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「日本のサッカー界=Jリーグ」、ではない

前回はスポーツによる解放シリーズの第三弾前編として、VARのもとでプレーしなければいけない義務はあるのかという問いからスタートした。私の結論としてはルール内の競争に執着するあまり、その上のレイヤーのルール作りにあまりにも無頓着になっている結果から生まれており、そんな義務はないということである。

つまり、自分たちでルールを作り、自分たちで運営し、自分たちでプレーすればいい。そして既にそういうことをやっている事例はたくさんあるということまで書いてきた。

そして私個人的にはこの流れに賛成だ。しかしここで大事なことがある。今回ではあれば、「脱Jリーグ」とかなのだが、「脱〇〇」というものはいいことばかりではないということである。

それは私が何事でも何かを得たらなにか失うものがあると考えていることが根底にある。そのような私からすると、今回の脱中心化していくことの中には危険性が孕んでいたり、失うものがあったりするということ。

それらをしっかり直視した上で、それとどう付き合っていくのか。答えはいつだって、白や黒ではない。右や左でも上や下でもない。真ん中の”方に”ある。またそれはくっきりとしたものではなく、ボヤけて上手く捉えられない。人によって微妙に異なる。そんな曖昧でありつつも、なんとなくその気配を感じずにはいられない真ん中の方に向かって人はそれぞれ歩いたり、走っていたり、止まったり、戻ったりしている。なにかを得るために何かを捨てて。それでも人は捨てたなにかを求め、もがきながら向かっていく。今回の話はそんな話なのかもしれない。


1 脱中心化の危険性

「脱〇〇」とはつまり、古くなった何かの枠組みを壊していくということだろう。人が当たり前だと思っている確固たる枠組みを見直し、新たに枠を設定し直すこと、哲学の分野で言えば、デリダのいう「脱構築」である。1970年代後半に打ち出されたもので、本来「古くなった価値観や常識といったものを、一旦崩し、フラットな地平で議論し、さまざま可能性を模索していこう」というものであった。

しかしどんなことでもそうかもしれないが、脱構築という言葉も同様に勝手に一人歩きしていき、問題を起こしていった。今まで、権威者に対して意見すら言えなかった者たちに、ある意味都合のいい後ろ盾を与えてしまった。それってあなたの解釈に過ぎないでしょ?と権威ある人たちに言えるその快感に動かされて、ただただ壊すことの快感に動かされて、何もポジティブな変化を生まない人で溢れてしまった。(14歳からの哲学入門より)

他にも危険性はある。権力がある人とそれに従属せざるおえない人たちの問題を第三者が指摘するとき、第三者が逆に権力を持ってしまうという構造的問題がある。今回で言えば、私のような人だ。そこに無意識になるのは危険である。(社会が漂白され尽くす前に より)


◼️脱中心化した先で“失われるもの“と“得られるもの“

失われるもの

①資本が集まるからこそできる大きなこと・質の高いこと
中央があり、資本が集まるからこそできることはある。贅を尽くした建築、お金をかけるからこそできる映画(アバターの制作費500億円)・音楽ライブ(テイラー・スイフトのツアー制作費は数百億円)、そして大きなスタジアムでのサッカーの試合(レアル・マドリードの予算1500億円/年)。

極端にはなるが脱中心化した世界では、資本が集まるところがなく、こういったモノ・コト・ヒトがなくなっていく。

②「Always 3丁目の夕日」的な一体感
一億総中流のような、みんなが同じような経済状況であり、みんなが同じようなことを望み、それが達成するためにみんなで頑張り、うまくいったらみんなで喜び、失敗したらみんなで悲しむ。そんな時に感じる一体感であり、心地よさ。サッカーで言えば、部活で勝利という一つの目標に向けて、部員全員でそこに向かっていく時の感覚。学校教育で言えば、運動会や合唱コンクールのようなものもそうだと思う。

※ 私もこのような一体感や心地よさはすごく分かる。ただこれはマジョリティー側に立った時に感じるものであり、マイノリティー(合唱が苦手だった私)側に立つと、疎外感と苦痛を感じる。そしてマジョリティーはマイノリティーをほっといてはくれない。どうにかして枠の中の取り込もうとし、それが無理だと分かると攻撃(無視や変人扱いも含めて)が始まる。このような一体感による気持ちよさが、人々の凹凸を均して作られたものであり、かつ誰かの犠牲の上に成り立っている事実はみんなが分かっておくべきである。

