サッカー選手にVARのもとでプレーしなければいけない義務はあるのか。
VAR(Video Assistant Referee)の導入でサッカーが(悪い方に)変わってしまったと多くの選手、監督、ファンが嘆いている。それでもVARが廃止されないのは、人々が公正なジャッジを求めているからに他ならない。これだけテクノロジーが発展している以上、誤審があった時その証拠はいくらでも出てくる。そしたらより一層揉める。だったら試合の流れが止まる(サッカーにおいて流れは大切な要素)などの不満があっても先にVARを使った方がまだマシだということは筋が通っている。
ただここで問題なのは、人間が必ずしも正しいものを良いとは考えないことだ。だからこそ、そういうことを分かっていながらも多くの人がVARを批判しているのだと思う。(もちろん、自分たちのチームに不利な誤審があれば、ブチギレて、「VAR反対なんていったやつはどこのどいつだ!」とも言いそうだけど)
サポーターの79.1%がVARのある試合を悪いと言っているのになぜ廃止にならないのか
選手や監督のどのくらいの割合が、VARに否定的かは分からないが、少なくない割合だろう。著名な監督が公の場でわざわざVARを批判していることを度々目にしているから。
上の記事はサポーターのVARに対する考えについてアンケート結果だが、79.1%ものサポーターがVARに対して否定的だ。これはかなり高い割合ではないだろうか。
それなのに、なぜVARは廃止されない?なぜなんだ。それはルールを決める決定権が少なくともファンにはないからである。もしファンにルールを変える決定権があれば、もうすでに変わっているだろう。
誰がルールを決めているのか
それはFIFAやJFAなどの協会だったり、クラブの幹部を集めた総会だったりで決まる。つまり、そこに選手や監督、ファンに投票権や直接意見を述べる場はない。もちろん、そこにいる人たちは選手や監督、ファンのことを考えて意見を述べているだろうが、本当のところは分からない。
だったら、ストライキでもすればいいし、別のところでサッカーすればいいじゃないかと思われるかもしれない。でも選手や監督にとって、そういった協会が主催している大会やリーグに代わるものがない以上、彼らの判断に否定的なコメントを述べることまでしかできず、受け入れざる負えない。
本当に受け入れるしかないのか
でも、本当に受け入れるしかないのか。その選択肢しかないのか。もう既トップリーグとしてイングランドならプレミアリーグ、日本ならJリーグがあるからと言って、もう一個新しいリーグを設立してはいけないのか。例えば誤審も含めて、人間のままならなさを受け入れ、人間の人間による人間らしいサッカーを取り戻すという使命のもと、VARを使わずに運営されるリーグを作ってしまうというのは本当に不可能なのか。
今回はスポーツによる解放シリーズの第三弾として、ルールからの解放について書いていこうと思う。
以前のこのシリーズ記事
①国籍からの解放(自分では選びようのないものからの解放)
②能力からの解放
結論: 不可能ではない
結論を先に言うと、不可能ではない。それは、
①については、後ほどいくつかの具体例を示しながら考えていくとして、先に②について書いていこうと思う。
中央→脱中心化
近代という時代を考えた時に、人間中心主義による温暖化の問題やたくさんの生物の絶滅、自民族中心主義によるたくさんの戦争や差別、権力の集中による汚職や不平等があった。それらは全て中心・中央というものの存在があったからこそ生まれてしまった。もちろん、そういう中央集中というものを作り出したからこそ得られたもの(サッカーなら国際大会など)もたくさんあることを忘れてはいけないが、近代という価値観に問題が山積みなこともまた確かである。
だからこそ現代という時代に生きる私たちは次のステップに進まなければいけない。でもそれがなかなか思うようには進んでいない現状がある。サッカーやスポーツもまたしかり。現代という時代で為すべきことの一つに中央集中を脱却し、脱中心化していくことがある。
つまり、現代の価値観的には、FIFAやJFAなどの中央集権のシステムは時代遅れとも言える。だからといって、FIFAやJFAが廃止され、FIFAワールドカップやJリーグが廃止されるべきだと言っているわけではない。そうじゃなくて、”相対化”されるべきだということどあって、そのために例えば日本にJリーグのようなリーグをもう一個作ってもいいでは?ということである。
そもそも、なぜサッカー(スポーツ)は近代の価値観と結びついているのか
少し話が遡るが、サッカーを含めたメジャースポーツの多くは近代の真っ只中に生まれたものであり、そもそも近代スポーツと呼ばれることもある。それくらい近代を象徴したものの一つなのだ。
近代とは、資本主義社会の始まりを意味する。その資本主義を引っ張ったのはイギリスの上流階級(ミドルクラス)。そして彼らの子息教育を行なっていたのがエリート私立校であるパブリックスクールだ。そこでサッカーやラグビーなどの近代スポーツは発展した。そして自ずと彼らの価値観であった、暴力の廃止、ルールの遵守、忠誠心などがスポーツに反映されていった。それと同時にそもそも彼らの価値観に合ったから近代スポーツが教育の一環として取り入れられたという面がある。
そのようにして生まれたものはやはり近代の価値観が染み付いている。それを現代にアップデートするのは難しい。
そして近代という価値観というか、文明社会の根深い問題がある。それは権威への欲望だ。
権威にすがる人々
ではなぜ権威を人が求めるのだろう。それは文明社会で生きる我々には、人の上に立ちたい欲がどこかにあり、支配欲もまたしかり。そのような思い通りにしたい欲望を抱きがちだ。しかし合理的、理性的に考えたら、なかなか全て成し遂げることは不可能である。
そのため権威にすがろうとする。なぜなら権威さえあれば、ある程度不合理なことも受け入れさせることができるから。現代の私たちはここを乗り越えていく必要がある。
もう一度現代の為すべきことを確認しておこう。
では、どうしたらよいか?
