ダウン・サイジング【次世代型社会】
小さくて、小回りのきく、大きな世界(或いは「生産」と「分配」の多極化)
(また、シンクロニシティですね。
主眼を同じくされております。
以下、この「note」公開三日後に公開されました。
是非、お読みくださいませ。)
○環境要因と未来社会
日本の人口が減っていくのは明らかです。
暑い寒いのエッジが立つ気候に、ますますなりそうだ、と、体感ベースで予想されます。
それらが、太陽の活動とリンクしていることが周知されるのも間もなくかと思われます。
勿論「あおいのきせき」の知見から、それも、分かります。
是非、推理してみてください。(「高エネルギー性中性子」がヒントです。いわば万物の素。勿論、天災にも関係してきます)
○大量生産、大量消費こそ「悪」の根源
貨幣経済を前提としたマスプロダクトという「仕組み」について指摘することは、なかなか難しいのです。
そこに「富」は集中しますし「富」は「力」を産みますし「力」は「力」に反するものを、まず認めませんから。
「流布」される「物言い」はその「仕組み」の中で行われる限り、全てがその「力」の手の中にあります。ですから、「そこ」を指さす「物言い」が「マスメディア」に乗ることはまずありません、よね。
それ故に、自分自身の全てが、「その仕組みの中に於いて」という「括弧付き」である事に中々気づけないという塩梅になっているのです。
それに加えまして、GHQの敷いたラジオ・プレスコードは、未だに徹底して、むしろ洗練された形で有効なのです。
○徹底した「地産・地消」こそ解決策
それを邪魔しているのが「一極集中の大量生産」の仕組みです。
そして、そこで過剰に蓄えた「価値」が金融商品と化し、仮想経済内で爆発的に増え、今度は「価値」が「株主」となって「一極集中の大量生産」という「仕組み」を増強するという「人間不在の悪循環」となっています。
その中で、大都市に「富」や「人」が集中して地方が「過疎」る、という流れになっています。
更に、この「仕組み」は、人々の時間を「細切れにして」奪う事で機能しています。
○人に優しくない一極集中
極端に専門性の高いモノは無理でも、それ以外は、例えば「口に入るモノ」なんかは、工場で大量生産して日本中に配る必要はないでしょう。
「生産」と「分配(消費)」は必要に応じて、(コストや利益とは無関係の意味に於いて)可能な範囲で行えば良いのです。
運転手不足の問題も「地産・地消」を徹底すれば、問題自体消えてしまいます。
運ぶ道具すら、少し勉強した人なら(部品さえ揃えば)簡単に作れる時代です。
地域の特性に合わせた「地産・地消」を軸にした社会を極端に拠らず、構築していくことが「鍵」です。
その為には、まず肥大化した「金融(仮想)経済」に偏った経済に健全なバランスを取りもどさないとなりません。
○食品ロスから見えてくる、本当の問題とは
例えば「食品ロス」の問題を抜本的に解決するには「売れ残り(生産・加工・仲買・小売り)」と「食べ残し(調理前・調理後/事業・家庭)」の「比率データ」(或いは絶対量よりも)が全て必須な「はず」ですが、それが「ない」のは何故でしょう?
一例として「食品ロス」をあげましたが、いま私たちが直面している「ほんとうの」問題は「食品ロス」の問題を解決したいのに、「抜本的な解決を妨げる何かがある」という「大問題」なのです。
一事が万事、全てがそういう構造になっていて、それこそが「大企業による大量生産・大量消費(と一極集中)」の「仕組み」「それそのもの」なのです。
○人類と保存の関係
食料(≒価値)の保存と人類社会の関係について歴史から学ぶことは大です。
徹底して抽象化して俯瞰すると「価値」の保存が可能になる前後で、私たちの生活は一変しました。
かなり話が「大きく」なりましたが、「争い」や「主従(つまり支配・被支配或いは雇用関係)」は「保存した(価値)」を「どうするこうする」の末に例えば「貨幣経済」という形で生まれたのです。
○大量生産・大量消費のために大量の力がいるのです
小さい社会であれば、必要な「力」は随分と少なくて済みます。
○その為の準備(主に教育の仕組み)を始める時期
全てが「大量生産・大量消費」の仕組みの温存の為に働いているのが「今」です。学校で学ぶことも、その「力」の保全の為という「枠」を出ることはありません。
一つ、今の教育の突き詰めたゴールは「極端な専門性を持った人物」の育成です。それを否定しませんが、全てであることは弊害です。(現状の教育システムの上では、限界迄「勉強」すると「(何かの)専門家」になる他ありません。)
そうして、それら教育は、ほぼ全て「大量生産・大量消費」用の人材育成をゴールに行われています。
つまり「モダン・タイムス」の世界です。
所謂「知的人材」も例外ではありません。「知的な機械」として「(大量生産と大量消費の為の一極集中という)仕組みの温存と強化」の為に自立的に働くよう「プログラム」されます。
また、「垂直方向」の知識こそ「共訳不可能性」を産む土壌であり、それによる分断もまた、現行の仕組みの温存に大きく寄与する事となっています。
研究職は別にしたとしても、「水平方向」の知識(学際とか教養とか言われますが)をどの様に社会実装させるかが課題でしょう。
○マニュアルによる職人の破壊
大量生産とマニュアルはセットです。一人で作ると「時間」がかかる(コストな)ので、工程を分解して、手分けして作ることを「思いついた」のはヘンリー・フォードさんだそうですね。
価値観の総入れ替え
○「普通の人」を「雇われ人」ではなく「何かの専門家だけど、まず何でも出来る人」にする教育を
大抵のことが自分と自分の身の回りですんでしまう社会が理想です。
何故「コスパ」が求められるのでしょうか?
