詩人が群がり、出るところ。アレハンドロ・ホドロフスキーの「エンドレス・ポエトリー」。

かなりラディカルな(だから、題材によっては誤解される)
NHKドキュメンタリー「ノーナレ」。
「夜空はいつでも最高密度の青色だ」の「謎の詩人 最果タヒ」の回が、
考えさせられた。
詩を読んで心動かされた人たちの心の上に、詩人の言葉を、映像に乗せる。

「わからないようで分かる」「分かるようでわからない」
言葉の力を追い求めるのが、詩人だ。それを結晶化できる人間は、そういない。
まして、自分自身を、その間の中に置くことができる人は、中々いない。


彼は、それができた。自分自身に苦い過去の現実を突きつけ、それを詩として、映像にのせた。


今回、紹介したいのが、映画監督、演出家、俳優、作家、タロット占いの専門家であり、何より詩人であるアレハンドロ・ホドロフスキー の映画「エンドレス・ポエトリー」だ
監督の前作「リアリティのダンス」の続編だが、観ていなくても問題はない。

これは、はらぺこあおむしが、ちょうちょになるまでの、ものがたり。
誰しもが通る「青春の門」を、アレハンドロ・ホドロフスキー 、彼は
時にまばゆく、時にけばけばしく、まるで絵本のような色遣いで描いた。
木箱の中に入って海の向こうから運ばれて来たいもむし=「彼」が、
赤黄青色とりどりの草を食んで、茶色のさなぎになって、
やがて紫晶石のチョウチョとなって、一匹、海峡を渡っていく。
すてきな、おとぎ話だ。

「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」などでカルト的人気を誇るアレハンドロ・ホドロフスキー監督による自伝的作品「リアリティのダンス」の続編。故郷トコピージャから首都サンティアゴへ移住したホドロフスキー一家。さまざまな悩みや葛藤を抱えたアレハンドロ青年は、後に世界的な詩人となるエンリケ・リンやニカノール・パラら、若きアーティストとの出会いにより、自分が囚われていた現実から解放される。前作に引き続き、ホドロフスキー監督の長男ブロンティス・ホドロフスキーがホドロフスキー監督の父親役を、青年となったホドロフスキー監督役を、末の息子であるアダン・ホドロフスキーが演じる。撮影は、本作がホドロフスキー作品初参加となるクリストファー・ドイル。
【スタッフ】
監督・脚本   アレハンドロ・ホドロフスキー
製作総指揮   アレハンドロ・ホドロフスキー、モイセス・コシオ、アッバース・ノクハステ、浅井隆
美術      アレハンドロ・ホドロフスキー、パトリシオ・アギュラー、デニス・リア=ラティノフ
美術補      佐々木尚
【キャスト】
アダン・ホドロフスキー    アレハンドロ
パメラ・フローレス          サラ/ステラ
ブロンティス・ホドロフスキー   ハイメ
レアンドロ・ターブ          エンリケ・リン
イェレミアス・ハースコビッツ   若きアレハンドロ

映画.com 作品情報より引用


彼が言葉を編むまでは。


サンチャゴ界隈の芸術家またはその類の人々との出会いが、スケッチ形式で、
彼の思うままに、気のままに、描かれる。袋小路を行きつ戻りつ、ゆっくりと。

この気ままでまったりとした話運びが、物語全体がまとまりを欠く印象の一因である印象を与えるに違いない。
と同時に、不思議な膨らみ、複葉樹の枝の分け目の様な広がりを物語にもたらすアクセントとなっている。

「彼」は、中でも特に2人の人間:ステラとエンリケとの間に、深い親交を持つ。ステラは情熱に生きすぎる女性、そして大詩人。(倦怠期を迎えた「彼」の母と、驚くべきことに1人二役である。)
墓石みたいに静まり返ったバーに時折顔を出しては、胸をはだけ出し、体目当てに近づいた労働者たちを腕でねじ伏せて、怒りに滲んだ詩を読む。(何を書いているのか全く意味がわからないだろうが、詩人とはそういう生き物なのだ。)
「彼」は彼女と激しく求め合い、激しい諍いを起こし、そして訣別する。