③“同じ“で集まること(場所に縛られた有限性のある身体のことを考えた時)
都市のスポーツを考えた時に、そこには種目やレベルの選択肢が無数にあり、自分と同じような人が集まるコミュニティに入れる。同じようなレベルの人たちとプレーすることの楽しさ(勝つか負けるか分からない、自分の全力を引き出してくれるなど)はあるし、似たもの同士だからこそ、対等に深い話ができることもある。

それは都市では専門性の高い、マニアックな商売でも成り立つこと似ている。もし脱中心化して、もっとバラバラに人が住み始めたら、成り立たなくなるだろう。人口の少ない国では娯楽が本当に少ない。そういう風になるということ。

④頂点がなくなる(分かりづらくなる)
今はFIFAW杯の優勝チームが世界一ということになる。バロンドールを取った選手が世界一の選手になる。ただもし仮にFIFAの管轄外のリーグにそれくらいのチームや選手がいたらどこのチームが誰が世界一かを決めるのが難しくなる。

多分イメージしにくいと思うので、例えばプロ野球のセ・リーグとパ・リーグのことを考えて欲しい。両リーグのチャンピオン同士が日本シリーズで戦って日本一を決めると思うが、日本シリーズがないようなものだ。そのような世界では、チャンピオンがあいまいだ。

つまりW杯のチャンピオンが本当にチャンピオンなのかというモヤモヤを選手も観客も感じて、相対的にその感動、偉業の価値が下がってしまう恐れがある。

⑤羨ましがられにくくなる


ここには”自分にとって”がない。みんなが欲しがるものが欲しいという自己矛盾。これは女性に限らず男性にもあるし、恋人だけでなくいろんなコト・モノに対しても。そしてこれらはものすごく厄介。
そういう人たちにとって、みんなが欲しいと願うものがなくなっていく社会はつまらない。(この羨ましがられたいという自慢したいではなく、受動態を使った表現で表されるこの感情の正体はこれからじっくりと考えていきたい。なぜなら自分もこの気持ちが分かるから。)

⑥中間層がいなくなる

「ジャンルや好みの細分化が進み、予想外の出会い=セレンディピティが促され、大ヒット曲がさらにヒットする」というこの傾向によって、従来と何が大きく変わりつつあるのか。まず挙げられるのが「中間層」が希薄になりつつある点だ。つまりは「大ヒットするわけでもないけど、そこそこの売上も一般的な知名度もあるアーティスト」が少なくなっているというわけである。

雑誌広告『115 ポップミュージックにおける「交配と捕食のサイクル』より

さっきいった①のところで「大きな資本が集まることでできること」はもちろん影響がある。しかし一番影響を受けるのは、トップではなく、この中間層なのかもしれない。


得られるもの

①逃げやすくなる=より自由に・対等に=権力の行き過ぎを防ぐ

今回の話はVARから始まった。なにか不満があったとき、もちろんそこを変えられたらいいが、そうできない時もある。そのとき仕方なく我慢するのではなく、逃げられたら楽だ。もちろん、必ず逃げる必要はない。けど、ほんとに無理なら逃げてもいい、逃げられるということがあるだけで気持ちは違う。

これは学校や会社の中での、いじめの問題とも近い。他にもなんとなく合わないと感じている時、そこから逃げられるのかそうじゃないのかでは大きく違う。もし逃げられるのであれば、こんなに多くの人が自殺や鬱にならないだろう。

このような状況が整うと人は自由をより感じる。そしてようやく対等な関係で、世間的に権威のある人たちと話し合える。

権力は依存させたがる。自分たちをを選ばざるを得ない状況を作りたがる。しかし他に選択肢ができたら、無理な要求を押し付けられなくなる。

自分たちに必要なことを作っていく過程で、結果的に権力の行き過ぎを防ぐ。これは権力を弱めるためにするのではない。自分たちに必要なことを作っていく過程で、結果的に権力を相対的に弱める。この順番が大切だと思う。



②つくる楽しさ・豊かさ

創造社会においては、人々は、自分(たち)がつくりたいと思うものを自分(たち)でつくることができるようになり、どれだけ自分がつくりたいものをつくれているかが、生活・人生における「豊かさ」を象徴することになるだろう。