ルール内の競争→ルール作りへ
どうしたらいいかを考えるために、為末大さんの3つの争いを参照する。
為末さんは競争には3つのレイヤーがあると言っている。そしてそこには上位下位の概念がある。下位概念から順に①ルール内競争、②ルール作りの競争、③価値観醸成の競争。
つまり、ルール内で競争しているいわゆる選手たちよりも、ルールを作っている協会の人たちやクラブの経営をしている人たちの方が権威が生まれるということ。
ここでもう一度、近代スポーツの歴史の話に戻ろう。
サッカーやラグビーはボール1つあればどこでもできるため、パブリックスクールで発展したあと、労働者階級にも普及していった。そして労働者階級のクラブは徐々に力をつけていった。
とはいえ、上流階級と比べれば余暇の時間はごくわずかで、練習や試合のために工場を欠勤すると給料がもらえず、所得が減ってしまう。そこで、労働者階級のクラブは強化するため、優秀な選手を金銭的に援助するようになり、ついにはクラブから給料を受け取るプロ選手が誕生した。
しかし当時の英国は今よりもよっぽど厳しい階級社会だった。そのため、上流階級の人たちは労働者階級出身の選手と一緒にプレーすることを嫌った。そもそもいっしょにプレーしたくないし、労働者階級の人たちに負けるのも、彼らの"プライド"が許さなかった。
そのため上流階級がつくったFA(The Football Assosiation: イングランドサッカー連盟)もRFU(Rugby Football Union: イングランドラグビー連盟)も当初はプロクラブの加盟を認めようとしなかった。
だが、その後、サッカーの統括団体であるFAはプロの存在を公認するようになる。
それはなぜか。ここに隠された真実があるように思われる。
彼らはプライドを保ちたかった。つまり上の立場に立ち続けたかった。支配する立場であり続けたかった、思い通りにしたかった。
だから選手ではなく、経営者や協会の立場を取った。
→そしていっそのことスポーツも資本主義の中に1つにしようと仕立てた。(ここはシリーズ第4段として"市場"からの解放として書こうと思っている。)
彼らが自覚的だったか、無意識だったかわからないが、どちらにせよ自分たちが資本主義の実社会で一度手にしたポジションを死守したのは確かである。「ルール作りの競争」という、「ルール内の競争」の一段上のレイヤーに移ることで、上の立場を死守したのである。
さて、少し話が長くなったが、ここでもう一度問いに戻ろう。「普遍的な権力・権威を排し、相対的な連帯・協調を重視するには、どうしたらよいのか?」
その答えはもう出てるいる。
サッカー界を変えていく取り組み
さて、ここからいよいよ、実際に既に行われている取り組みを見ていこうと思う。
⑴Kings League
元FCバルセロナ(元スペイン代表)のピケがチェアマン、主催している、新しいサッカーリーグだ。2022年に始まり、スペインでの成功(カンプノウに準決勝・決勝に9万人動員した)を機に、既にワールドカップも今年開催された。
(具体的なルールについては、上のサッカーキングの記事を読んでください。)
ピケはインタビューでこのリーグを始めた理由をこう語っている。
個人的にはこのようなより刺激の強いのものを作っていこうという姿勢はあまり好きではない。それでもサッカー界に新たなリーグを設立していいという事例になったことは間違えない。このエンターテイメントは実際にピケの予想通り若者を惹きつけ、9万人を動員している。それくらいスペインではかなりの人気で、ラ・リーガ(日本のJリーグのような国内リーグ)を脅かす存在とまで言われている。
ちなみにラ・リーガの現会長は「サーカス」と揶揄しているそうだが、これは自分の権威の保持に走っている発言と聞こえなくもない。
⑵The Icon League
こちらは前に触れたピケの成功を倣って、元ドイツ代表のトニ・クロースによって設立された新しいサッカーリーグである。より狭いコートで行われ、人数も5人制となっている。まだ今年できたばかりで、まだまだどうなるかは分からない。
⑶MLS(メジャーリーグサッカー)
MLSには昇格・降格制度がなかったり、ドラフト制度というサッカー界ではあまり使われていない制度を設けていたりと少し異質の存在である。そんなMLSはサッカーのルール上でも、独自のルールを採用してきた。