人が生きるに於いて本来の「コスト」とは何かという問題に皆で真剣に向き合わないといけません。
○「便利」や「役に立つ」そして「価値」の見直し
いま、「便利」という言葉には「大量生産・大量消費を維持するための社会で、争いながら暮らすために」という「但し書き」がつきます。
いま、「役に立つ」という言葉には「大量生産・大量消費を維持するための社会で争いながら暮らすために」という「但し書き」がつきます。
いま、「価値がある」という言葉には「大量生産・大量消費を維持するための社会で争いながら暮らすために」という「但し書き」がつきます。
反対に「コスト」という言葉にもその「但し書き」がつきます。
或いは「知的」という言葉も、同様でしょう。
「当たり前」になっているので、その「前提」になかなか「気付きません」
気付かない「当たり前」を見つけて、それを外すことが「鍵」です。
「一極集中」をなくすことが全ての「鍵」
○ピラミッド型から粘菌(ネットワーク)型へ
特に「生産」と「消費(分配)」に関しての「一極集中」を解消すると、ほとんどの社会問題もつられて解決します。
逆さから申しますと「ここ」を直さない限り、目の前にある様々な問題は抜本的解決に至りません。
○小さくして、各地に分ける、そして繋ぐ
「情報革命」により実際の距離とは無関係の「近い」を実際にすることが、いま、可能になりました。
生産拠点を各地に配置して、必要に応じて繋ぐ、「情報」と「モノ」と「人」の「適材適所」を行うことは、技術的にはそれ程難しくありません。
それができない、或いはしないのは「大量生産・大量消費」による拡大を無批判に指向することを義務づけられた「利益」に反するからです。
○「利益」とは何か?
非常に抽象化して申し上げれば、
人が人らしく自然と共に生きることが、
「利益」を効率よく求める「企業活動」と合致すればよい、
という事になります。
ここで「当たり前」の見直しが求められるわけです。
人が人らしく生きることの出来る社会の為には
○厳密には規格化されえない自然・人
「大量生産・大量消費」とその(効率の)為の「一極集中」は、あらゆるモノに規格化する事を要求します。
「交換可能性」こそがこの「仕組み」を可能せしめていて、それらは「規格」によって支えられています。
故に、いまの社会では「人」までも「規格化」されてしまいます。
実際、現状の教育の中で行われていることは、主に人の「規格化」です。
「採点」(数値化)と「ラベリング」(肩書きによるカテゴライズ)が、出口であることで、そのことは、はっきりと分かります。
ここに「数値化」と「ノイズ」の問題が発生します。
そしてこれは先ほどの「便利」と「役に立つ」や「価値」の問題と同根であると、わかります。
人という存在はそもそもが(養老孟司先生のご指摘の通り)規格とは無縁の「ノイズ」なのです。
しかし、以下の記事の様に「生きる事」そのものが「(価格によって)数値化」され、「規格」でしか捉える事が出来ない迄に至っている様です。
※人の規格化に対する警鐘は、夏目漱石(「それから」など)によってなされていたことに驚きを隠せません。この問題は「西洋に間口を開いた」時点で既に偉大な知性によってあらかじめ予見されていたのです※
人が人らしく生きるために必要な「知恵」と「知識」についての深い考察なしには「地産・地消」に必要な人材を育てることはできません。
一人一人が「ヘッドクォーター」である事を訴求される「粘菌(ネットワーク)型社会」によって成立する「地産・地消」の「生産と分配の多極化社会」に於いて、規格化された人間は、むしろ弊害にしかなりません。
規格外をノイズとして排除することしかし(出来)ませんので。
加えまして、地域に恒常性が保たれる程度に、流動性が担保されることも前提ですが、この見地から、地域側のローカライズされた人に対する「規格」を外すことも大事になります。
所で「規格化人間」こそが「大量生産・大量消費」社会を支える傭兵であると同時に、最大の被害者でもあります。(G.A.ロメロ監督は彼らを「ゾンビ」に例えました)
○博物学(分類学)とそれらの人為的行為として自然を加工することが近代・西洋文明の基軸
比喩的な「ものいい」を多少「規格化」して申し上げますと、これらを「ロゴス」由来の社会問題と呼ぶことも可能かと思われます。