井庭崇『クリエイティブラーニング 創造社会の学びと教育』


子どもたちの好きな教科の中に図工があるように、多くの人にとってなにかをつくることそれ自体に楽しさがある。

大人になるとつくることは遊びというよりは仕事と結びつくことが多いかもしれない。それでも少なくない大人が遊びとしていろいろなものをつくっている。自由な時間にプラモデルや刺繍、絵をつくっている人たちがいる。趣味に料理作りがあったり、部屋内装を考えてつくることがあったりするのもそう。

つくることはめんどくさい。こんな風に捉えられがちな世の中だけど、案外人にとって”つくること”こそ”したいこと”なのかもしれない。

前編で取り上げたSitens FCのこの取り組みなんて、作り手である本人たちが楽しんでいると思う。



2 理想のサッカー界

ここからは今までのことを踏まえて、ではどういったサッカー界になっていくのが、理想的なのか?それを前半部分では抽象的なレベルで、後半部分では具体的なアイデアを提案していきたいと思う。

◼️3つある枠組みの可能性

私が主に前回話してきたことは、FIFAという管轄の外側にでて、新たにサッカーの可能性を広げていこうという狙いがある。そのために新たなリーグの創設や、そこまでいかなくても自分たちで作って、自分たちで運営し、自分たちでプレーして、自分たちで楽しむことのようなことがもっと盛んになってもいいのではという提案であった。

ただその時に新たに創設されたリーグがどういった立ち位置を取れるのかが重要だと思う。仮に新たに『LFA(Local Football Association)』というリーグ兼協会を作ったとしよう。その時、LFAがどういった立ち位置というか枠組みの中に入れられるかが重要である。私は3つ考えられると思っている。

① FIFAの中に取り込まれる

このモデルでは、LFAはFIFAの中に取り込まれ、その中の一つのカテゴリーみたいなところ、もしくは特別枠みたいな扱いになるのかも知れない。具体例としてはロンドンのアマチュアサッカーリーグであるSuper5Leagueがある。FAから承認され、賞ももらっている。いいか悪いかは別にして、それによって知名度や一定の地位が与えられている。それと同時にそうやって新しいカウンターのようなものを内側に取り込むことでよりいっそうFAの権威は高まる。

②サッカーじゃないものとして扱われる

サッカーというものがイコールFIFAというものであり、「LFAがやっているのは、サッカーではく、新しいスポーツであり種目ですよ」という扱い。これはソサイチのように、別枠に設定される。これによってFIFAはサッカーの全域を覆うことができ、権威を保てる。

③ サッカーの中の1つ

このモデルでは、あくまでLFAはサッカーの中の新たなリーグ(協会)という扱いになる。「サッカーのルールはFIFAが全て決めますよ」ではなく、「サッカーにはいろいろなルールやり方があって、FIFAもLFAもその中の1つに過ぎないですよ」となる。これが脱中心化であり、多元的社会におけるサッカーのあり方(いろいろなサッカーのあり方があっていいという意味の)だと思う。

なにか一つの原理が全域を覆ってしまうことはどこか息苦しく、不健全なことだと思う。世界には1つとして、1つだけの原理で全てを説明しきれるものはないと思うし、どこかに矛盾を孕んでいるものだと思う。

だからこそ不完全だけど誰かにとって大切なもの、そういうものを一定数作っていき、それらが共存していくこと。その先にしかある意味完璧な世界はない。


▪️FIFAの価値

このように考えると、FIFAの価値が相対的に下がるような気がするのではないか。しかし私はそうとも限らないと思う。LFAという外部が生まれたことにより、FIFAの価値が再発見される。私たちは今まで当たり前だと思っていたことに気づくには、外部に出たり、それを失ったりしないとなかなか分からない。私は失うことで分かるものもあると思うが、失う前に外部に出たり、外部を作って、その価値を再発見できる方がいいと思う。

FIFAは国際サッカー連盟である。人々の間から自然と湧き上がってきた「世界一を争いたい」という欲望。その欲望自体決して悪いものではなく、その欲望を叶える場としのワールドカップをFIFAが作り上げたのは大きな功績だろう。私を含めた多くの少年少女に夢と希望を与えてきたし、多くの大人たちにも様々なドラマを見せてくれ、楽しい時間を提供してくれた。