例えば延長戦でも決着がつかなかった場合、通常PK(ペナルティキック)合戦で勝敗を決めるが、シュートアウトというPK戦と同じくゴールキーパーとの1対1であるが、攻撃者はゴールから35メートルの地点からドリブルをし、一定の時間内に シュートを放つというものを採用していた過去がある。
また今シーズンは新ルールとして、「10秒以内交代ルール」と「ピッチ外治療ルール」を導入した。目的としては“時間稼ぎの防止“だが、これもピケやクロースが設立したリーグと同じ趣旨だと思われる。つまり客が飽きないように、スムースな試合運びにしたいということだと思う。
そもそもMLSには上記(1)(2)のリーグのようなエンターテイメント性が高い。
ただMLSは(1)(2)の事例に比べて、リーグ運営、クラブ経営のクオリティが高い。下に貼った記事にこう書いてある。
この難しい二項対立の真ん中をリソースをたくさんかけ、泥臭い草の根戦略で活路を見出しているのが、アメリカのサッカークラブだと思う。客をサポーター(純粋主義主義者)と観光客にキッチリ分けて、細かい施策が行われている。
こういった意味で、前にこのシリーズ第一弾として書いた、レベルからの解放として、MLSは一つの模範解答になっていると思う。
(4)Super 5League
Super5Leagueとは、女子サッカーの需要の高まりに関わらず、女児サッカーのインフラと機会の欠如に不満を感じ、その解決を目指し、2017年にロンドンで草の根的に生まれた女子サッカーリーグである。ただこのリーグの魅力はサッカーというスポーツをゲームだけにと捉えずに、様々な地域や団体との交流を積極的に行なっていて、サッカークラブにできることを広げている。またブランディングにも力を入れているというか、その創る過程をある意味遊びで楽しんでいる面もあっていいなと思う。
参考にさせてもらった記事を二つ貼っておく。
(5)ストリートサッカー
サッカーはどこでやってもいい。このような美しい砂浜でも。
綺麗に整えられた芝のピッチもいいが、泥の中のサッカーも悪くない。
The street soccer。日本では難しいかもしれないけど、こんな雰囲気もいい。パリオリンピックの一つのテーマが「スポーツをスタジアムの外に」だったが、こういう動きは増えていくのかもしれない。ただ大きな資本に取り込まれてもいいのか、悪いのかは始めた人たちがきちんと話し合っておくべきだと思う。
球技大会なのかな。分からないが、この手作りスタジアム感すごくいい。そして発煙筒焚いてるのがまたいい。
こうやって、VARを面白おかしく取り入れるのもいいんじゃない?
(6)体育
体育の授業では、サッカーやバレーボール、野球などを扱う。ほとんどの人がそれなりに経験してきただろう。しかし果たして正式ルールでプレーしてきた人たちはどれくらいいるのだろう。おそらく先生たち(子どもたちも少しはルール作りの話し合いに参加できたかな?)がクラスの子たちのレベルに合わせて、人数やコートサイズ、ルールを変えて楽しめるようにしてきたと思う。もちろん中には「こんなんサッカー(野球など)じゃないよ!」とルール変更に不満を持っていた人もいるだろう。でもそれなりに多くの人がルールが変わってもサッカーならサッカーを、野球なら野球をやっていると感じたのではないか。
また遊びの中では多くの人が自分たち自身で勝手にルールを変更してきたはずだ。ゴールが1つのサッカーをした人がいた人も多いのでは?でもきっとそれをサッカーだと思ってプレーしていたはずだ。おにごっこでは、その場にいる人によって勝手にルールが変更されただろう。能力差が大きいと、バリア5秒までオッケーとか、10歳以上の子はけんけんで走らないといけないとか。ドッチボールも決して正式ルールでやってなかったはず。でもそれはなぜか?そこにいる人が楽しむためではないか?そう、ルールは普遍じゃないはず。
脱中心化の行方
さて、私は脱中心化の考えに基本的に賛同している。しかし脱中心化すればいいというのではない。脱中心化の考えには危険が孕んでいるし、もちろん失うものがある。次回そこを都市、音楽、哲学、そしてスポーツの視点からしっかりとみていきたい。その上で、最後に私個人として、このようなアイデアはどうかという提案まで書きたいと思う。
参考文献
『小論文を学ぶ:知の構築のために』 長尾辰哉
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