複雑に見える社会の抱える問題も、「ロゴス」由来の近代社会が様々な分野・場面でぶつかっている問題であるという角度から眺めれば、やはり解決は非「ロゴス」例えば「レンマ」によると気がつきます。
中沢新一さんの「森のバロック」には、この問題に粘菌を通して対峙した、南方熊楠の姿が美しく描かれています。そして熊楠と漱石は同じ年にこの国に生まれた知性だという事に私たちはまた、「非因果的連結」を見ることになるのです。
○圧倒的に強いのはロゴス社会
一神教とロゴスが組むと、言論も武力も整理されて説得力と破壊力(科学と科学技術の発展)を持ちます。それを持たない社会はひとたまりもありません。
更に、一神教とロゴスの社会は必ず外部を侵蝕していく運命にあるというお話は、以前、書かせて頂きました。それを自己愛の社会といい変えれば同じ原理です。以下是非ご覧ください。
何より、歴史がそれを証明しています。
○非ロゴス≒カオス的な「超限戦」
ロゴス≒コスモスを理想原理にもつ国に、非ロゴス(例えばレンマ)≒カオス的文化を持つ国が挑む作戦として、所謂「超限戦」を編み出したのは、この意味で、大変筋が通っていると思われます。
○規格とは「禁止の体系」
学生時代、「法律とは禁止の体系である」という何方かの「受け売り」を披歴したら、仲間内で「頭脳明晰」な事で知られていた先輩に「(工業)規格は禁止の決まり事ではない」と否定されて、その反駁に窮してしまった事がありました。
○Everybody wants to rule the world
しかし「規格」は「規格外」を作ってはいけないという「法という禁止の体系」に他ならず、その意味で「世界を支配する」とは"rule the world"という言葉通り、「自身に都合が良い決まりのスタンダードを世界に普及させる」事に他ならないのです。
(「グローバル・スタンダード」とか「法の支配」とかいう言葉に接したら、まずこの事を思い出す事が必要でしょう。そこには必ず「誰の」が隠れています)
○「資本」は、一神教・ロゴス的「存在」
「資本」というモノが拡大(一極集中の大量生産)を指向せざるを得ないという理由は、その角度(「あおいのきせき」の知見)からも理解する事ができます。
不可逆的な自立運動をする「主体」の比喩として、日本の特撮映画でお馴染みの「怪獣」たちを思い出すと、「文明批評」としてもそれら「御伽話」が秀逸であることに気がつくのです。
○ロゴス由来の思考で規格に至る、「西洋音楽」と「平均律」
話は多少それますが、ロゴス思考が音楽に働いて「平均律」という「規格」を生むことになりました。いま、世界を席巻しているのは、あらかじめ周波数の固定された「平均律」にのっとった音楽です。それにより音を「楽譜」という「記号」に変換し(≒アナログ/デジタル変換)、再び「楽器」を通して音に戻す(≒デジタル/アナログ変換)ことが出来た事により「普遍性を獲得した音楽」は多分に「不自然」であることを自覚した「現代音楽」のアプローチが「ロゴス」と「非ロゴス」の対比そのものであり、その見地から、西洋音楽という流れに同期しながらも、より「自然」な「音楽」を指向した坂本龍一さんと武満徹さんの業績が、来るべき「次世代の社会」についても学ぶべき知見の宝庫であることが分かるのです。
○「あおいのきせき」の知見の出番
対義的「存在」が実は「境界」を挟んで「一つ」である、という「あおいのきせき」の知見。
正に「絶対矛盾的自己同一」(「ルビンの壺の例えによりますと、壺と横顔は同じである)という非「西洋」である「日本的」思想による「解決」が道しるべになります。
そう「ロゴス」によらず、非「ロゴス」にもよらない解決への道は、例えば「明治神宮」という「仕組み」にも隠されています。
いずれにせよ、始まりは、間もなくです。
私たちは「あおいのきせき」の知見により、「一即多」(一神教と多神教が異なるが故に同一)である事、つまり、地球は「西」と「東」、「南」と「北」で一つ、でしかあり得ないことを知っています。
本邦が誇る偉大な音楽家、細野晴臣氏の文脈に倣えば、「白魔術」でもなく、「黒魔術」でもない、其れこそが「イエロー・マジック」の秘密なのです。
相似形のテーマが「ほぼ日」最新の連載であることに「いま」気付きました。最近、糸井重里さんと物凄く「シンクロ」しております。驚きました。
下の安宅和人さんとの対談を是非。物凄く大切なお話しかと存じます。