ただそんなFIFAも過渡期である。レベルの頭打ちが見えてしまったこと(レベルからの解放)、VARなどの扱いで露呈した人間味との兼ね合い。

私が今回伝えたいのは、FIFAという単一の組織でサッカー界全体(価値観・ルールなど)を覆うのには無理があるということ。そうではなく、それぞれの価値観や場所にあったルールをそれぞれで作っていく方がいいのではないか?それが翻ってFIFAの役割を明確にし、FIFAの価値の再発見につながるのではないかということ。

FIFAがこれまでVARやゴールラインテクノロジー、そして同じ規格のコート、芝の長さ。そういったいかにクリーンで平等なバグやノイズのない世界での競争を目指していたかを考えると、そこをもっともっも突き詰めていく世界に価値がある。「機械といっしょじゃん!」という声もある。でもそんな声無視していい。なぜなら、そうやって合理的に突き詰めた引き算の先にこその美しさがあり、そこからちらっと見える人間味に人の心は打たれるから。逆に変にブレるとつまらないと思う。FIFAが担うべき役割はこういったことで、私はあまり好きではないが、こういうものは必要だし、価値があると思う。

▪️つくりたいのに消費者にさせられてしまっている人たち

全員ではないが、つくりたいのに消費者になってしまっている人たちは意外と多いと思う。そうなってしまうのは作り手がどうしても消費者を必要としてしまうからだ。

例えばさっきアバターは500億円くらいで作られていると言ったが、相当な数の消費者を必要とする。その消費者の中には本当に楽しみにしていた人たちもいれば、なんとなく動員させられてしまった人もいる。私は後者の人たちがなんとなく動員させられないようにすることはそれなりに大切だと思う。

それは別に大金かけて大きくやったものが、みんなにとって本当に魅力的なのかと言われたら、意外とそうでもないんじゃないか?と思うからだ。

何が言いたいかというと、アバター(別にアバターじゃなくてもいいけど大きなコンテンツ)を見て、自分の子どもの試合、教え子の演奏、球技大会でのクラスメイトのプレー、友達のやっているバンドのコンサートなど、そういった不特定多数に向けられたものではない自分に近い事柄のものを上回る感動や楽しさを味わえた人は果たしてどれくらいのいるのか?ということ。


こういう風に考えた時に思い出す言葉がある。

ホッブズ的に言えば、「万人による万人の時間の奪い合い」

https://x.com/shu_yamaguchi/status/1512941391336263681?s=46
山口周 

さらに私は時間を奪われることで、お金、役に立つ機会、楽しみを作り出すこと、そういったものまでもが、奪われている気がするのだ。

良きコミュニティには内輪ネタが存在する。誰しもが人を笑わせることができて、誰しもが笑えて、そして外部にはまったく波及していかないのが内輪ネタだ。

東畑開人『居るのはつらいよ』


楽しい。外部にはまったく分からないけど、楽しい。

なにかを一緒に作る過程で人間関係をつくり、内輪ネタかもしれないが、内部の人にとったら楽しいことを、役に立つ機会をつくる。そしてお金の流失を防ぐ。こういうことって前も言ったけど、大きなコンテンツに比べても魅力的なものだと思う。

ただこういったことってめんどくさいし、問題も起きる。それでも私たちはこういうことも求めている。

しかしこういう価値が相対的に評価されてない。逆に不特定多数でも受け入れてくれるような商品の価値が相対的に高くなっている。

もちろん、逆に見ず知らずの人でも、ユニフォーム着て、スタジアムに行けば仲間として認められる。そして点が入ればいっしょに喜べる。これはこれでとっても大切なことだし、こういうことでしか得られないものもある。それに人付き合いが苦手な人にとって、内輪ネタに何でもかんでもなっていったら苦しいと思う。両方とういうか、ここに様々なグラデーションのものがあることが大切。

ただ今は何でもかんでも商品にしようとしているご時世だから、そうじゃないでしょ!ということを私は強調したい。もちろん反対側の人ににとったら私は邪魔な存在だ。なぜならなんでもかんでも商品にした方が、そちらの側の人間にとって自由度が増すから。

私が言っているのは、お金で買えないものをちゃんと手放さないようにしましょう!お金で買わなくても楽しいことって作れますよ!自分たちの時間やお金、そして作り出す楽しさを守りましょう!ということであり、余計なことをしているように思えるかもしれない。

でもこれって健全なことであり、健全なものがしっかり残る世の中の方がいいのでは?


3 こんな取り組みはどう?

