトナムの風土を切り取っているところ。
それは、麦の穂を揺らす風、竹林を揺るがすスコール、といった豊かな自然。
それは、子供たちの遊戯、水に浸かり草を食む水牛、といった生活の営み。
「まるで、日本の失われた風景…」と喩えては、陳腐だろうが
しかし、丁寧な絵作りを、ただぼーっと眺めるだけでも心地良い。
これだけで、トクした気分になる。
英雄の記憶を見る。
映画は、兄:ティエウと弟:トゥオン、それぞれの恋心を描いている。
前半から中盤にかけては、ティエウとムーンの間の、素直になれないたけくらべ、淡い恋模様が、いくつかの挿話を交え、軽やかに、微笑ましく、描かれる。
例えば…朝、ティエウが起きてみると、
さりげなく、横にムーンが眠っている。
ふっと見惚れそうになり、これはいけないと、慌てて床から這い出るティエウ。男の子らしい照れ隠しを、ピュアにさりげなく切り取っている。
後半からは、トゥオンと「森の奥のお姫様」=ヴィンの仄かな恋が描かれる。
ヴィンは母の死のトラウマから、自分をお姫様だと思い込み、森の奥に父と共に閉じこもってしまっている。トゥオンは、森の中からヴィンを連れ出そうと、救い出そうと、必死にあれこれ考える。
弟の頑なさに、初めは正気じゃないと取り合わなかった&兄弟喧嘩でどうにも気まずかったティエウが、次第に弟のために必死になっていく姿が、力強い。
互いに秘密を隠さない、互いに素直でいられる兄弟など、現実には、ほとんど有り得ないだろう。(まして、大人の兄弟ならば、絶対ピュアではいられない。)
**ティエウとトゥオンが、それだ。殆どありえないことが、目の前で起きている。
だからこそ、この兄弟愛が美しく尊く思えるのだ。**
「お姫様」が正気を取り戻し、森の中へ帰っていくのを見届けた後、兄は弟を背中におぶって、あぜ道をぶらぶら、帰途につく。
どうということもなく、弟は「またお姫様に会えるかな」と尋ねる。
兄は「会えるさ」と迷わず答える。
今度は、兄が「またムーンと会えるかな」と問い返す。
弟は会ってみなよ、と答える。
子どもたちの「あした」はまだまだ続く。
そのうちに、兄も弟も、それぞれの想い人と再び会えるであろう。
そんな倖せをふっと予感させながら、余韻を残して、映画は終わる。
詩に触れる。
**
本作では、「80年代のベトナム」と聞いて我々が思い浮かべるような「貧困」「腐敗」「犯罪」「戦争」とは無縁の世界だ。**
(劇中、出てくる親世代は、生活に苦しんでいるとはいえ、その描き方は「簡素」または「清貧」と呼んだ方が似つかわしい。)
19世紀以来、1980年まで、ベトナムは、フランス→日本→フランス→アメリカ→中国と、次から次へと敵がやって来ては、戦争ばかりだった。
それに比べると、本作の舞台である80年代半ばは(国家総動員令真っ只中だったとはいえ)「平穏」と「安息」が人々に訪れていたに、違いない。
だから、劇中出てくる人たちは、みんな、厳しくも、優しいのだ。 そして兄弟は戦争を知らず、ピュアでいられるのだ。
公式サイトによれば監督は1975年生まれ、「戦争を知らない子供たち」であるから、戦争の毒のないドラマを描けたのだろう。
詩と竹と英雄という、ベトナムが育んだ純粋で美しい魂を味わえる映画だ。
この週末に、どうぞ、ぜひ。
参考資料:「ベトナム―詩と竹と英雄の国」山岸一章 (新日本新書)
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