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街並みとインスタと民藝

つい先日ヘルシンキに到着した。せっかくヘルシンキまで行くのだから、コペンハーゲン(デンマーク)→ストックホルム(スウェーデン)を経由して来た。

そこで改めて感じたのが、“街並み“の影響力だ。

歴史を感じさせる景観、広場の真ん中にある銅像、街の至る所にある時計台。そういったものが人々に与える影響。美的感覚や価値観をある程度定めていくような感じがした。もし、私がここで育ったのなら、違う美的感覚や価値観を持っていたのかもしれないなと思った(もちろん今の感覚のままでも十分にこれらの街並みは十分に美しかった)。

ガムラスタン

デンマークのニューハウンなんかはとても有名で、カラフルな外観がフォトジェニックであり、ストックホルムのガムラスタン地区は中世の街並みが残っていてなんだか現実ではない感じがして、夢の中にいるようだった。どちらの地区にもその珍しい風景を見に、多くの観光客が集まっていた。

ニューハウン

これは多くの外国人が京都の街並みに惹きつけられるように、私も北欧の物珍しい街並みに惹きつけられたということだと思う。今の時代、ローカルであり、ユニークなものが希少価値を持つ。

ただ最近思うのは、街並みや景観といったものがあまりにも外向きに偏重していないかということ。

先ほど、「もしここに住んでいたら・・・」という話をしたが、それは住民目線の話である。そもそも美しい景観は、外向きの観光客のために作り出されたわけではなかったはず。

例えば、ニューハウンのカラフルな街並みは漁師が遠くから自分の家を見つけやすいようにしたという理由や曇天の多い地域なので気持ちを明るく保つためという理由もあったようだ。そして何よりそれが内向きのアイデンティティの形成に繋がっていた。しかしそれが次第に観光目的のための景観の保存にすり替わってしまっている。

そこにはインスタの影響も大きいのだろう。インスタというプラットフォームに合わせた美が追求され(インスタ映えという名の限られた美)、それに合わせた街並みを作っていくような動きは世界中で行われている。日本の田舎に、お客さんが見たいような昔ながらの日本というイメージにあった街並みが再現されているのもその一つであろう。でもそういったものが大量生産されることで逆にまたありきたりなものになってしまっている。なんとなく表面だけ整えているものが多い。


美しい景観には民藝的な機能と美があったはず。長い年月と多くの人の手が加わって少しずつ修正が加らてできたからこその美しさがそこにはあったし、そこにはどういう素材を使うのか、どういう機能を持たせるのかの必然性がそれなりにあったんだと思う。だからこその誇りと愛着があったのではないか。それが失われてしまって、または見えにくくなってしまって、表面的な美だけが残り、内側に対する意識が薄れてしまった。そんなことに気付きつつある住民の願いは蔑ろにされてしまっている面もあると思う。

もちろんそれでもなおニューハウンに住んでいる住人にアイデンティティと誇りを与えるだけの魅力を与えているのだからあっぱれだ。ニューハウンでは、2階に住むおじいちゃんが窓から顔を出し、「今日はどんな感じかね?」と見渡していた。その表情は「うるさい観光客が多くて困る」という感じではなく、「いいだろ?この景観!」とどこか誇らしげに感じた。あ、いいなと思った。



私は今の時代に必要なのはもう少し内向きの民藝的な視点な気がする。

時間をかけて作ること。少人数の人たちで決めずに多くの人が影響を与えながら少しずつ修正して作っていくこと。そのような過程を得て作られたもの、今回であれば街並みや景観は決してそれが多くの人には評価されなくても、つまりバズらなくても気にせず、その人たちにとって誇りに思えるものになるはずである。

インスタやXといったプラットフォームによる共通の物差しができてしまっていたり、新自由主義的なお金がすべての物差しになっている今、そういったものから距離をとるためにも、少なくても私はもう少し内向きな民藝的な視点でモノ・コトを作る一員として、今後の人生を過ごしていきたいと思った。


※これも似たようなこと書いていたから、興味あったら読んでみてください。

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