さてここからは、具体的に「こんな取り組みどう?面白そうじゃない?」というものを提案していきたい。

① 田舎のクラブでつくるサッカーリーグ

プロスポーツクラブの本拠地が都市にないものはほぼないといっていいのではないか?"横浜"FM、サンフレッチェ"広島"、FC"バルセロナ"、バイエルン"ミュンヘン"。野球だって、巨人の本拠地は東京であり、ソフトバンクの本拠地は福岡であり、楽天の本拠地は仙台である。それが意味するのはプロスポーツは都市に住む人のためのエンターテイメントであると限定されているということである。もちろん、テクノロジーが発達した現代では、オンラインでの視聴も考えられるし、全てのファンがその都市に住んでいるわけでもなければ、毎回スタジアムに足を運んでいるわけでもない。でも、例えば辰野(長野県)、竹田(大分県)のような田舎はプロスポーツクラブの本拠地には選ばれないのである。

サッカーでいうと、Jリーグの場合J3に加入するためには収容人数5000人以上のスタジアムを持っていることなどの条件があり、現実問題で田舎にその規模のスタジアムを作り、一定の観客動員数を集め、維持するのは不可能に近い。

しかしだ、Jリーグとは別のリーグを作ってしまえば、そういったしがらみからは解放され、人数だって、コートサイズだって、自由に決められることによって、可能性を秘めているのではないかと思う。

これは一つの例だが、前にも取り上げたバーレーンのとある村での行われたサッカーの試合会場の映像である。

これはさっき取り上げた球技大会の話なども加味すると、選手・観客含めて十分満足度の高いゲームになっていたと思う。こういった地方での*手作り感のあるコートの中で試合するリーグというのも作れるのではないかとも思う。

※例えば、
①少し傾斜のあるコート
②あえて泥のコート
③落ち葉、ウッドチップ
など。

練習は都市部でするが、試合は田舎で行うようなことがあってもよい。関係人口という言葉があるが、そのような感じ。社会人リーグのようなところでやっている人たちにとって、本拠地と呼べるところをもっているチームは少ない。その人たちチームにとって本拠地をもち、プレーできることは一定以上に魅力になると思う。

またアウェイまで遠征するファンがプロスポーツクラブにいるが、その人たちだって試合だけが目的ではない。アウェイの地にいくこともおまけかもしれないが、十分一つの楽しみとして遠征している。そう考えると、地方にはまだまだ魅力がある。観光地化されたところへの旅行にあきあきとした人々は増えてきている。それも追い風になるかもしれない。

プロスポーツクラブだと、やっぱりシビアな世界で、選手とファンの垣根を縮めようとしても、そこには一定の距離をセキュリティの問題を含めて必要とせざる負えない。それに対して地方のクラブリーグでは、もう少しマイルドなゆるりとした空気感で、選手とファン、対戦チームとの垣根も少なく、より深い交流の可能性を秘めている。

②面白いクラブがJ8(県リーグ)から始めなくてもいいのでは?

いろいろな面白いクラブがある。でも新しくクラブを立ち上げた以上、カテゴリーの1番下のリーグから始めないといけない。

「いや、勝手に自分たちで作って始めちゃえばいいのに」と軽率かもしれないが、思ってしまう。

もちろん、一歩ずつ階段を登っていく楽しさもあるが、できなくないのでは?J8のクラブという位置付けより、新たな全国リーグの1部、2部の方が魅力的かもしれないのでは?


③子どもの草サッカーリーグ

今の時代、子どもたちのサッカーはJFAによって一元管理されている。それによって得られたことも大きい。でもそこには失ったものもある。

そもそもなんで子どもたちは大人の管理下じゃないとサッカーができなくなってしまったのだろう。昔は自分たちでメンバー集めて、場所決めて試合できていたのに、なぜできなくなってしまったのか?

こういったものをあくまで子ども中心で作っていくリーグがあってもいい。自分たちでメンバー集めて、ユニフォーム作って、日程や場所の調整してやっていく、ほんと草サッカーのようなものを。大人はそのサポートだけ。困った時にアドバイスしたり、声の大きな子の意見で事が進みそうな時、少し調整したり。

たぶん、こういったことをやれた方が楽しいと感じる子もそれなりに多いのでは?


この3つのアイデアはJFAの外部を考えるなら自然と出てきそうなものだ。なにかこういった活動をしてる人たちがいたらぜひ教えて欲しいです。


参考文献
井庭崇『クリエイティブラーニング 創造社会の学びと教育』
東畑開人『居るのはつらいよ』

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