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1 はじめに 〜英語はただの手段に過ぎないのか〜
英語はただの手段。ずっとそう思ってきた。コミュニケーションを取るために必要な手段の一つに過ぎないと。
でもそんなことはなかった。手段であれば機械に置き換えてもいいはずだが、それで失うことは大きい。
小さい時、ふと思ったことがある。「戦後、公用語が英語になっていたら楽だったのに。」と。それなりに多くの人が一度は感じたことがあるだろう。でもそうならなくて、ほんとよかったと今では思う。
将来瞬時に翻訳してくれ、会話に支障のない翻訳機が発明されても、共通言語で会話をすることとは異なるし、そもそも英語を学習することが脳に与える影響だってあるし、日本語で思考できるということはそれだけで、思った以上に価値があるのかもしれない。
なぜ、言語に興味をもったのか。
まず、初めにこの引用文を読んでいただきたい。
母語の発達は下から上へ進むのに対し、外国語の発達は上から下へ進むということができる。
(中略)
外国語の習得は、母語の高次の形式のマスターのためにの道を踏みならす。(中略)。母語現象を一般化する可能性を子どもに与える。(中略)。自覚的・随意的言語の次元に移行させる。
私にはこの意味がまったくよくわからなかったが、なんか引っかかっていた。だからこそ英語を学び始めて、半年以上が過ぎたが、なんとなく言わんとすることが分かりかけている。でもその感覚はまだうやむやだ。時間をかける必要がある。
そんな風にして、英語から徐々に言語そのものに興味をもち始めた。そして数冊の本とネットの記事をいくつか読んだが、やっぱり面白そうだ。まだあまり調べられていないが、言語が、言語学が面白いかもと感じられる段階?にはなったんじゃないかなと思う。
そんな今思うのは、若くして言語学の世界の面白さに気づき、言語学の道を志す人たちの感性に驚かされる。もし、ふと、こちらのマガジン(なんかマガジンなんていうと、なんだか一丁前な感じがして気恥ずかしいが、便宜上使われてもらうと)の投稿を見てくれた、言語学部の学生さんがいたら、いろいろ教えてほしい。
おそらくこれから様々なことを調べていくうちにたくさんの疑問が出てくるだろう。その疑問にピンポイントで答えてくれるような文献を探せない場合もある。また私の未熟さから言語学の理論を私の個人的な経験に適応させることができないこともあるだろう。そういう時に教えて頂けたら幸いです。
再度、長期的に1つのテーマに取り組む意味
ここでもう一度、1、2年という比較的長い時間をかけて、1つのテーマについて学んでいくことの私にとっての意義を確認したい。
もし仮にお金に困らなくても、私は言語学を学びに大学に通おうとは思わないはずだ。私の人生という中で、言語について集中的に取り組む期間はそこまで長くなくてもいいかなということ。こんなことを言うと、「そういうそういう奴が一番中途半端で嫌いだ」と言われてしまうかもしれないが、私は、人それぞれが、人生の中で、「いつ、何を、どれだけ、摂取するのか」を決める自由があると思う。
言語というものに、ある人は、まったくと言っていいほど関心を示さないかもしれない、またある人は、時たま流れてくるネット記事、SNSの誰かの投稿をみるくらいかもしれない。またある人は、1冊の本を読むくらいかもしれないし、またある人は、夏休みの間、言語についての本を読み漁るかもしれない。またある人は、時たま言語の本を読み長い人生をかけてゆっくり学んでいくかもしれない。そしえある人は言語学の道を極めるために学者の道を志すかもしれない───。
どれも間違っていない、その人を満足させるなら。今はそこら中に私たちの時間を盗み、結果満足感をもたらしてくれないものに溢れている。山口周さんが、いつかTwitter(今はx)でこんなことを言っていた。
人から奪った時間は高く売れる。民放テレビ局の平均年収が異常に高い、あるいは一部のYoutuberの年収がトンデモないことになっているのはそういうことです。奪われた側はどうなるかというと見ての通りです。ホッブズ的に言えば現在の様相は「万人による万人の時間の奪い合い」です。
— 山口周 (@shu_yamaguchi) April 9, 2022
私はわたしの時間を奪われたくないし、人の時間も奪いたくない。
「時間を何に費やしたいのか、どれだけの時間を使えばいいか。」
今回の取り組みはそれに対する私の人生を振り返って生まれた仮説であり、その仮説を確かめるための実験だ。
卒論ではなく、小学生の自由研究のように
卒論の場合、先行研究がまず最初に行われる。自分のこれから行う研究が、既に誰かによって行われ、発表されていたのだとしたら、意味がなくなってしまうからだ。
一方で、小学生の自由研究はどうだろうか。確かに個性的なものもあるが、大枠でとらえれば、既知の事実をその子なりに研究しているに過ぎない。学問的には価値がない。でもその子にとって、自分で仮説をたて、実験し、再発見していく過程に、価値がないとはいえないだろう。その子はその子なりに“大発見“したんだ。教科学習もそう。基本的に退屈なレールの上を進むだけのものかもしれないが、時に彼らは大発見したかのように「先生、見て見て!!」と言ってくる。それは世紀の大発見ではなく、既知の再発見に過ぎない。でもその子にはそんなこと関係ない。
私がしたいのは、基本的に小学生の自由研究みたいなもの。言語学の世界からは既知の事実かもしれない。でもこれから私が再発見していくものは私にとっては価値がある。それで十分なのだ。これはあくまで、私のためのものなのだから。私を満足させ、人生を豊かにしてくれるのであればそれでいい。学びが全ての手段になったら、それは悲しい世界だ。
でも、そういった個人的なものも、時に誰かに気づきを与える。世界的トップチームのプレーからではなく、とある町クラブの子どもたちのプレーから、気づきを与えられることがあるように───。
※
どんなことに興味があるのか、少しだけ記しておく。
「なぜ他の国の人たちは英語が話せる人が多いのか。」
「ネイティブのように学ぶことで失うものは。」
「言語が思考に与える影響はどのようなものがあるのか。」
「言葉、文字を得て失ったものとは。」
「見る、読む、聞く、どれも受動的だが何がどう異なるのか。」
この取り組みを始めるにあたり、影響を受けた2つの本と1つの記事を紹介して終わりにします。