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    旅で感じたことを書いています。

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    他の人が書いた記事です。

  • 言語

     変化の激しい現代において、自分に合ったペースでじっくり考えることが大切だと思います。これから私は1.2年の比較的長いスパンで1つのテーマを扱って行こうと思います。たった1.2年でその分野についての専門家にはなれません。ただその分野の面白さに気づき、自分の人生を豊かにしてくれる1つの視点を手に入れられるくらいまで、きちんと学んでみたいなと思っています。  まず1つ目に選んだテーマは『言語』。「言語が思考に与える影響は?」「言葉、文字を得て失ったものとは?」「見る、読む、聞く、どれも受動的だが何がどう異なるのか?」「母国語が異なることで、英語学習にどんな違いが生まれるのか?」といった言語にまつわる疑問について、考えていきたいと思います。

最近の記事

街並みとインスタと民藝

つい先日ヘルシンキに到着した。せっかくヘルシンキまで行くのだから、コペンハーゲン(デンマーク)→ストックホルム(スウェーデン)を経由して来た。 そこで改めて感じたのが、“街並み“の影響力だ。 歴史を感じさせる景観、広場の真ん中にある銅像、街の至る所にある時計台。そういったものが人々に与える影響。美的感覚や価値観をある程度定めていくような感じがした。もし、私がここで育ったのなら、違う美的感覚や価値観を持っていたのかもしれないなと思った(もちろん今の感覚のままでも十分にこれら

    • 「日本のサッカー界=Jリーグ」、ではない

      前回はスポーツによる解放シリーズの第三弾前編として、VARのもとでプレーしなければいけない義務はあるのかという問いからスタートした。私の結論としてはルール内の競争に執着するあまり、その上のレイヤーのルール作りにあまりにも無頓着になっている結果から生まれており、そんな義務はないということである。 つまり、自分たちでルールを作り、自分たちで運営し、自分たちでプレーすればいい。そして既にそういうことをやっている事例はたくさんあるということまで書いてきた。 そして私個人的にはこの

      • グラングリーン大阪と集落

        既に日が沈んだ休みの日。噴水のある深さ20cmの水たまり?池(正式には水盤と呼ばれているらしい)に少年が寝転がっている姿を見かけた。そのような光景なら、全国に世界に、あるかもしれない。しかしだ、この光景の周りにはたくさんのビルがあり、世界的に見ても大規模ターミナルに数えられる大阪駅がすぐそこに見えるのだ。この光景は私の都市観を更新するように迫ってきた。 ◼️集落との類似性大阪に少し用があったので、ついでにまだまだオープンしたてのグラングリーン大阪に行ってきた。そしたら「うわ

        • サッカー選手にVARのもとでプレーしなければいけない義務はあるのか。

          VAR(Video Assistant Referee)の導入でサッカーが(悪い方に)変わってしまったと多くの選手、監督、ファンが嘆いている。それでもVARが廃止されないのは、人々が公正なジャッジを求めているからに他ならない。これだけテクノロジーが発展している以上、誤審があった時その証拠はいくらでも出てくる。そしたらより一層揉める。だったら試合の流れが止まる(サッカーにおいて流れは大切な要素)などの不満があっても先にVARを使った方がまだマシだということは筋が通っている。

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        記事

          スポーツによって高原の見晴らしを切り開くこととは?

          さて前回、サッカー的なところはいくところまでいってしまい、高原の見晴らし(ピークに達しての安定平衡状態 見田宗介さんの言葉より)についてしまったのではないかということについて、近年の主要大会を見て私が感じていることを中心にまとめた。今回の前半部分では、これからどんなことがサッカー界に起きていくのか、現在の起きている新たな動きの具体例を出しながら考えていく。そして後半部分で、レベルからの解放を社会に置き換えるとどんなことになるのかを考えていこうと思う。 1 なおレベルを上げる

          スポーツによって高原の見晴らしを切り開くこととは?

          サッカーはレベルが高ければ高いほど魅力的なのか。

          前回、このような記事を書いた。ここで述べたのはスポーツにおける"国籍"からの解放であり、生まれた瞬間付随してきてしまうもののようなもの、つまり自分では選びようのないものからの解放だ。 スポーツはまだまだ潜在的なポテンシャルを秘めている。国が、そしてメディアが、これだけスポーツに執着して取り掛かっていると言う事実がそれを物語っている。私たちはスポーツを悪用させない権利を持っているし、スポーツで楽しくいい社会を築いていく権利も持っている。 今回はスポーツのと言いたいところだが

          サッカーはレベルが高ければ高いほど魅力的なのか。

          ディズニーのドローンショーにすごく感動したと同時に寂しく感じた。

          「なぜ静岡が選ばれた?」多くの地元民が不思議がっていることだろう。 というのは、なぜかはわからないが昨年に続き、静岡のローカルな花火大会にディズニーのドローンショーが来てくれた。しかもドローンの数は昨年のおよそ2倍の1500機。私も今年はタイミングがあって観に行くことができた。 ただこの日もものすごく暑かった。今年の静岡は異常である。初めての40℃越えを7月上旬に記録するなど、異様な暑さになっている。たしかこの日の日中は39℃くらいまであがり、花火大会の始まる夕方になって

          ディズニーのドローンショーにすごく感動したと同時に寂しく感じた。

          国を背負ってプレーする価値の低下 パリオリンピックサッカー日本代表メンバー選考より

          久保建英、松木玖生、そしてオーバーエイジの不在。この日本代表にガッカリした日本のサッカーファンも多いのではないだろうか。しかしだ、そもそもなぜ国民はガッカリするのだろう。それは質の高い選手たちは出場する義務があると国民が勝手に思い込んでいるからだ。本当は期待することころまでしかできないはずなのに。つまりそういった選手たちは出場する“権利“を持っていることを意味するに過ぎない。決して出場する“義務“がある訳ではない。 ◼️夢の舞台としてのオリンピックただそうは言っても、現状オ

