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成瀬巳喜男監督「あにいもうと」_不幸な兄きよ、永遠に。
大正時代を代表する作家・有島武郎(1878−1923)は、1916年に妻を亡くした。
その時彼は遺された三人の子供に、短編小説の形を借りて、次の言葉を贈った。
お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実は事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ。
「小さき者へ」有島武郎・作 青空文庫より引用
こう書いた有島武郎も1923年6月9日、軽井沢で情死を遂げる。
子供たちに、さらなる不幸を背負わせることとなる。
残された3人の息子のうち、長男・行光は、のちに俳優・森雅之(1911-1973)となって、世に出た。長じて文学座に加わり、また当時黄金期を迎えた日本映画に数多く出演し、それぞれまったく別世界の役柄を、見事に演じ分けた。
「雨月物語」の際、「俳優に苛烈」な巨匠・溝口健二が、あるシーンの撮影が終わった時、彼がたばこを加えると思わずライターで火をつけてやった、という逸話が残るくらいだ。
幼くして実の父母を失うという不幸を背負ったからか。彼は不思議なくらい「不幸」の影を纏っていた。だから不思議なくらい「不幸な男」が似合った。
この作品でも、彼は兄貴を演じる。
妹を愛しながらも、妹からは愛されることのない、不幸な兄きを。
川師の親方赤座(山本禮三郎)には三人の子がいた。昔は名を売った彼も、今では落ち目。しかも、娘のもん(京マチ子)が、奉公先で小畑(船越英二)と関係し、身重で戻ってきたので機嫌が悪い。
末娘のさん(久我美子)は、もんの送金で看護学校へ行っているが、彼女の不始末が知れて、好きな鯛一とも一緒になれそうにない。兄の伊之吉(森雅之)はもんを可愛がっていただけに腹立たしく、つらくあたるのでもんは家を出てしまう。
もんが出て行ったあと、小畑が謝罪に訪れるが、妹が不憫でならない伊之吉は小畑に罵声を浴びせ殴りつけながら、妹可愛さの心情を吐露するのだった。
黒澤明、小津安二郎、溝口健二と並び称される、名匠、成瀬巳喜男が室生犀星の名作を最高のキャストで贈る感動作。
角川映画 公式サイトより引用
暑い夏の日の物語である。白黒フィルムのなかに閉じ込められたそれは、野菜畑や、まだ緑に溢れていた草木の青さが目立つ夏の色である。だから空の青さも一層際立つのだが…それに目もくれず、下ばかり向いて、一家の心は、深く沈んでいる。
家族も周囲も、彼女の不幸は少々承知だから、優しく(悪く言えば腫れ物に触るように)接する。伊之吉ひとりだけが、もんに辛く当たる。
粗野で乱暴、彼なりに妹を想おうとする屈折した兄・伊之吉。
ある日、もんの相手の大学生:小畑が実家まで追って来る。伊之吉は秘かに彼に会って、脅かして追い返してしまう。
後で妹に「彼に何をしたのよ」と聞かれて、兄きは「半殺しにしてやったよ」と答える。もちろん、本当はそんなひどいことはしていない。
妹は兄を睨みつけ、兄は妹を見つめ返す。
沈黙の凝視のうち、一瞬感情の堰が迸ったかと思うと、妹が怒りを爆発させて大ゲンカになる。それまでの静かな一家にはおおよそ相応しからぬ大喧嘩が。
なぜ嘘をついたのか。半殺しにしてやりたかったのが、本音なのは確か。他方で、もんが小畑のことを諦め切れていないのもうっすら感づいている。だから、「半殺しにしたかった」と敢えて口にすることが、もんをどれだけ傷つけるかも知っている。
それでも、言ったのは、「可愛かった妹」の頃と同じ、「守るべき存在」としてもんを扱おうとするから。そう言うことで兄貴としての自尊心を守ろうとするから。情けない兄貴の屈折した心理を、「半殺しにしてやったよ」の一言と眼差しに森雅之は見事に込めてみせる。
さて、兄妹の喧嘩は、「いつも優しい」母が、「もうたくさん」という感情を噴出させることで、有耶無耶となって、終わる。
そして、季節は巡り、翌年の夏を迎える。
一家それぞれ、過去のことは忘れようと、新しい生活を始めている。もんも、家を出て自活を始めている。変わらないのは伊之吉くらいだ。
(いちばんおかしいのは親方だろう:河岸をコンクリで固めるようになって、石積みの仕事を失い、売店の愛想の悪い売り子にジョブチェンジするのだから。悪人面で。)
もちろん過去はそう簡単には忘れられないし、あに・いもうと、そう簡単には和解することはないだろう。
それでも、人生はつづく。いつか、兄妹のわだかまりが消えることを、ほのかに期待させつつ、映画は静かに終わる。
※本記事の画像は角川映画公式サイトから引用しました。
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