他方、エンリケは、誰しも生涯で一度は得るであろう「悪友」。
ある時は、目の前にある壁をすべて乗り越えてただひたすらに直進することを試みる。
またある時は、部屋一面の壁を板書きにして、ともに詩作に耽る。
一緒に悪いことをしたり、一緒に笑いあったり、時に1人の女性を巡って憎み合ったり。
ステラほどひりひりすることなく、男同士遠慮なしに付き合っていく楽しさに浸る。「このままずっとこんな日が続けばいい」そう「彼」が思うほどに。

これら、劇的な芸術家たちとの親交を経て、詩人たる「彼」は、自分の言葉がより鮮烈により鮮明に磨かれたと思う。
「この言葉を武器にすれば世の中と渡り合える」とひとり、満足する。


しかしそれは、うぬぼれにすぎなかった。 ある日、「彼」は洗礼を受ける。


言葉で世界と渡り合うために、旅立たなくてはいけない。


ある日、ハーゲンクロイツの旗が生々しくはためく中、勲章を勇ましくぶら下げたイバニエス将軍(後述するが、この人は実在する)が、サンチャゴに凱旋する。軍隊引き連れ、街を行く。
仮面を被った群衆が、箒を振って音もなく、軍隊の後を付いていく。

将軍は、いっさいの個人の自由を否定する。
表立って反対しないのは、全面的に将軍を支持するのと同じ。
「なぜ誰も声を挙げようとしないんだ!」
「彼」は憤り、周囲の制止の手を跳ね除けて、凱旋パレードの通る道真っ只中に立ちはだかり、絶叫する。


だがパレードは、「彼」を避けて、その脇を通り過ぎていく。

「お前なぞ、お前の言葉なぞ、取るに足らない」とばかりに、一顧だにせず。  


自分は無力だ。
無力ならば、何をすれば良い?
その人は、自分は何をなすべきか(ある種悲壮な)決意を下す。
それは、
「詩が死に絶えた世界で耐え続けるために、詩一本で生きていく」
ということ。

後戻りしない不退転の覚悟に、蝶は燃え上がり、はためく。
彼の真摯な本声は、
「詩なぞオカマのすることだ」と頭から決めてかかる父親にも、
社会的安定を求める先輩詩人にも、
詩を愛してはいても、群がって生きる方が好きなサンチャゴ界隈の仲間にも、
だれひとりとして、届かない。

かくして、「彼」は1人パリへと旅立つこととなる。
紫色の頼りない小舟に乗る若き「彼」の肩には、
「この世を変革しようとする」小さな意思と、それ以上に大きく押し潰されそうな不安とが、乗っかっている。

孤独な旅を始める「彼」に、老いた彼は、優しく、言葉をかける。
「生きろ」
と。

その旅の途上に実り豊かな更なる出逢いがあること、
「自立編」の次作、「放浪編」があることを予感させて、映画は終わる。
そして、私は「放浪編」を待っている。


実は、チリの歴史を深く推察したものがたり。だから、重い。


物語の舞台は1940年代のチリ、サンチャゴ。
1817年の独立から100年。同時代の日本と同じように、まだまだ若く、そして未成熟な国だった。選挙権の拡大によっ て、ようやく民衆の政党が力を握っても、社会全体の構造はまだまだ変わっていなかった。多くの人間がカヤの外に置かれたまま、飽くなき政争が続いていたのだ。

憲法改正、イバニエス将軍のクーデターとムッソリーニに倣った彼の独裁化、市民の手によるイバニエスの国外追放、直後に起こった世界恐慌、テロやクーデターの頻発、イバニエス将軍の凱旋、世界大戦の勃発…
気持ちを置いてけぼりにされたまま、時代閉塞ばかりが強くなっていく。


とすれば、「彼」が笑うのも、泣くのも、怒るのも、何より、言葉を武器に世界と渡り合おうとするのも、世界を破るための感情の発露。
もう70年も前の自分を語っただけなのに、「彼」=彼 の叫びが、胸をうつのは
それはまた、私たちの世界もまた閉塞感に満ちている、
そしてそれを壊すことを望んでいるに、違いない。


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ドント・ウォーリー
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