          国を背負ってプレーする価値の低下 パリオリンピックサッカー日本代表メンバー選考より

          車窓から見える人たち

          自分以外の人がいる。その人たちが同じ時間を違う景色を見たり、違うことを考えたりして過ごしている。そんな至極当然のことがこの上なく不思議に感じてしまう瞬間がたまにある。 つい先日、新大阪から博多へ、そして数日後に博多から新大阪に戻り、さらに新大阪から静岡へ、新幹線で移動した。お金はあまりないが、時間はあったので、JTBの格安チケットとぷらっとこだまを使い、たらたらと、いや新幹線だから、たらたらという表現がふさわしいかは分からないが移動した。せっかくの長距離移動、しかも飛行機み

          車窓から見える人たち

          3 国によって英語学習に差がある理由② 〜言語の違い⑴ 文法〜

          りんごがapple、犬がdog、くらいしかわからない子どもの頃、日本語を英語にするとはこんなふうに考えていたと思う。 これはタイ語だが、こうやって、りんごがappleのように全ての日本語の単語がそれぞれ英語に置き換わるだけだと。でも実際は違う。とりあえずどうなっているのか見てみよう。 中学英語くらいを勉強してきた人ならわかるが、単語を英語に置き換えるだけで、英文ができるわけではない。むしろ日本語の場合は真逆に配置し直さないといけないし、他にも時制の問題だってある。現在完了

          3 国によって英語学習に差がある理由② 〜言語の違い⑴ 文法〜

          2 国によって英語学習に差がある理由①

          ワーホリ中に出会った人の中にフランス人カップルがいる。彼らは普通に英語でローカルの人とも会話ができていた。だからすぐに聞いてみた。 いやいや、そんなバカなと思った。その時は「あー、この人たちはもともとある程度英語喋れたんだな。多分謙遜しているだけだな。」と思った。でもヨーロッパ系の人でそういう人が他にもいた。これって何かありそうだ。 それに他にも、 と言われることがよくあった。いやいや、それじゃ答えになってませんから。私たちは高校までに6年間(現在は10年間)、大学合わ

          2 国によって英語学習に差がある理由①

          「Beautiful!」に感じた違和感

          美しいものを美しいと思える感性にときどき嫉妬する。同じものを見ているのに、その感情の振れ幅がなぜこんなにも異なるのか。「これにこんなに感動できるのか!素敵だな!」って。でもその一方で「あ、なんか嘘っぽい。口だけだな。」って思うことだってある。 こないだ、WWOOFというサービスを通して、地元の方の家に泊めてもらう機会があった。そこの人は明るく、笑顔を絶やさず、エネルギッシュな方だった。なんにでもポジティブで、いろいろサポートしてくれた。その人と庭をバギーに乗って、ドライブし

          「Beautiful!」に感じた違和感

          1 はじめに 〜英語はただの手段に過ぎないのか〜

          英語はただの手段。ずっとそう思ってきた。コミュニケーションを取るために必要な手段の一つに過ぎないと。 でもそんなことはなかった。手段であれば機械に置き換えてもいいはずだが、それで失うことは大きい。 小さい時、ふと思ったことがある。「戦後、公用語が英語になっていたら楽だったのに。」と。それなりに多くの人が一度は感じたことがあるだろう。でもそうならなくて、ほんとよかったと今では思う。 将来瞬時に翻訳してくれ、会話に支障のない翻訳機が発明されても、共通言語で会話をすることとは

          1 はじめに 〜英語はただの手段に過ぎないのか〜

          0 人生の中で、どれだけのテーマについて、それなりに深く考えることができるのだろうか。

           「人生の中で、どれだけのテーマについて、それなりに深く考えることができるのだろうか。」    私は教育学部を卒業し、その後教育業界に5年間携わってきた。世の中に様々な仕事があるが、自分にとって、教育、特に学校教育に携われて良かったなと思うことは、様々な学年の子どもと接することや小学校であれば、多くの教科を担当することができるということ。それはどちらかというと飽き性の私にとっては都合がよかった。  他の仕事だと、前に読んだ平野啓一郎さんの「ある男」の主人公が弁護士でいろ

          0 人生の中で、どれだけのテーマについて、それなりに深く考えることができるのだろうか。

          ワーホリは誰のために存在しているのか。

           ワーホリは誰のためにあるのだろう。  ワーホリはあまり日本では、肯定的な見方はされていない気がする。ただそれは誰の視点からのどういった価値観をもとにした見方なのだろうか。1 国(受け入れる側、送り出す側)、2 企業(受け入れる側、送り出す側)3 住民(現地)、4 本人の視点に立って、ワーホリの存在意義について考えてみようと思う。 はじめに(ワーホリの目的 本音と建前) 確かに、青少年に対して異文化の交流の機会の提供といった側面はあると思う。しかし本当にそれだけだろうか。あ

          ワーホリは誰のために存在しているのか。

          ありふれた言葉。

          先日、ある人に出会った。その人は分野が違う僕でも知っているくらい知名度のある方のもと学んでいた。だから気になっていくつか質問をしたんだけど、最後の質問とその仕方は本当よくなかったなと思う。 僕は、「すみません、なんかテンション上がってしまい、立て続けに質問してしまって・・・。最後に1つだけいいですか。『その人が教えてくれたことの中で一番印象に残っているものは何ですか?』」と聞いてしまった。 まず、前提としてこの場には僕以外に数人いた。そういう場での「最後に一つだけ」という

          ありふれた言葉。